エルサリオン・カイレンドール 5
白を基調とした救護室。
用途も分からないような、様々な魔道具が所狭しとガラス張りの戸棚に並べられていた。
王女の急な訪問に、救護室の担当者は焦っていた。
慌てて傅こうとする彼を片手で制し、早歩きでシシリーが休むベッドに近寄る。
「シシリー様」
呼びかければ、薄らと目を開けた。
焦点の合わない視線で、聞いたこともない言葉を紡ぐ。
「先ほどからこの調子なのです。ご家族に連絡はしたのですが、意識が戻らないようなら神殿へ移送すると。治療に最善を尽くしているのですが、精神に作用する高位の魔法は我が国でも前例がなく……」
学園長の言葉が終わらぬうちに、私はシシリーの手を握った。
疑惑が、確信に変わる。
「魔獣に魂を蝕まれています」
いつも形見のブレスレットを嵌めていた腕に刻まれていたのは、魔獣の爪痕。獲物と定めた対象に、心身を弱らせる呪いを埋め込む。古文書の授業でしか見かけた事がなかったそれが、今ここにある。
「え?魔獣って、あの神話の!?」
エミリーが驚く。
無理もない。神話でしか語られない存在の仕業だと主張されても、すぐには信じられない。
「ふむ、魔獣か……」
エルサリオンが考え込む。
彼は、この件に関しては無実ということになる。どうしてあのような振る舞いをしたのか疑惑は残るが……証拠もなく、疑わしいだけで罰するわけにもいかない。
今はそれよりも、シシリーを助ける方法を考えなければ。
父と母ならば、魔獣の呪いについて何か知っているのでは?
侍女を呼びつけようとした私の目に、シシリーの顔が飛び込む。
「た、すけ……て……」
弱々しく握り返したその手を、私は振り払えなかった。
「王女様!シシリー様を助けてあげて!」
その方法を、私は知らないんだよ!
そう叫びそうになった瞬間だった。
「ああ、思い出しました。王家に伝わる血の儀式魔法ならば可能かと」
エルサリオンが、いきなり変な事を言い始めた。
「儂も聞いた事がない魔法ですな。どのようなものなのか、お聞きしてもよろしいかの?」
学園長は恐る恐る、しかし好奇心を抑えきれない様子で問いかける。
エルサリオンは頷いて、説明を始めた。
曰く、王家に流れる封印の力を解放する古代魔法だという。
血を媒介とする魔法である為、使い手は限られる。
「その発動方法を、王家の私が知らないのですけれど」
「魔獣しか封印できない魔法で、その封印も永遠に盤石とされていましたから、失伝するのも無理はないかと」
血の儀式と呼ばれる古代魔法など、聞いた事がない。
たしか、歴史の講師はこう語っていたはずだ。
『封印の力は一代限りのものだったが、二代目の王が思慮深い名君であったことから王国制度が始まった』と。なら、エルサリオンの語る話は何だ?
「幸いにも、血の儀式について記した本を過去に読んだ事があります。残念ながらその本は四十年前の火事で燃えてしまいましたが、記憶力には自信がありますからご安心ください」
エルサリオンは流暢に喋る。学園長に視線を向ければ、火事は過去にあったとの返事。魔法学園に不満を持つ学生による放火らしい。人命は失われなかったが、学園が所有していた貴重な資料や本が焼失したそうだ。
エルサリオンは信用に足りる人物なのか。答えはまだ定まらない。
しかし、今は猶予がない。
何もない私は、彼に賭けるしかないのだ。
「エルサリオン魔導卿、貴方の記憶にあるという『血の儀式』という古代魔法について、詳しい話を聞かせてもらえるかしら?」
「王女殿下の御命令とあらば喜んで」
エルサリオンは優雅に傅いて、私の手の甲に額を押し付けた。
◇◆◇◆
救護室の奥、純白のカーテンで仕切られた空間が、急拵えの儀式の場となった。道具などは片付けられ、床にクリスタルを細かく砕いた欠片で魔法陣を描いている。エルサリオンが記憶を辿りながら描いたものだ。
その中央、寝台にはシシリーが静かに横たわっている。
「王女殿下は魔法陣の中心ではなく、周縁にお立ちください。そこから魔力と血を流し、魔法を発動させます」
エルサリオンの低い声が救護室に響いた。
彼の指示に従い、目印をつけられた箇所に立つ。
「この魔法は血に宿る封印の力を使って、魂に巣食う穢れを祓います。血を媒介とする為、痛みを伴う事はご了承願います。ご安心を、魔法が起動したならすぐに治療いたします」
