育児放棄された騎士の隠し子を拾ったら、いつの間にか妻扱いされています
こんな場所に、赤ん坊が捨てられているなんて——。
霧雨の降る夕刻、わたしは屋敷の裏門へ回収物の整理に行ったとき、ずぶ濡れの小さな命に出逢った。
バスケットの中で泣きじゃくる赤ん坊は、どうやら生後数か月ほど。薄い毛布一枚だけが頼りない防寒具代わりだ。慌てて抱き上げると、ぱっと泣き声が弱まり、そのままくったりとわたしの胸に顔をうずめた。
「どうして……こんな場所に……」
わたしは孤児院の出身だ。だからこそ、雨の中で捨てられたこの子を放っておくなど到底できなかった。声を上げずに震える幼い身体を必死に温めながら、屋敷の主人や執事に報告しに走る。わたしはこの領主邸で住み込みの侍女をしているパトリシアという。領主の爵位は伯爵、その家はハルトマン伯爵家だ。ここは大貴族というほどではないが、家の規律は厳しく、使用人たちはいつも重んじられている。
執事に知らせると、伯爵も急遽呼び出され、騒動になった。赤ん坊はすぐに女官たちの手で着替えや温かい飲み物の手配を受け、回復していく。誰の子なのか、何があったのか——皆で心当たりを探していくうちに、ある人物の名が浮上した。
「この家紋入りの手紙が添えられていたのですよ。これによれば、子の父親は……レナート・ノーマン卿、だそうです」
執事が小さく息をつきながら見せてくれた紙片には、確かに見覚えのある紋章が押されていた。ノーマン家は王国でも名門の騎士の家柄で、現当主のレナート卿は若くして武勲を立てている有望株。騎士団に所属し、領主一族とも親しくしているという話は聞いたことがある。
「わたし、面識はないんですけど……」
「ええ、レナート卿は伯爵家に客分として出入りしていますが、頻繁ではありませんからね。ただ、手紙にこう書かれていたということは……」
皆の視線が揃って困惑に沈む。レナート卿にはすでに婚約者がいるという話だ。なのに、この子は彼の血筋であると示されている。だが、その真偽を確かめなければ始まらない。結局その場で決まったのは、一度レナート卿本人を呼んで話をするということ。そして、その子の世話は当面の間わたしが引き受ける、ということだった。
翌日。まだ身体が安定しない赤ん坊を部屋で看病していると、執事に案内されてレナート卿本人が現れた。長身で鍛え上げられた体躯、深い青の瞳に金色の髪。噂に違わず、いかにも絵に描いたような若き騎士……のはずが、わたしの第一印象はそれどころではない。
「そんな子は知らない。俺に押し付けるのはやめてくれ」
最初の言葉が、それだったのだ。驚いてしまい、わたしも執事も一瞬声を失う。
彼は赤ん坊を一瞥しただけで、まるで厄介ごとだと言わんばかりの冷たい視線を向けた。手紙のことを提示しても、「そんなものは知らない」「どこかの悪い冗談だろう」と、まるで耳を貸さない。
「でも、この子が騎士様の子である可能性は高いんですよ。もし違うと言うなら、なぜこの家紋を使われたか説明が必要ではありませんか」
執事の問いかけにも、レナート卿は「調べるが、当分は俺の知ったことではない」と言い放った。こうして、あっさりと赤ん坊を見捨てて出ていこうとする。
「お、お願いです、せめて名前だけでも……」
引き留めようとしたわたしに、彼は振り返りもしないで応じた。
「名が欲しけりゃおまえが決めればいいだろう。俺には関係ない」
そんな言葉を残して、彼は足早に去っていった。
彼の背中を見つめたまま呆然と立ち尽くすわたしに、赤ん坊の声が小さく響く。その小さな泣き声に我に返り、抱き上げれば泣き方が少し収まる。放っておくことなど、わたしにはできない。
こうして赤ん坊はハルトマン伯爵家の一室で、とりあえずわたしが育てることになった。大がかりにはできないが、伯爵や執事が最低限の生活費を援助してくれる。もっとも、わたしにとって赤ん坊の世話は初めてだが、孤児院で年下の子たちの面倒を見ていた経験が少しは役に立った。
「あなたは、そうね……『コリン』と呼ばせてね」
何より、この小さな命を見ていると自然に笑みがこぼれた。父親が名乗り出ずとも、わたしが守ってあげよう。そう思わせるほど、コリンは可愛らしい子だった。
