カイザル・ノクスフェイン 2
魔法省が管理する、尖塔。
城からそれほど遠くない場所にあり、魔法を志す者にとっては憧れの象徴である。
白亜の大理石で構成された壁にはうっすらと魔法陣が明滅し、魔獣と魔物の脅威に脅かされる王国にとって希望なのだ。
その塔の地下に、エルサリオンの研究室がある。類稀な魔法の実力と才能が認められ、個人用の空間が授与されたのは数十年前の事。
いくつもの魔法陣が刻まれた羊皮紙が浮かび、用途すら不明な魔道具と思しき物品がガラス棚に飾られている。
「殿下、ようこそお越しくださいました」
先触れもなく来訪した私を咎めることもなく、優雅に貴族の礼を行うエルサリオン。婚約者に選ばれてから宮廷儀礼の講師からレッスンを受けているという話を父から聞いていたが、長らく受講していた私よりも隙のない気品のある一礼だった。
早朝、寝室に姿を現したカイザルを思い出す。
『殿下、彼は森の民が住まう里で孤児として育てられました。これは異常な事です。長命種であるエルフが出自不明として生まれる事は起こり得ません。恐らくは、彼の持つ魔力が何らかの作用を起こしているかと』
私は何も言わなかったのに、カイザルは僅かな情報から真実に辿り着いた。
『エルサリオンの持つ魔力は人の精神に強く作用します。視察の際にシシリー侯爵令嬢に魔法をかけていたのでしょう。魔獣騒動は、殿下が錯誤するように仕向けた巧妙な罠かと』
まるで、それを間近で見てきたかのように。
『差し出がましい事を申し上げます、殿下。エルサリオンとの交渉において殿下は毅然とした態度で望まれるべきです。彼の行いは王家を謀るものであり、殿下の名誉を失墜させかねないもの。殿下がお望みであれば────』
仄暗い血の色をした瞳を思い出すと、ぞっとする。
彼はやれと言われれば従うのだろう。
それが、どれほど人の道に外れた行いであろうと。
王家への忠誠心、それだけを理由に踏み出してしまう。
「おはよう、エルサリオン。今日は大事な話をしたくてここに来たの」
大輪の花のように顔を綻ばせたエルサリオンは、私の続く言葉に表情を曇らせる。
「昨日の晩、貴方は魔法……いや、魔法以上の力を使いましたね」
彼の瞼が微かに痙攣する。
それも一瞬のことで、生真面目な表情に変化した。
「はい、殿下の仰せの通りです。俺は力を使いました、貴女の為だけに」
胸に手を当て、エルサリオンは饒舌に語る。
「ご心配なく、殿下。調整は必要ですが『血の儀式』は完成させました。貴女だけが使い手です。もちろん、魔獣も各地に配置を──」
私の手を取ろうとした彼の手を払う。
「触らないで!」
また丸め込まれてしまう。それを恐れて、手を払った。
……のだが。
どんがらがっしゃん!
