喋れない悲運の男爵令嬢は商人の家に身売り同然で嫁がされるが、ポジティブすぎてなんやかんやあって幸せになりましたとさ
母が私に呪いをかけた。
「アラーラ。貴方は一切喋らないで。せめて結婚するまではおとなしくしていなさい」
それは私が十歳の時だった。
母は不思議な力を持っている女性で、時々彼女の放つ言葉は真実になった。
そして私は声を失い、それからまもなく父が亡くなっても、その五年後に母が亡くなっても同じだった。
声一つ出せない私を周囲はどう思ったのか。
ヒソヒソと聞こえる悪口は、だがもっともなものだった。
役立たず、陰気。真実なのだから反論する理由もなく、私はただ黙るしかない。
跡継ぎの兄が成人するまで代行を務めていた母が亡くなったせいで、男爵家は十七歳の兄が継いだ。親類にはまだ早いと言われたが兄は自分ならできると根拠のない自信を見せてその座に座った。
母の残したマニュアルで、当分はなんとかなると思う。当主代行補佐すら私に押し付け、遊び歩いている兄が当主として仕事ができるのか、それが少し心配だったけれど本人にやる気があるのなら良いだろう。
だけど私が思っていた以上に、兄は賢かったらしい。
「アラーラ。今日の仕事はこれだけか」
頷く私の目の前に、兄は掴んだ書類を放り投げる。
「やっておけ。俺は社交に忙しいんでな」
そう言ってそのまま執務室を出て行ってしまった。
母が亡くなる直前まで代行補佐を務めていた私は、仕事の殆どを理解している。長年母の傍で補佐をしていたのだから、領地の収穫量について歴代の統計、領民の嘆願書へ対する解答、王室から賜る俸禄についての収支や書状について把握していた。
兄は私が「そう」であることをきちんと理解しているのだから、賢いと言わざるを得ない。
母が私を「そう」使ったように、兄も私を使う事に決めたのだろう。
本当に賢いと思う。私はそんな事を考えつきもせず、遊び歩く兄はただその生活を改めるとすら思っていたのだから。
遊びと政務、両立させる方法を思いつくのだから、兄は本当に賢い。
しかしそんな生活を一年ほど続けると、兄は突然私に宣言した。
「おまえは出しゃばりすぎだ。領民から俺に敵意が向いてるじゃないか。もっとうまくやれ」
首を傾げた。
でしゃばるなと言われても、以前は母がやっていた公の行事を行ってくれるはずの兄は遊び歩いているのだ。それならば私がやるしかないだろう。
そう書いて渡すと、兄はフンと鼻を鳴らしその紙を破り捨てた。
パラパラと散る紙片を眺めながら、私は絨毯に落ちた紙は拾うのが面倒くさいなどと考えていた。
「喜べアラーラ。お前の結婚を決めてきてやったぞ。声も出せない陰気な女を娶ってくれる家だ。感謝しろ」
そう言って兄は粘ついた笑みを浮かべた。
「俺の結婚が決まったしな。嫁ぎ遅れの妹がいては、妻にも迷惑だろう」
そちらが本音なのだろう。確かに私というお荷物がいては、兄の奥さんには迷惑かもしれない。それに今この家の家長は兄なのだ。私はただそれに従うしかない。
こくりと頷く私に、兄は満足そうに腕を組んだ。
それから二か月後、兄の結婚式が執り行われた。
末端とはいえ貴族の結婚式、やろうと思えばこんなに急ピッチでできるものなのかというほど、準備は大変だった。もちろん兄の代わりにその手配のほとんどを私が行った。
兄の奥さんは男爵の娘だった。我が家と同じ男爵だが一代貴族の娘で、つまり父親だけが男爵と呼ばれるが家族そのものは平民なのだ。ややこしいが、その父親が功績を上げた素晴らしい人だという事実がある。
しかし身分など些末な問題だった。
兄と支えあい、幸せになってくれるなら何者でも良かったのだが。
「アラーラ、貴方早くお嫁に行ってくれないかしら。新婚家庭に小姑がいちゃ迷惑なのよぉ?」
義姉にとって私は迷惑な存在だったらしい。
家はそれなりに広いし、会わないと決めたなら会わなくても過ごせる程度には使用人もいるのだが、義姉にすれば存在する事自体がうっとおしいらしい。