初めのうちはばたばたの毎日だったが、侍女仲間たちや屋敷の料理人など、みんなが協力してくれた。寝室に同室で置かせてもらい、空き時間を見つけてはコリンにミルクをあげる。おむつ替えや洗濯も、多少は慣れているから問題ない。赤ん坊の世話で睡眠不足になるのはなかなか大変だったが、それを補って余りあるほどコリンは可愛い。
そんな生活が始まってしばらくたった頃、ようやくレナート卿から連絡が届いた。書状には、簡潔な文面だけ。『近々そちらに伺う。子のことで話がある』
「……今さら、どういった風の吹き回しでしょうか」
執事も苦笑混じりで首を傾げる。わたしの方は少し緊張しながらも、「せめてコリンのためになる話ならいいけれど」と、淡い期待を抱いた。
そしてその当日。わたしはコリンを抱いて応接間に通された。そこには、甲冑を外した軽装のレナート卿。以前とは異なる面持ちで、少し険しいが真っ直ぐな視線を向けてくる。
「……子は、元気か」
わたしが黙って頷くと、レナート卿は少しだけ目を伏せてから言った。
「悪かった。あのときは、取り乱していた。突然そんな話を持ってこられて、正直困惑していたんだ」
困惑していたのはこっちもだ。けれど、わたしは飲み込んだ。上手く言えないが、彼にも彼なりの事情があるのだろうかと思ったから。
「たしかに、この子は俺の子らしい。……母親が誰かはわかっている。だが事情があって、その女性は姿を消した。俺の立場ではすぐに認められなかったんだ。今は裏付けが取れて、ようやく動き出せる」
そう言う彼の表情は、先日のような冷淡さとは異なる。どこか焦燥を帯びていた。何があったのかは詳しく話してくれないが、相当に複雑な事情が絡んでいるのだろう。
「申し訳ないが、その子は俺にとって大切な血筋だ。……これからは俺が引き取る。騎士の跡継ぎとして責任を持って育てるから、任せてくれ」
やや強引に言うレナート卿に、わたしはコリンを抱きしめながら静かに問いかけた。
「それは……もう騎士様が本気でコリンを育てるということですか?」
「ああ。だから、何も心配はいらない。おまえもこれで重荷が取れるだろう?」
表情には確かに真剣さがあったが、わたしの胸には複雑な思いが渦巻いた。コリンをただの“重荷”として引き取ろうとしているわけではないのか。彼が言う「大切な血筋」としてという響きが、どこか引っかかる。
けれど、わたしはただの使用人。コリンのためには、父親の家に行った方が幸せかもしれない。それは頭でわかっている。
「わたしよりも、騎士様の方がきっと……経済的にも、教育的にも……」
言葉を繋ぎながら、コリンのちいさな顔を覗き込む。わたしはもう手放さなければならないのか。そう思うと、胸が痛んだ。
しかし、ちょうどそのときコリンがぐずり始めた。わたしが慣れた手つきであやすと、すぐに泣き止む。レナート卿が微妙な表情のまま、その様子を見つめていた。
「その……な、なぜあんなにすんなり泣き止むんだ?」
「わたしは孤児院で小さい子たちのお世話をしていたので、慣れているんです。騎士様は……赤ん坊の抱き方、わかりますか?」
「抱き方……? そんなもの、普通に抱けばいいんじゃないのか」
勢いで言い放つ彼だが、わたしがコリンを抱いたまま「ではどうぞ」と近づくと、彼はうろたえて右往左往し始める。
「え、ええと……そう、こう……か?」
「腕にしっかり頭を乗せてください。ほら、首がすわっていないので支えてあげないと。そうです、ゆっくりね」
必死に赤ん坊を抱こうとする彼の姿は、騎士というより戸惑う大人そのものだ。コリンがちょっと泣きそうになるたび、「お、おい、どうすれば」と目で助けを求めてくる。
正直、騎士という立場であるなら護衛や戦場では心強いだろうに、こういう細かなケアは苦手なのかもしれない。わたしは少し安心すると同時に、どうにもしっくりこない気持ちが大きくなる。
結局、レナート卿はその後何度か屋敷に通い、コリンの顔を見に来た。最初のうちは抱き上げさえままならなかったが、わたしが根気よく教えていくうちに、少しずつ慣れてきたようだった。
ただ、その過程でわかったのは、彼はあまりにも“父親になること”に実感がないということ。もちろん頑張ろうとしてはいるのだが、どうにもどこか他人行儀なのだ。
「おまえ、毎日こんなに何度もおむつ替えやらをしてるのか……すごいな」