こちらが驚いて固まるほど、エルサリオンは激しく転倒した。
「で、殿下……」
怯えた目で、エルサリオンが私を見上げる。
「あ、ご、ごめんなさ……」
反射的に謝ろうとした私の言葉を遮ったのは、エルサリオンの絶叫だった。
「あああああっ!」
反応するよりも早く、私の腰に長い腕が絡みつく。
しがみつかれている事を認識して、私は悲鳴をあげた。
「な、何をしているのエルサリオンッ!」
「全ては殿下の為だったのです!お許しを!お許しを!」
服が濡れていく。
エルサリオンが大号泣しながら腰に抱きつき、許しを乞うている。
その姿はあまりに鮮烈だった。
「分かってる、分かってるから!」
「分かってません!殿下には俺の気持ちなんて、何一つ!」
エルサリオンの指摘にギクリと体が強張る。
「俺はこんなに殿下が好きなのに、殿下は俺のことを頼ってくれない!もっと俺を必要として欲しいのに!」
顔をあげたエルサリオンの蒼い瞳から、大粒の涙が溢れて頬を伝い落ちる。
じわじわと顔に熱が集まるのを自覚したが、止める方法なんて知らない。エルサリオンの言葉と、服越しに伝わる熱が思考を狂わせる。
「な、あ、あなた、いきなりなにをっ」
「俺の事を信用してくれなかった!あのダークエルフは殿下の差金だろ!俺はこんなに殿下に尽くしているのに、疑うなんて酷い!」
「ひぃっ!」
ぎりぎりと腹部を圧迫する腕。
いよいよ吐きそうになった瞬間だった。
エルサリオンの背後で、閃光が散る。
絶叫が止み、低い声が部屋の空気を震わせた。
「陰でコソコソ嗅ぎ回るような真似をしやがって。俺の殿下に余計な事を吹き込まないで貰いたい」
半透明な壁がぐるりと私とエルサリオンを取り囲んでいる。
幾何学的な魔法陣の明滅から察するに、王国防衛の要でもある結界を展開しているようだ。
号泣していた事が嘘のように、冷たい表情を浮かべたエルサリオンが視線を向けた先にカイザルが居た。
血のように赤い二振りの短剣を手に持ち、結界に突き立てている。
「妨害魔法を展開するとは、随分と品のない振る舞いだなクソエルフ。いつまで殿下にみっともなく縋りついているつもりだ。その穢れた手を離せ。王家に対する不敬罪と反逆罪でこの場で首を切り落としてやる」
純然な殺気。私に向けられたものではないが、それでも身の毛がよだつほどに恐ろしかった。
腰に抱きついていたエルサリオンからも、膨れ上がった殺気が飛ぶ。
「それはこちらの台詞だ、穢れた一族め。今すぐ殺してやる」
エルサリオンが片手をカイザルに向けた。
その掌に、禍々しい光が宿る。
地下とはいえ、攻撃魔法を放っては地上に被害が出る。
大惨事を引き起こす前に、二人を止めなくては。
「二人とも、やめなさい!」
私の言葉は、二人に届かない。
殺気と魔法の応酬に集中する彼らにとって、やはり私の言葉など取るに足りないものなのだ。
無力感と焦燥に駆られた私は、まず大惨事を引き起こすであろうエルサリオンから有形力の行使を実現することにした。
昨今の魔法は大発展を遂げているが、未だ無詠唱という技術は確立されていない。例え小声で短くても詠唱を必要とする。
詠唱を妨害するには、やはり口を覆うのが最適だ。
しかし、私の手では腕力で引き剥がされる。
「エルサリオンっ!」
「な、なんだ!」
大声で名前を呼べば、びっくりしたように顔を上げるエルサリオン。
最近は叱ってばかりいたからなのか、怯えた色があった。
視線はこちらに向けているというのに、カイザルに向けて魔法を行使する速度や精度は変わらない。
その両頬に手を添え、詠唱を紡ごうとした唇を塞いだ。
「で、殿下ぁっ……」
力が抜け、ふにゃふにゃと地面に倒れ込むエルサリオン。
雪のように白い肌が赤く染まっていた。
どうやら私の事が好きだという発言は、真実だったらしい。
エルサリオンの方は鎮静化に成功したが────
「ッ!」
カイザルが両目をかっぴらきながら短剣を両手に突っ込んできている。部屋の端から端を一瞬で詰める速度を止める方法など私にはない。なので、両手を広げてエルサリオンの前に立つ。
私を避けようとした、一瞬の体の捩れ。
その肩を掴み、身を引こうとしたカイザルと距離を詰めた。
魔法を詠唱しようとする口を、布越しに塞ぐ。
からんからん、と短剣が床に落ちて乾いた音を立てる。
一歩引こうとした彼との間合いを詰めて、布をずり下げてまた塞ぐ。
皮向けの酷いガサガサと下唇が引っかかって痛みが走った。
無言で膝から崩れ落ちるカイザル。
節目がちに口元を押さえるエルサリオン。
口元を濡らす血を手の甲で拭い、私は宣言した。
「この勝負、私の勝ちだ」
私はここに何しにきたんだっけ、という疑問が浮かんだのは、騒動が落ち着いてすぐの事だった。




