【第1夜 ② 母と凱 】
はっと目覚める。
「大丈夫か?」目をゆっくり開けるものの、ぼんやりとしてまだはっきり見えない。でも聞いただけで分かるいつもの優しい声、凱の声だ。
「凱。私…。」
「100m走で走り出してすぐに倒れたらしい。佑依が知らせてくれて、俺が保健室まで運んできた。」
「そうだったんだ…ありがとう。」
「だから無理するなって言ったろ。」
「うん。…家に…、お母さんに知らせてないよね?」お母さんに知られたら…と焦って起き上がろうとするのを凱に抑えられ、
「ああ。そう言うだろうと思って、先生には連絡しないよう言っておいた。」
「よかった…。ありがとう、凱。」私がほっと一息つくと、話し声に気づいた先生が様子を見にくる。
「よかった。目が覚めたのね。」
「はい。すみません。ちょっと寝不足で。」
「そう?寝不足なんて…、悩みでもあるの?」
「それなりに…。」私は適当に答える。すると、
「いつもの4人の中で、2番目に悩みなんて無さそうなのに…。あっ、もちろん1番は玄人君よ!」先生がおどけて言う。
「先生、それはそうかも…、いや間違いないですけど…。ひどくないですか?」私が苦笑いしていると、先生は笑いながら、
「ごめんなさい。ちょっとからかってみたくなっちゃって。だって、武城君みたいな男の子にお姫様抱っこされて運んできてもらうなんて…、もう羨ましすぎて…。先生、どきどきしちゃうし、妬けちゃうわ…。あっ…と、ごめんなさい。先生ちょっと暴走しちゃったわ。うふふ。じゃなくて、何かあったら先生聞くから何でも言うのよ。無理しちゃだめだからね。家に帰ってしっかり休んで。」そう言って、にこっと笑う。
保健の林田先生は、見た目通りやわらかい雰囲気と優しさを兼ね備えた先生だが、大の少女マンガ好きで、いつも生徒を少女漫画の目線で見ては楽しんでいる、やや難ありの先生だ。しかし、私達4人は部活の関係で、入学してからというもの、かなりお世話になっている。
「ははは、先生。今日も絶好調ですね。ありがとうございます。凱に送ってもらうので大丈夫なんで…って、また先生、何か妄想してますね?」私がじっと見ていると、
「そうよね~、二人はお隣さんだし…、幼馴染だし…。最高の少女漫画設定ね!うんうん、よかったわね、宮國さん!ってことで、武城王子、お願いね。」先生はニタニタしている。凱はちょっと呆れ顔で、
「はい。了解です。もう少し休ませてから帰るんで…。あとは任せてください。」そう言って、悪ふざけが過ぎる先生を凱は追い出し、また戻って来て、
「俺がいるから、もう少し寝ていいぞ。大丈夫だ。」そう言って私のおでこをポンポンとする。
「うん。」と答えた私は、再び目を閉じる。
常に冷静沈着で頭脳明晰、高校に首席入学したほどの頭脳を持つ凱は、私の一番の親友であり、理解者、時に保護者的な存在で、私は絶対的信頼を置いている。特級クラスのイケメンで、寡黙なためにクールなイメージがあり、なかなか女子も近寄りがたいのか、凱が私以外の女子と話しているのは滅多に見ない。しかし、性格は穏やかで優しく、かつ、とても情熱的な人であることは、幼馴染の私しか知らないだろう。
不可解な夢で、精神状態が不安定な私だったが、凱のおかげで安心して眠りにつくことが出来た。
その後2時間ベッドに横になり、それから先生が呼んでくれたタクシーに乗って学校を出る。それまで凱は、ずっと私の様子を見ていてくれたらしい。
学校を出てしばらくすると、凱が突然切り出す。
「お前、寝不足って嘘なんだろ?」私は凱の言葉に驚いて体をびくっとさせる。
「え?なんで?」
「怪我しているんだろ。歩き方もぎこちないし…。」
「…。」私は何も言えず黙ってしまう。
「朝からおかしかったもんな。いつ怪我した?昨日までなかったよな?」
本気で心配する凱の優しい声と澄んだ目に見つめられ、