「コリンは赤ん坊ですから、当たり前ですよ。夜泣きだってしますし、ミルクも二、三時間おきに与えないといけません」
「二、三時間おき……?」
わたしがさらりと言うと、彼は目を丸くしている。今まで子育てなどしたことがないのだろう。だが、父親になろうというのであれば、これくらいの苦労は当たり前だ。
そんな中、ある日レナート卿が急に口調を変えて言ってきた。
「おまえ、コリンの世話はだいぶ板についてるな。……いや、もうおまえは家族のようなものだ。いっそ、ノーマン家で一緒に暮らさないか」
「えっ」
唐突なその提案に、わたしは面食らった。レナート卿が視線をそらしながら続ける。
「最初はおまえがこの子を拾ったというから、ただの使用人だと思っていた。だが、見ていてわかった。おまえはコリンにとってなくてはならない存在だ。それなら、なおさら俺の屋敷で暮らして、正式に……」
「ちょ、ちょっと待ってください、正式にって……わたしは騎士様の屋敷に雇われるということでしょうか?」
「雇われる……いや、そうではなくて……おまえが母親としてコリンを育てるのが自然だろう? だから、もう家族でいいじゃないか」
「家族って……そんなに簡単な話じゃ……」
当然戸惑いが大きい。彼はまるで、自分が勝手に決めればすべてが上手くいくと思っているように見える。
「騎士様は婚約者の方がいらっしゃるとも聞きました。わたしの立場では、とても受け入れられません。何より、わたしはコリンの世話をしているだけで、家族になるなんて、そんな……」
わたしの言葉に、彼の表情が一気に曇る。
「あの話は……もう先方が一方的に破談にしてきた。俺に隠し子がいると知って、取り繕う余地もなくなったんだ。その点は……済まないな」
そう言って彼は薄く笑ったが、その笑みはどこか痛々しい。おそらく、婚約破談はレナート卿にとっても大きな損失だったのだろう。しかしわたしとしても、悪いが同情だけで彼の望むようにすぐに家族になれるわけではない。
「そもそも、わたしには伯爵家での仕事がありますし、そんなにすぐ生活の基盤を変えるわけには……」
「子育てに関しては俺にもまだ不安がある。それなら、おまえが手伝ってくれればいい。伯爵に掛け合えば、ノーマン家に籍を移すこともできるだろう」
「それとこれとは別問題です。……第一、あのとき騎士様は、コリンのことを“俺には関係ない”と断じられたじゃありませんか。正直、わたしはあれが今でも胸に引っかかっているんです」
彼はぐっと言葉を飲み込み、目を伏せた。
「あれは……本当に悪かった。さっきも言っただろう、色々事情があって……だが、この子を放棄する気はなかったんだ。こんなに長い間、おまえに苦労をかけてしまったのは俺の落ち度だ。だからこそ、今からはおまえとコリンをしっかり守りたい」
「それでも、わたしがあなたの家に行くのは、また別の話です。何より、わたしはあなたとは何の約束も交わしていませんし……」
「約束なら、今からでも交わせばいい。おまえが嫌でなければ、正式に結婚という形でも……」
「ちょっ……!」
突然の“結婚”という単語に、わたしは慌てて声を上げる。いくら何でも飛躍がありすぎる。わたしが混乱していると、彼は不器用に口を結び、恥ずかしそうに視線を逸らした。
「俺は……おまえのような女性を放っておけば、いずれどこかへ行ってしまうような気がしたんだ」
「……そんな、わたしはどこにも行きませんけど……」
「おまえはどこにだって行けるだろう。孤児院出身で、それでもちゃんと自分の足で歩んでいる。コリンだって守っている。でも、俺にはおまえが必要なんだ。頼む……今さらかもしれないが、一緒に歩んでくれないか」
彼の声には切実さが滲んでいた。かつて冷たく突き放してきた人が、今は逆に縋るように言っている。遅すぎるかもしれない、でも今の気持ちを信じてほしい、と。
わたしは、コリンの寝顔を見つめながら考える。もしわたしが彼の申し出を断れば、コリンは騎士の家で父とだけ暮らすことになるのだろうか。でも、レナート卿一人で子育てなどできるのだろうか。コリンは、あのときのように放り出されることはないのだろうか。
