エルサリオン・カイレンドール 6
両親から婚約の話を聞かされた晩。
どうにも眠れず、気がつけばあの温室に足を運んでいた。
「リーシア殿下」
月明かりに照らされたエルサリオンが、ベンチに腰掛けていた。
私に気がつくと、美しい笑みを浮かべる。すぐに立ち上がり、私をベンチへと案内する。
「お怪我の具合は……ああ、よかった。傷跡は残らなかったようですね」
掌を撫でる、エルサリオンの長い指。
怪我を治療する為、高額な素材を使ったポーション薬を自ら調合してくれた。まるで分かっていたかのような手際の良さだった。
シシリーの身に起こった事件だが、王家の影を使った調査でも、エルサリオンが関与したという証拠や不審な点は見つからなかった。見事に潔白であった。
それでも、胸中に沸いた不安は消えない。
温室でのエルサリオンと視線と、ダイヤモンドネックレスという贈り物と、再会した時の振る舞い。どうしても引っかかるものがある。
「エルサリオン、貴方に聞きたいことがあるの」
「殿下の質問ならば喜んでお答えいたします」
「血の儀式という古代魔法……城のどの文献を漁っても、王家にそんなものがあったという記述が一つも見当たらないの」
彼は悪事を働いていない。それは確かだが、一側面でしかない考え方だとようやく思い知った。
「貴方、嘘をついたでしょう?」
エルサリオンは静かに微笑んだ。
「流石は殿下です。俺の企みを見事に暴かれた」
「どうして、あんな嘘を……シシリー様が死ぬかもしれなかったのよ?」
「アレが死ぬと不都合がありましたか?」
アレ。彼は今、生きている人間のことをアレと呼んだ。死ぬと困るのかと私に問いかけた。私が話しているのは『困る困らない』の話じゃないのに、彼の認識はそこなのだ。
種族の違いなのか、それとも価値基準が狂っているのか。
正さなくては。
王家の者として、王位継承者として。
エルサリオンの歪みを正さなくては、いつか取り返しのつかない事になる。
「エルサリオン、シシリー様の事をアレと呼ばないで」
「……かしこまりました」
言葉にこそしなかったが、不服なのは見て明らかだった。
付き纏われていた事に同情するが、策を弄して貶めるのは間違っている。
「私がどうして怒っているのか、言葉で説明します。さあ、ベンチに座って」
「殿下が立っているのに、俺が座るわけには────」
「私の命令が聞けないというの?」
エルサリオンを睨みつける。
小娘が見上げる形なので、怖さも何も感じないだろう。しかし、私の怒りが伝わったらしく、渋々とベンチに腰掛けた。ようやく視線が同じ高さになった事に驚きつつも、それを隠して腰に手を当てる。
「まず、今回の騒動を引き起こした理由について確認します。エルサリオン、あなたは私の視察を成功させ、私を取り巻く環境を変化させたかった。そうでしょう?」
エルサリオンがコクリと頷く。月明かりを受けてもなお、美しい銀髪がさらさらと流れた。
「あなたを不安にさせたのは、他でもない私の未熟さと弱さ。王家の者として、見せてはいけないものをあなたに見せて、背負わせてしまった」
ここでエルサリオンと話している間だけは、王女である事を忘れてただのリーシアで在れた。隠していた弱みを見せても幻滅されない事が嬉しかった。でも、それは私の独りよがり。
苦しむ誰かの姿を見て、『助けたい』『力になりたい』と思う。エルサリオンもそうだったのだろう。だから、暴走してしまった。彼のできる限りの手段で、その他を軽視させてしまった。
「あなたにとってシシリー様はきっと良い人ではなかったのだろうと、風の噂で聞いております。彼女の事は私が責任を持ってあなたに近づかないように指導します。だから、もう彼女を傷つけないでほしいの」
怒ろうとした気持ちはすっかり萎んでしまった。
元はと言えば、全て私のせいなのだ。
浮かれて何も考えないで行動して、大事になってから青褪める。
私は、何様のつもりでエルサリオンに説教をしているのだろうか。
誰よりも非難されるべきは、私なのに。
エルサリオンの視線から逃げるように顔を俯ける。
シシリーの顔が瞼に蘇る。
苦しみ、恐怖に引き攣った表情。命の恩人だと感謝され、手を握られた私が全ての元凶だと知ったらシシリーはきっと幻滅するだろう。
それでも、私が受け入れなければ。
「ち、違います、殿下!殿下に落ち度は何一つありません!全ては、俺が、俺のせいなのです!」
エルサリオンが地面に這いつくばって、頭を擦り付ける。
「……もう、よいのです。エルサリオン」
ピタリとエルサリオンの動きが止まる。
かたかたと小刻みに震えていた。
「私は、この件を父上と母上に報告しなければなりません。処罰を受ける事になるでしょうが、当然の報いといえますね。全ては私が、未熟であったのですから」
父と母には、既に視察の件で何度か聴取を受けている。
特に血の儀式については、執拗な程に何度も。酷く困惑した様子で、本当にエルサリオンがそんな事を言っていたのかと聞かれた。きっと私より先に真実に辿り着いていたのだろう。
エルサリオンが私の婚約相手に選ばれたのも、視察の騒動が自作自演であることを黙らせるつもりで王家に迎え入れたのかもしれない。王家に連なる事は、名誉な事だという価値を両親は持っているから。
外に出ようと、踵を返したその時だった。
「報告しても無駄ですよ、殿下」
ゾッとするような、低い声。
エルサリオンに視線を戻す。
「血の儀式が存在しない事、魔獣の復活が嘘である事、それらを証明できるのは俺一人。信じるのは殿下だけです」
幽鬼のようにふらふらと立ち上がる彼の、月明かりに照らされた薄ら笑いに全身が粟立つ。
「ご覧ください、殿下。あの月夜に舞う妖精たちの姿を。我ら森の民は、満月の深夜に最も力を増す」
「いきなり何を言い出すの?」
嫌な予感がした。
とてつもなく、取り返しのつかない事が起きる予感が。
「俺は一族の中でも、類い稀な力があります」
エルサリオンの手が私の頬に触れる。
血の気が失せて体温の低い私と対照的な、エルサリオンの汗ばんだ熱い掌。大粒の汗を流し、青ざめた顔でありながら、爛々と輝く蒼い瞳が私を見下ろす。
「全ては俺の思うまま」
違和感が、私を襲う。
知っているはずの記憶が捩れていく。
知らないものへ、見たこともないものへ。
「貴女の即位を拒む者はいない。貴女が王となる。その隣に立つのは俺だけでいい。俺の思い通りにならない、貴女だけが俺の隣に」
心臓が早鐘を打つ。血管の中を血が轟々と流れる。
エルサリオンの歪みを正す?
私は彼の何を知っていたというのか。
温室で会話をした彼は穏やかで、優しくて、思いやりがあって。
視察での彼は冷酷で無慈悲で手段を選ばない狡猾で残忍。
過去が、現実が、彼の思う通りに変化する。
その流れに取り残されるのは、私ただ一人。
「殿下、俺の全ては貴女の為にある」
その言葉の恐ろしさを、私はようやく思い知った。