今日もわざわざ執務室にまで足を運び、ソファにどっかりと腰を下ろし、メイドにお茶を淹れさせて、私に不満をぶつけるのだ。
曰く、兄が遊び歩いて帰ってこない。
曰く、私が陰気なのが気に食わない。
曰く、食事が思っていたより貧相だ。
曰く、ドレスがもっと欲しいんだから金を出せ。
要約すればこんな感じだった。
兄がフラフラしているのは結婚前、いや母が生きている時からだったし、私が陰気なのは母の呪いのせいだ。
金が出せないのは昨年この領地が寒波に見舞われて作物の収穫量が減ったからだし、これは天候によるものだから仕方がない。
使用人を解雇すれば資金が出るなどと言われても、その使用人だってここの領民であり、この家が雇用を生み出している。そんなに簡単に首を切る事などできない。
丁寧に紙に書いて説明しても、義姉には読む気がないのか一瞬で紙は床に舞う。
この夫婦は、やることがなんだか似ている。
そんな事を私が考えているとはつゆ知らず、姉は「もういいわ」とソファを立った。
「どうせ貴方は一か月後ここからいなくなるんですもんね。それまでの辛抱よ」
兄からは「妹が執務を譲らない。結婚まで仕方ないから預けている」と聞いているらしい。初耳だ。とりあえず兄にでも理解できるように、領地経営に関する書籍を取り寄せてマニュアルを書き残しているから問題ないはずだが、今この家に無駄遣いをする余裕はない。
兄の結婚式も本人たちの希望を汲んで随分華やかにしてしまい、出費がかさんでいる今、できたら慎ましく暮して欲しいものだが。
「ねえ知ってる? 貴方の嫁入り先は商人の家なのよ。貴族と縁を持ちたいからって、随分あの人に支払ったらしいわよ。笑っちゃうわよね」
コロコロと笑う義姉の言葉に驚いた。
それは初耳だ。
しかし確かに兄が取り付けてきたという結婚は、その後なんの進展も聞かなかった。結婚にはどうしても金が動くし、私が嫁ぐとなれば持参金が必要だ。だから何度も兄をせっついたが、一切教えてくれなかった。
「だから安心して。貴方は持参金も、ドレスも、メイドも、何も持っていかなくていいの。その身一つで嫁ぐから、お金がかからないどころかお金が入る金の卵って訳」
驚愕にポカンと口を開く私に、義姉は勝ち誇ったような顔をした。
「一か月後って聞いているわ。それまでにせいぜい、貴族として最後の生活を楽しみなさい」
そう言って彼女は執務室を後にした。
噓でしょ。
私は絶望するしかなかった。
それからきっちり一か月後。
義姉の情報通りに私の嫁入りの日となった。
結局兄本人から情報を聞かされたのは、私が嫁入りする一週間前だった。
だけど本当に身ひとつで良いと言われ、持っていく荷物はわずかなものだった。
急かすように馬車に乗せられ、見送ってくれる人は一人もいない。
それを寂しく思わなくもないけれど、兄も今日からはいよいよ執務に向き合わなければいけないし、義姉にもそれを支えてもらわないといけないのだ。
私なぞを見送るよりも、そちらの方が最優先なのだからと納得した。
ギイギイと車輪が鳴って馬車が動き出す。
それが十六年暮した我が家と、最後の別れだった。
※※※
前情報も何もなく、ただ商人の家だと言って聞かされ向かったのは、なかなかの大きな店だった。荷物と共に無言で馬車から降ろされたその目の前には、活気に溢れる店構えがある。
大きな道路に面した二階建てのその建物には、何人ものお客が絶えず出入りをしていた。
達者な文字で、ピッツラ商会と書かれた看板が掲げられているから間違いない。
ロア・ピッツラ。
それが私の旦那様の名前だ。
昨日兄からようやく聞き出したその名前を、私は心の中で反芻する。
本よりも一回り大きな書き板を出して、私はそれに文字をつづった。声の代わりに相手に伝えるための、私の相棒だ。
そしてそれを従業員らしき人物を捕まえて掲げた。
――今日からこの家に嫁ぐアラーラと申しますが、ロア様はいますか?