子育ては、想像以上に骨が折れるし、ときに孤独だ。わたしだからどうにかなっているけれど、彼は戦場や任務で留守がちになることも多いはずだ。赤ん坊を取り巻く環境が不安定なままでは、いずれ不幸になるかもしれない。
「……コリンのために、もう少し考えさせてください。わたしはあなたの出した提案のすべてを断るつもりはありません。でも、これまでのいきさつを思うと、あまりにも唐突で……」
そう伝えると、彼はほっとしたように息をついた。わたしが完全に拒絶しなかっただけで、少しは望みがあると思ったのだろう。
「わかった。すぐに返事をとは言わない。ただ、あまり待たせないでくれ。俺の立場もあるし、コリンの成長を考えれば、早く安定させたいから……」
「はい。なるべく早く答えを出すようにします」
そうして、その日は終わった。
その後、わたしはハルトマン伯爵に相談した。執事も同席し、「レナート卿がまた子をないがしろにすることはないのか」「パトリシアの身分やこれからの待遇は大丈夫なのか」と、かなり慎重に尋ねてくれた。伯爵家も、わたしをどこか無責任に放り出したいわけではない。むしろ、わたしを評価してくれるからこそ、最善を考えてくれたのだ。
レナート卿は結婚を前提とした正式な同居を希望している、ということを伝えると、伯爵や執事は目を丸くしていたが、最終的にはわたしの意志が何より大切だと言ってくれた。
そしてわたしは、孤児院での暮らしを思い出す。辛いことも多かったが、仲間同士が支え合い、誰もひとりぼっちにならないように手を取り合っていた。わたしがコリンを拾ったのも、その延長かもしれない。ならば、コリンがこの先もひとりぼっちにならないためにはどうしたらいいのか……。
悩んだ末に、わたしはコリンを抱えてノーマン家の屋敷を訪ねた。玄関にはすでにレナート卿が待っており、わたしの姿を見つけると安堵の息をつく。
「来てくれたんだな。……それは、答えが出たということか?」
「はい。ただし、条件があります」
「条件……?」
わたしはじっと、彼の瞳を見つめる。かつては赤ん坊を突き放したその瞳は、今は動揺を隠せないままわたしを見返している。
「わたしはコリンの母親代わりとして、あなたを支えます。でも、もう二度とコリンを放り出さないと誓ってください。どんな事情があろうと、この子を傷つけないと。それと、わたしのことを都合よく“家族扱い”する前に、きちんと形を整えてほしい。わたしを囲うとか侍らせるとか、そういうのではなく」
「もちろんだ。俺は、おまえとコリンを二度と離すつもりはない。……誓うよ。おまえを、ただの使用人扱いなどしないし、この子も大切に守る。今までの態度は償いたい」
頭を下げてくれるレナート卿の姿は、かつての高慢な騎士の面影とは少し違うようにも見える。彼もまた、色々なものを失い、それでも守りたいものを見つけたのだろうか。
わたしはコリンを彼に渡す。彼はもう慣れた手つきで、赤ん坊の頭をしっかり支えて抱き上げ、優しくあやす。コリンはきょとんとした顔をしたあと、やがて小さな笑みを浮かべる。
「やった……笑ってくれた」
嬉しそうに笑うレナート卿。その横顔を見ていると、今までのわだかまりが少しずつ溶けていくようだった。
「わたしも、まだあなたのことを好きとかそういうわけではありません。ですが、コリンが一番幸せになれる形を一緒に見つけていきたいと思います。少しずつ、わたしたちも前に進めたら……」
「……ありがとう。そう言ってくれて、本当に嬉しい」
こうして、わたしは名門騎士の“隠し子”コリンを抱えてノーマン家に入る決断をした。遅すぎる後悔を噛みしめるレナート卿と、今さらかもしれないけれど歩み寄ろうとするわたし。お互いに失った時間もあるし、簡単に埋め合わせができるわけではない。
それでも、コリンの笑顔がわたしたちを繋ぐ懸け橋になることを信じている。
生まれてしまった溝は、簡単に消えはしないけれど、少しずつ乗り越えていけばいい。愛されなかった赤ん坊が、今は確かに愛を受けて育ち始めているのだから。
不器用ながらもじわじわと始まる、わたしたちの子育てと家族の物語は、まだ序章にすぎない。だけど、きっとこの先は——それぞれが選び取る決意と、支える心で、より温かい未来が開けていくはずだ。
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