「凱なら信じてくれるかな…。」私が呟くと、凱は私の顔を覗き込む。
「なんだよ、それ。ちゃんと話してくれ。」凱の心配そうな顔に、私は少し考えて、タクシーの運転手に聞こえないように小声で、
「でも信じてもらえるか分からない。自分でも分からない事だから…。」そう言う私に凱は、
「話してくれないと、信じるも信じないも何とも言えないだろう?とりあえず、話してみろよ。」そう言って、凱は私の肩に手を置く。私はうつむいていた顔を上げて、凱の目を見る。凱はうんと頷き、私もその目にうんと頷くと自然に涙が溢れてくるのを感じる。
それから夢と怪我の話を自分が覚えている限り話す。話し終えてため息をつくと、凱は私の腕の傷を見ながら、
「夢の傷と、この腕と背中の傷が同じ場所ってことか…。」
「そう…え?私、2カ所切られたとしか言ってないけど…なんで腕と背中って知ってるの?」
「え?ああ、さっき見たから。」
「見たって?いつ?」
「お前が倒れて抱き上げた時、背中に違和感あったから、保健室で…。」ここまで言うと凱も、はっと気づいて、口に手を当てる。
「え?なんで?やめてよ、勝手に…。何やってんの?」
私は自分の顔が真っ赤になっていると確信し、恥ずかしさに下を向いて、
「もう、マジで恥ずかしい…。」私は顔から火が出るくらい真っ赤にして、凱の腕を叩く。凱はそれを避けようと腕を上げて防ごうとしているが、その顔はすでに私以上に赤い。やってしまった感から必死で謝ろうと、
「あっ…。俺…。マジごめん…。」と言って、顔を上げることが出来ない。
お互いの顔を見れないほどに照れてしまい、無言の二人を乗せたタクシーの運転手が、声こそ聞こえないものの、思春期の微笑ましい私たちのやり取りを見て、1人微笑んでいたのは言うまでもない。
タクシーで帰ってきたなんて、人一倍心配性の母に知られたら大事になると、家から少し離れたところでタクシーを降りた私たち。初夏の爽やかな風が、火照った私たちの顔を覚ますように吹き抜けていく。
しばらくお互いに、なんとなく気まずい雰囲気の中、無言で歩いて家に向かう。
「ただいま~。」何事もなかったかのようにリビングにいる母に声をかけ、神様に帰宅の挨拶をする。
とはいえ、我が家は特定の宗教を信じているわけではない。ただ、神様はいる。そう小さいころから信じている。食事の前はもちろん、一日の始まりと終わり、出かけるときと帰宅したら、必ず神棚のようなものに、「感謝」の挨拶をする。【のようなもの】と説明するのは、ちゃんとした神棚ではなく、母がリビングの一角に、白い布の上に御神体として光の角度で青く輝く、ラブラドライトのような石を置き、季節の花を飾るといった程度のものだ。一日に何度も手を合わせる習慣は、よく家に出入りしている凱にもしっかり定着していて、私に続いて帰宅の挨拶をする。
「今日も無事、家に戻りました。ありがとうございます。」二人揃って、深々と頭を下げる。
「あらっ?今日は早かったのね。」母が笑顔で出迎える。でも今日に限って言えば、母と話したくないというのが正直な気持ちだったので、適当に返事をする私。
「うっ、うん。」
「今日は学校が早帰りだったんですよ。あれ?莉羽、伝えてなかったのか?」凱は感心するくらいに、いつもいろんな面で機転が利く。
「あっ、そう。ごめん、お母さん。伝えるの忘れてた。」
「なんだよ、莉羽。しっかりしろよ。全く。」
「そうだったのね。凱君がしっかり者でよかったわね、莉羽。」母はそう言って笑いかける。
「うん、ほんとに。」私はばつが悪そうに返事をすると凱が、
「ちょっと寄って行きますね。」と母に伝える。
「どうぞ。あっ、そうだ。よかったら夕飯も食べていってね。」凱は母のお気に入りなので、何かと理由を付けては家に呼んでご飯を一緒に食べる。凱の両親が海外赴任をしていることもあり、一人で暮らす凱を気にかけているから余計だ。