さすがに商会で働く人間は、読み書きができるらしい。
だが私と書き板を何度も見比べて、それから驚いた顔で奥へと飛び込んでいってしまった。どうしたのだろうか。
しばらくすると、先ほどの従業員が若い男性を伴って出てきた。
薄い栗色の髪の毛をした、顔立ちの整った人だった。
「……きみがアラーラ? まさか、貴族の娘が一人でここにきたのか?」
胡散臭そうにする男性この人が、私の夫ロアだろうか。
私は慌てて書き板に文字綴った。
――馬車は私と荷物を置いて帰ってしまいました。こちらが我が家の用意した婚姻届の控えです。
そうして筒状にした書状を男性に渡した。
貴族の婚姻は教会に届け出が必要で、この婚姻届けに相手の名前を書く必要があるのだ。それをもって私は貴族位を除籍とされ、正式に結婚した事が認められる。
なお平民にはこんな面倒な手続きはない。
大抵は結婚式という名のお披露目会で、結婚した事となる。
だからこの婚姻届けは既に教会に提出した証明であり、私とロアが夫婦になった事を示している。
書状は珍しく兄が用意してくれた。
男性は渡した書状を矯めつ眇めつ、二枚目の紙を広げるとそれから大きく息を吐いた。
「嘘だろう……」
これが頭を抱えて項垂れる男――ロア・ピッツラ。これが私の夫との最初の出会いとなった。
なんとか立ち直ったらしいロアに連れられて入ったのは、商会の二階にある一室だった。
応接室と会議室を足したような、そんな部屋だ。
その部屋の質素なソファに座るように促され、それからドタバタと幾人かが入ってきた。
恰幅の良い男性と、同じような体形のご婦人だ。
「ロア、ロアあんた本気だったのかい! まさか本当に嫁に貰っちまうなんて!」
その言葉から察するに、この人がロアの母親、つまり私の義母だろうか。
ロアをガクガクと揺さぶり、信じられないと言う態度を崩さない。
となると、その隣で顔を青くする男性が、ロアの父親だろう。
「いくら男爵家の娘でも、持参金無しでの嫁入りなんて聞いたことがない! それどころか結婚したら謝礼金を払う契約まで交わすとは……商人にあるまじき失態だぞ!」
初めて聞いた内情に、私も目を見開いた。
そういえば先ほど渡した婚姻届けは二枚あった。
一枚が教会からの控え、おそらくもう一枚が義父の言う契約書の控えなのだろう。
二人から責め立てられたロアはぐったりとした様子で口を開く。
「もう酒は辞めるよ……」
「当たり前だ!」
「当たり前でしょう!」
どうやら兄とは酒場で出会ったようだ。そして酔わされてまんまと私を押し付けられた……といったところか。
向こうにしてみたら、金は取られるは嫁は押し付けられるわ、良い事がない。
その上。
「しかし……喋れもしない嫁、ねえ。うちは商人の家だよ? 貴族の嫁なんて愛想以外取り柄がないだろうに。それすらない嫁なんてただの金食い虫だよ」
義母がそう渋るのも仕方がない。
嫁入りだからと着せられた母のドレスは、舞踏会に行くのかと言われるほどに華やかで、どこからどうみても金食い虫のいでたちだ。
普段は平民と大して変わりない、ただのワンピースで生活しているのだと言っても信じてもらえないだろう。
「お前は愛嬌も気立てもいいからなぁ。ワシは果報者だよ」
「やだねアンタったら」
イチャイチャする義父と義母、額に手を当て天を仰ぐ夫、そしてただただおとなしく座るしかない私。室内は混沌を極めていた。
※※※
商人にとって、契約書は絶対なものだ。
彼は不満を口にしながらも、仕方がないとばかりに慌てて結婚式の用意をしてくれた。
その日の夕方には小さな宴会場が用意され、結婚式という名の宴が開かれた。このスピード感は嫌いじゃない。