エミリーが震える手で短剣を差し出した。
細身の刀身は冷たく光り、銀の素材以外に余計な装飾がない。初代国王が愛用していたとされる護身用の短剣の模造品だ。その切れ味は、人の柔い皮膚なら容易く切り裂くほどに手入れされている。
周囲に見守られながら、短剣を受け取った。
込み上げる恐れと不安を、無理やり飲み込む。
王家に生まれた者の責任だと、逃げ出そうとする己を説き伏せる。
「……っ」
片膝をつき、短剣の刃を握り締め、勢いよく引き抜く。
侍女たちの悲鳴と、護衛の歯軋りが聞こえた気がした。
零れ落ちた赤い雫が魔法陣に触れる。
ずん、と空気が重さを増す感覚に襲われると共に、半透明の魔法陣が赤黒く変色していく。
「シシリー様が!」
エミリーの声に顔を上げる。
シシリーが横たわる寝台から、ドス黒い靄が吹き出していた。
それらはやがて形となる。爛々とした血に飢えた赤い眼、杭のように太く鋭い牙、獲物を狙う顎。獰猛な狼の姿をした不定形の化け物。
【これは珍しい、忌々しい血の特性がよりによって無能と呼ばれた者に覚醒するとは】
その言葉に反応したのは、エルサリオンだった。
「不快な!古の魔獣如きが、あの方を侮辱するな!」
エルサリオンの紡ぎ上げた魔法が、魔獣を捕らえようと渦を巻く。しかし、その魔法は魔獣を捕えることなくすり抜けてしまった。
【ぐふ、ぐふふ、森の民が人間と暮らしているのか。あれほど至上の生き物は森の民だけだと豪語していたのになあ?無能な娘の色気に下半身が疼いたか?】
「貴様っ!」
「エルサリオン、見え透いた挑発に乗らないで」
「申し訳ございません」
叱りつけると、エルサリオンはすぐさま口を閉じた。
【ほお、未熟な小娘が早くも王気取りか】
「黙りなさい、その女性を解放して」
獣は嘲笑う。
妖精の言葉が本当なら、この獣は私に才能がない事を知っているのだろう。だけど、関係ない。王家の血は、民のために受け継がれたもの。血を流すだけで、無能な私でも人が救えるというのだ。これほど楽な事はあるまい。
【断る。この娘の心は、ちょうど吾輩の好みなのだ。誰にも愛されず、一番にもなれず、最愛にもなれない。心の傷を抉ってやるとなあ……】
シシリーが苦悶の呻き声を漏らす。
思わず拳を握りしめてしまい、血がボタボタと滴り落ちる。
魔法陣の輝きが増し、空気の粘性がどんと増す。
「人の心を傷つける悪しき獣、あなたのあるべき場所はここではない。去れ、消えろ、もう彼女を苦しめないで!」
魔法陣が閃光を放ち、床のクリスタルが共鳴して歌うように震える。空気が爆ぜ、まるで天の帳が裂けるかのように魔獣の身体が引き裂かれた。
【忌々しい……忌々しい……我が呪いを凌駕する、その力……必ず、お前の喉笛を噛みちぎってやる……そして、その血の全てを我が腹の内に……】
ついに魔獣は形を保てず、ぶわっと崩れた。
粘ついた、あの嫌な空気が頬を撫でる。
灰と化したクリスタルの残骸が、霧散していく。
シンとした静かさが場を支配する。
「シシリー様!」
暴れる彼女の手を握る。
焦点の合わなかった視線は、私の顔を見た。
「おうじょ、でんか……?」
それから、シシリーはゆるゆると視線を周囲に向ける。
きょとんとした顔で、上体を起こした。
「ここは、どこ?どうして王女殿下が私の手を握って────」
「シシリー様!」
エミリーも駆け寄り、反対の手を握る。
あまり面識のない二人にいきなり手を握られたシシリーは、酷く困惑した様子だった。
「よかった、意識が戻ったのね」
緊張が解けたのか、ポロポロと涙が溢れる。釣られてエミリーも泣き始めた。何故か侍女たちも目を潤ませている。
エルサリオンがそっと言葉を紡いだ。
「見事です、王女殿下。今、貴女は魔獣を退けるという偉業を成し遂げたのです。初代国王しかできなかった事を。時代は貴女を選ぶでしょう」
初の公務は魔獣の影響が今もなお発生しているという事実を暴いた。
そして、魔獣に呪われていた令嬢を王女が救ったという話はたちまちのうちに民衆にも広がった。
それまで『より才能のある者を王座に』と声高に叫んでいた者たちは少しずつ減り、『封印の力を持つ姫を次の王座に』と望む世論が強まった。同時期にエルバトラン侯爵夫人と次期国王と目されていた公爵の不倫が発覚し、日和見を決め込んでいたはずの貴族たちは世論に押される形で王女擁立へ傾き始めていた。