カイザル・ノクスフェイン 1
四人との婚約が告げられた夜。
私は歴史書を片手に満月が浮かぶ空を寝室のバルコニーから見上げていた。
現実が変わった。
初代国王が成し遂げた魔獣の封印は一時的な先延ばしに貶められ、王家の歴史書には『血の儀式』が記されている。そして、私は封印の力に目覚めた姫という立場になっていた。
足元が崩れていく感覚に襲われる。
私の即位を阻む声は、もうどこにもない。私に、魔獣を封印する力はないと言うのに。
「彼と、話をしなければ……!」
震える声で、やるべき事を口に出す。
そうでもしないと、信じられない出来事の数々に心が折れてしまいそうだ。
「彼、とは?」
私以外、誰もいないはずのバルコニー。
突然聞こえた男の声に、体が強張る。
振り返った私の視界に飛び込んできたのは、見覚えのある男だった。
寝室とバルコニーの境界線、月明かりに生じた影から生まれ出でたかのように、その男は立っていた。
「……カイザル、驚かさないでちょうだい」
灰のように艶のない肌、顔のほとんどを布で覆い、隙間から血のように赤い目が覗く。黒曜石のような黒髪と尖った耳は、王家の影と呼ばれる一族の証だ。
「殿下、御身はなによりも尊くかけがえのないもの。雑用は下々の者に任せるべきなのです。さあ、誰に何のご用なのかお聞かせ願えますか」
有無を言わせぬ口調で、王家の在り方と尋問を行うカイザル。
私は彼が苦手だった。血のように赤い目は考えが読めないし、彼の素顔というものを見た事がない。毎日のように王族の護衛を行いつつ、統治の補佐を行う姿はまるで機械じみていて完璧だった。
「いえ、なんでもないわ」
エルサリオンの力の事を話す訳にはいかない。
いくら平凡な王女と罵られていた私でも、エルサリオンの能力がどれほど恐ろしいものか分かっているつもりだ。もし父や母、カイザルが能力の事を知れば、気軽に話しかける事ができなくなる。
変化する前に戻すには、エルサリオンの協力が必要なのだ。
きっと、話せば分かってくれるはず。
私が彼の気持ちも考えず振る舞ったから、暴走しただけ。
まだ、なんとかなるはずだ。
「もうこんな時間だわ、明日の公務に備えて休まなければ」
カイザルが頭を下げ、一歩退くと夜の闇にどろりと消えた。それを見届けてからバルコニーに通じるガラス扉を閉め、鍵をかける。天蓋付きのベッドに潜り込み、頭から毛布を被った。
……いったい、いつから近くにいたんだろう。
バクバクと早鐘を打つ心臓を、胸の上から押さえつける。
部屋の扉は鍵をかけていたし、外からバルコニーに飛び移ったにしても足音ひとつしなかった。
考えの読めないアルスラ、暴走気味なエルサリオン、神出鬼没のカイザル、忠誠に篤いラグナ。彼らの事を考えると気が重くなる。この政略結婚の事を、彼らはどう考えているのだろうか。
時々、彼らの視線が怖くなる。
私の背が低いせいで、彼らの目に光源が入らないからだと思うが、明暗のない瞳でじぃっと見つめられると怖さが何よりも先に来てしまう。
前世で恋愛経験があれば、相手の気持ちが少しは分かっただろうか。
悩んでいても仕方ない。
まずは一人一人に向き合わないと。
毛布から顔を出す。
カイザルがベットの横に立っていた。
悲鳴を飲み込む。
「……カイザル、どうして寝室にいるの?」
私の問いかけに、彼は静かに答えた。
「それが私の責務だからです、殿下」
答えになっていない。
護衛は部屋の外でもできるし、幼児の頃は付きっきりだったが十代の頃には一人で寝ていた。
「部屋の外でも護衛できるでしょう?」
私の言葉にカイザルは真っ直ぐな眼差しで答えた。
「あらゆる危険から貴女を守るのが私の仕事です、殿下」
会話が成立しない。
困り果てていると、カイザルの方から口を開いた。
「先ほど仰っていた『彼』というのは、エルサリオン魔導卿のことでしょうか」
毛布の下で拳を握り締める。
誤魔化す方法を考えても思い浮かばず、苦い顔で彼を見るしかなかった。
「夜に寝室を抜け出し、会いに行くほどに彼を好ましく思っているのですか?あるいはアルスラでしょうか。政治学について時間を忘れて議論されるほどでしたから」
「うぐ」
エルサリオンに向ける感情は、恐怖が八割だ。
それでも逃げようと思わないのは、彼に向ける情がまだ残っているからだろう。
アルスラとの婚約破棄に踏み切れていないのも、縋る彼を振り解くのは引け目を覚えている。微笑むしかない彼の境遇をどうにかしてやりたいという焦燥に駆られてしまう。
『お前と話していると、アイツらに揶揄われるんだよ!もう話しかけてくんな、ブス!』
前世、小学校にて幼馴染に叫ばれた言葉。
遊んでいた次の日、般若の形相で告げられた拒絶を、私は今でも克服できていない。あの日から私にとって男の人というのは、理解できない存在だった。
でも、温室で出会ったエルサリオンと、お茶会で出会ったアルスラはそんな気配が微塵もなくて。
無条件に向けられた優しさが嬉しかったのに。
「カイザル」
「なんなりと、殿下」
カイザルの主な任務は、父と母の護衛だ。
手足となって情報を集め、国内外から差し向けられる刺客や諜報部員を炙り出す。こうして話すようになったのも、先日の視察と婚約によるもの。
「……貴方も知る通り、私には四人の婚約者がいます。いずれもこの国を統治する上で必要不可欠な人材であり、国外への流出は何を置いても防がなくてはいけません」
カイザルは無言で私を見下ろしている。
その沈黙は重たく、苦しい。
「全員に好かれなければならない。しかし、彼らの機嫌を取るような振る舞いをすれば国が揺らぎます」
母から、幼少期より言い聞かせられた事がある。
『人の心を捨てなさい。統治者とは装置であり、象徴。感情のままに行動する事は悪手だと知りなさい』と。
無条件で他人を信じるな。
相手の弱みを常に探れ。
常に優位に立て。
考えるだけで、気が滅入る。
人を疑う事が苦手だった。言葉の裏を探る事が苦手だった。
苦手な相手と関わるのが苦手だった。
誰かと優劣をつける作業が苦痛だった。
でも、これは私が引き起こした事態だ。
私の弱さがエルサリオンの暴走を招いた。
私の未熟さが両親を不安にさせた。
決断しなければ。後手に回り続けるのはお終いにしなければ。
その為にも、エルサリオンとの話し合いを必ず成功させないといけない。失敗すれば、私は彼に逆らえなくなってしまう。そんな直感じみた予見があった。
かといって、私だけでは丸め込まれてしまう。
助けが必要だ。強力な助っ人が。
「……私はエルサリオンと『交渉』するつもりです。彼はすぐに私の意図に気づいて、丸め込もうとするでしょう」
カイザルの顔を見据える。
相手の弱みを探れと暗に命じる私の卑劣さを、彼は蔑むだろうか。
「助力を必要とする、私の弱さと愚かさを許してくれますか?」
相手から断る理由を奪う卑怯な私を、誰も糾弾してくれない。
カイザルは片膝を床につけ、頭を下げる。
「全ては殿下の御心のままに」
どろりと消える、男の残像。
その血のように赤い目が何を考えているのか、私には分からない。