話がどうまわったのか、周囲からの視線は痛いものの、それは私が嫁ぐに至った経緯を考えればいたしかたないものだと思う。
はたから見れば私は、ただ押しかけてきた嫁なのだから。
だからいやいやながらも責任を取ろうとするだけ、この一家は誠実なのだと私は思う。
「おーい、ロア。お前こんな綺麗な嫁さん貰うなんて聞いてなかったぞ! おめでとう!」
酒が随分回っているのか、赤ら顔の男が私たちの座る新郎新婦席にやってきた。
だけど私の隣に座る夫は、ふてくされた顔を隠さない。
「いくら綺麗な顔をしていても、喋れもしない。貴族の娘なんか着飾る事しか能がないんだから、うちの店にとってはただの負債だよ」
「がっはっは! 言うねえ~! どうせ結婚なんて人生の墓場だ! ほら、飲め飲め!」
男はそう言って、不機嫌そうなロアに酒を飲ませた。
結局宴が終わるまで、夫とは一度も視線が合うことがなかった。
この家に来て半日、急ピッチで整えてくれたという夫婦の寝室のベッドに私は腰かけた。
店から少し離れたところにある家は、家族だけが暮しているのだという。平民の家にしては珍しく風呂場があって、経営状況は悪くない事が察する事ができた。
望まれぬとはいえ、結婚だ。
式も終わり、次になにが待っているかは私も知っている。
さすがに緊張して落ち着かない。
そわそわしていると扉がギイと小さく鳴った。
「起きていたのか」
ロアは眉をしかめてそう言った。
それはそうだろう。今夜は初夜だ。夫婦の初めての夜なのだ。
妻として仕事を全うしなければならないに決まっている。
書き板を取り出し、その旨を記そうとする私をロアは手で制した。
「お前の兄と酒を飲んでいたことを思い出した。あの頃は失恋して、最悪な気分だったよ」
結婚を考えていたはずの女性が他の男と結婚して、弄ばれた事を知って傷ついていた彼は、遊びに繰り出した先でうちの兄と出会ったらしい。
それでなんだかんだと口車に乗せられて、私と結婚する書状を書かせられた挙句、無事結婚した暁には謝礼を渡すという契約書まで結ばされたという。
賢い兄の事だ。
おそらくロアが酒に弱い事も、経営者としての自覚が弱い事も、全て折り込み済みでその契約書を用意していたのだろう。
きっと今頃は面倒な妹も片付けられて、その上入ってくるであろう謝礼金を考えご機嫌に過ごしていそうだ。あの兄にはそういうちゃっかりとした面がある。
ただ夫には申し訳ないが、その謝礼金で少しでも領民に還元できるのなら大変助かる。それくらい、今年のあの家の収支は危ないのだ。
ロアは今日何度目かわからないため息をついた。
「結婚はする。だがもうきみに出せる金はない。頼むから何もしないでくれ」
悲痛な呟きを聞いた瞬間、喉の奥に不思議な感覚が宿った。
あたたかい光が膨らむような、そして何かを押し上げていく。
思わず喉に両手を当てると、それはパチンと弾けるような感触があった。
私にはこれが何なのか、すぐに分かった。
「喋ることもできない貴族の女なんて、面倒を押し付けられたものだ」
頭をかきむしる夫に、私は思わず叫んだ。
「大丈夫!! 喋れまあす!!!!!」
「ひっ!?」
おっと、久しぶりに声が出たものだから声量の調節に問題があったらしい。
ロアは驚いた顔で耳を塞いだ。
おそらくロア自身が「私と結婚する」と認めたことで、母のかけた呪いが解除されたのだろう。
結婚するまで一切しゃべらず、おとなしくしている事。それが母のかけた呪いだからだ。
「改めて初めまして旦那様!!!! アラーラと申します!!!! 誠心誠意、旦那様のために尽くしたいと思いますのでどうぞ!!! よろしく!!! お願いしまあああああす!!!」
声量調節がまだ上手ではないけれど、私の意気込みは伝わったようだ。
