幸運の王女(カイザル視点)
影として生まれ、影として死ぬ。
それはカイザル・ノクスフェインが生まれるよりも前から決まっていた結末であった。
先祖の犯した過ちは子々孫々に色濃く発現する程に罪深く、生気を感じさせない艶のない灰色の肌と血のように赤い瞳は忌み嫌われる。そんな穢れた出自を持つダークエルフが生きていくには、時の権力者の手足となって動くしかない。
兄弟姉妹が反発して実家を出た時も、
血を分けた家族の悲惨な亡骸の埋葬を両親から命じられた時も、
王命に従って機密保持の為に老いた両親を始末した時も、
カイザルという影の心が揺らぐ事はなかった。
幸運な王女、平凡な王女と蔑まれるリーシアの婚約相手に選ばれた時も厄介な任務という認識だった。
このまま、王家の影として心無く生きて死ぬのだと、その日が来るまでカイザルはぼんやりと考えていた。
それは、魔法省管轄の尖塔に設けられた地下室での出来事だった。
婚約者といえど淑女たれ規範たれと教えられた生娘のリーシアに唇を奪われた事の衝撃は筆舌に尽くし難く、常に任務を遂行してきたカイザルの思考をいとも容易く純白に染め上げた。
任務の為、女の気を引こうと奮闘した事がある。
ダークエルフでは忌み嫌われるばかりだったので、魔法を用いた変装で上手く取り入り、任務を成功させた。
一晩を共にした時に抱いたのは、虚無感だった。
女の為に経営を傾ける貴族を調査したばかりな事もあり、何かを期待していたのかもしれない。こんなものかと納得して、女を始末した。
エルサリオンを殺害しようとしていた己を止める為に、そういう行為に踏み切ったのだと理解できる。しかし、既に止まったにも関わらず、口元を覆う布をずらしてまで唇を重ねた理由がカイザルには分からなかった。
唇に触れた、柔く暖かい感触。
カイザルはそれを過去に経験したはずなのに、忘れられない。忘れられるはずがない。武器を落とすという、影としてあまりに不甲斐ない現実を認識しながらも、リーシアの顔から目が逸らせない。
ずっと、ずっと見守ってきた。
生まれる前、生まれている時、生まれた後。
幼い頃は何度も高熱を出した日は、体温が正常に戻るまでつきっきりで側にいた。
王女教育の一環で、『差別のない社会』を語る姿を見た。
政治的なパフォーマンスをしなければならないリーシアの苦労を知ったつもりでいた。
だからこそ、カイザルは影である事も忘れて問いかけた。
『殿下は穢らわしいと思わないのですか?』
肯定を望んだ。
影に徹するのがカイザルの役割だ。
人の心は、とっくに失ったのだ。
あれはパフォーマンスであったと、認めてほしかった。
だが、カイザルは知っていた。
リーシアは底抜けにお人好しで、致命的に善良で、悲しいほどに性善説を信じている。
『あなたの何処が穢れているのか、私にはさっぱり理解できません。あなたは王家に仕え、忠実に働いてくれています。そんなあなたを冷遇するほど、私は人の心を忘れたつもりはありません』
リーシアは人と会話をする時は視線が泳ぐ。
相手の顔色を伺ったり、周囲の反応を探っている。
だが、相手に何かを伝えようとする時は真っ直ぐに瞳を見つめる。
迷いもなく断言する姿は、なるほどアルスラやエルサリオンが心酔するだけの迫力がある。ラグナが剣を捧げるのも理解できた。
理解できて、しまった。
胸に湧き上がるのは、未だかつてない歓喜。
全身の細胞が震え、破裂しそうな程に感情が昂る。
────この方は報いてくれる。
────この方は俺を見てくれる。
────この方は俺を許してくれている。
────この方は俺の全てであり、かけがえのない存在。
────この方は神よりも尊く、何よりも優先されるもの。
己の有り様が変わるのを、もはや止められなかった。
いや、止めようという発想すらなかった。
特定個人に向けた忠誠心を口走る己を、いっそ誇らしかった。
必要とされる喜び、受け入れられた感動、そして愛されたいという渇望。
カイザル・ノクスフェインはこの日から影ではなくなった。
リーシアが全ての基準であり、彼女に関わらないものは価値のないものとなった。それは国や仕えていた国王夫妻も含まれる。
城の一画にある、古びた倉庫に埃を被った鏡がある。
その鏡を前に、カイザルは顔を隠す布を取り払った。
髭を生やした精悍な顔つきのダークエルフが、険しい顔で鏡の中から睨み返している。
「殿下は髭のある男を好むだろうか。これまでは変装の為に生やしていたが、他の婚約者は髭がなかったな……」
あまりにも遅い初恋は、カイザルを狂わせるのに十分だった。
「他の婚約者。どいつもこいつも浮ついてちゃらちゃらとした軟派な輩ばかり。特にあのエルサリオンとかいうクソエルフ────」
脳裏を過ぎるのは、リーシアと接吻を交わす銀髪エルフの姿。
気づけば鏡を拳で殴り割っていた。
血の滴る拳を見下ろしながら、カイザルは淡々と呟く。
「殿下に抱きついた上に唇を奪うとは、もはや生かしておけん。殿下に知られないように始末しなくては。お優しいあのお方の事だ、あのような下賎なハエ虫にも憐れみを向けてしまう」
爛々と輝く赤い瞳は揺れる。
リーシアの思考に他の男がいる。その事実がこの上なく不愉快で、その男を殺したくなる。私情で殺意を覚えたのは生まれて初めての経験だった。
「魔法省、厄介だな。俺一人で始末する事もできるが、殿下を不安にさせてしまう。婚約者同士で潰し合わせれば問題ないか……?」
恋敵を排除する事をリーシアが望まない事は理解できても、策を練って密やかに始末してはいけないと理解できない。
影として生きてきたカイザル・ノクスフェインという男は、人の心が分からなかった。