「ありがとうございます。」凱はそう言って、私の後に階段を上がり私の部屋に入る。
椅子に座って一息つくと、凱が本題に入る。
「夢の中での怪我が現実でも残ってる…どう考えても非現実的だな。でも…、昨日も一緒にいたし、お前がそんな怪我をしていないのは知っている。」凱は冷静に話す。
「寝る前にいつもみたいに話したじゃない?あの時はなかったの。」私たちは寝る前に窓越しに話をすることもよくあり、昨夜も今年の競技会の予定について話していた。
「…寝てる間に自分を傷つけるっていう変な癖がないかぎり、そんな怪我をするわけはないしな…。」凱はニヤッとこちらを見る。
「どんな癖よ…。」私は苦笑いで答える。
「こんな状況でゆっくり休めって言っても無理だよな…。でもとにかく横になって休め。寝付くまで俺がここにいるから。」凱はそう言って布団をポンポンと叩く。
「うん、ありがとう。無敵な位にいつも元気だけど、この状況はちょっと…。」私がうつむいていると、
「お前、のほほんと見せながらいつも気を張りすぎてるもんな。俺がちゃんと隣にいるから大丈夫だ。安心して休め。」凱はそう言って不安をどこかに吹き飛ばしてくれるような優しい眼差しで私を見る。私は頷き、
「うん、ありがとう。凱。」そう言って目を瞑ると、私はすぐに眠りに落ちた。
【スースー】私の寝息が静まり返った部屋にかすかに聞こえる。私の寝顔を見つめながら、
「おい、もう寝たのかよ…早いな…。って、油断しすぎだろ?まあ変に意識されないほうが好都合だけど…。」凱はぼそっと呟き、
『いよいよか…始まるんだな…覚悟しないと…。』凱が天井を見つめ、何かを考えている。
眠った私を確認した凱が階段を降り、リビングに行くと、母の莉月が椅子に座っていた。
するとそこに姉、莉奈が大学から帰ってくる。
「あれ、凱君来てたの?」
「お邪魔してます。」
莉奈は辺りを見て、
「莉羽、どうしたの?」
「疲れて寝ちゃったみたいなのよ」
「え~?あんな元気印ちゃんが?珍しいね。」
「そうなのよ。お母さんもびっくり。…ところで莉奈、今日は体調どう?」
「うん。大丈夫。今日はすごく気分がいいの。」
「そう、よかった…。あと、変な人が声かけてきたら、すぐに言うのよ。」
「わかってるって。じゃ、二階上がるね。凱君またね~。」ご機嫌な感じで階段を上がる莉奈。
病気のせいで、10歳くらいからほとんど外出できていなかった莉奈は、色白で体も細く、可憐な雰囲気を持つ。そんなイメージのせいか、大学に入って間もないというのに、しょっちゅう声をかけられているようで、話を聞いている母としては、体調だけでなく、異性関係も心配なようだ。おそらく男の人から見たら、守ってあげたくなる、そんな雰囲気があるのだろう。元気の申し子のような私からしたら、羨ましい話である。
母は莉奈が自分の部屋に入るのを確認すると、深刻な顔で切り出す。
「莉羽、どんな感じ?かなり動揺してるわよね?」
「はい。昨夜の夢をはっきりと覚えていて、腕と背中の二カ所、切りつけられた傷が残っていることに不安を感じてます。」
「そう…。とうとう始まったのね。」母は深刻そうな面持ちで目を伏せる。
「このままだと、莉羽自身がこの訳の分からない状況につぶれてしまいます。」
「そうね。まだ状況を把握するのは難しいでしょうね。流れに逆らうのも危険だけれど…様子を見て消しましょう。」
「はい。」
母と凱は周りの様子を伺いながら声のトーンを落として話す。そして、お互いにこれから起きるであろう事態を憂慮して、心なしか表情も暗い。
母と凱の会話の最中、眠りの中にいる私は、この先にどんな困難が待っているかなんて知る由もなかった。
「幕が上がった。さてさて、どんな物語を見せてくれるのか…。脇役も徐々に集うであろう。」
顎から胸にまっすぐ伸びた髭を撫でながら、その老人は少年のような瞳で興味深そうに地上を見上げる。