避けられていた視線が合うのだから。
ただ夫であるロアの顔色はなぜか悪い。震えてもいる。
やはり祝宴で飲みすぎたのではないだろうか。
「あ、あの……俺はちょっと今夜は別の部屋で寝る……」
先ほどまでと打って変わり、なぜかおずおずとした様子の夫はそう言い残して部屋を出て行ってしまった。
初夜だというのに取り残されてしまった私は、少し考え、それから納得のいく解答に思い至る。
「なるほどロア様は飲みすぎて!!!! アレが役に立たないという状況ですね!!!! それは初夜も完遂できないのも!! いたしかたないです!!!!」
おっと小さな独り言のつもりが、また大きな声が出てしまったようだ。
私は換気の為開けていた窓を閉めてると、それから大きなベッドで一人転がった。正直私も今日は疲れていたので、初夜が延期になった事は純粋に助かる。
慣れない一日を過ごした私は、そうしてその晩は一人でぐっすりと眠ったのだった。
※※※
翌日。
気持ちの良い朝だった。
普段より早い時間からぐっすりと寝て、いつもの習慣で夜明けと共に目が覚めた。今までは執務代行に忙しく、基本的に日付が変わってからしか眠ることができなかったのだ。
こんなにゆっくり睡眠をとれたのは、母が亡くなって以来初めてかもしれない。領主代行補佐と領主代行を一人で行うのは流石に時間が足りず、睡眠時間を削るしか方法がなかったのだ。
手伝ってくれる人がいなかった、つまり私に人望がなかったと言われればそれまでだが。
兄は大丈夫だろうか。
窓から見える青空、その向こうで元気に過ごしているだろう兄をつい心配してしまうが、これは私の悪い癖だろう。
いま私はもう貴族の娘ではなく、平民の、商人の嫁なのだ。
実家の事は兄に任せて、私はこの家を盛り立てるために努力していく。
昇る朝日を眺めながら、決意を新たにした。
「おはようございます!!!! 旦那様!!!!!! 朝食の用意はいかがしましょうか!!!!!」
「うわああああああ!!!!!! な、なんだっ! なんだなんだ!?」
私のイメージでは、そっと旦那様の耳元で囁いたつもりだった。
だけどまだ音量調節がへたくそらしく、随分な声量で叫んでしまっていたらしい。
気持ちよく寝ていたロアは一瞬で飛び起きて、周囲をきょろきょろと見渡している。
驚かせてしまって大変申し訳ない。
「私です。あなたの妻となったアラーラです。朝食の用意をしてもよろしいですか」
努めて小声を出して、それでようやく人並みの声量になった事にホッとした。
耳を抑えていたロアも、おずおずと手を離してくれた。
「あ、アラーラきみか。驚かせないでくれ。しかもまだこんな時間じゃないか。早すぎる」
すっかり皆起きる時間だと勘違いしていたが、この家の人たちにとっては早朝だったらしい。それは申し訳ない。
「朝食が欲しいのかい? すまないが用意はまだできていない。貴族の娘だからってわがままは――」
「いえ、私が皆さんの分をご用意しようかと思っています。許可をいただけますか?」
まさか私が寝ている夫を叩き起こし、朝食を要求する厚かましい女だと思われていたのだろうか。心外だ。
「か、構わないが……貴族は自分で食事の用意などできないだろう? 見栄を張らずに数時間待っていてくれれば、母が用意してくれる」
「いえ、問題ありません」
許可はもらえた。私はさっさと夫の部屋を後にすると、昨日見かけた小さな厨房へと足を運んだ。
「小麦粉に、卵、ふくらし水もあるわね。パンを作りましょう」
棚の中には固くなったパンがある。だが家族が起きてくるまで数時間あればパンの一つも焼けるだろう。せっかくならば焼きたてのパンを食べたい。
何より私が食べたいのだ。
もしかしたらと勝手口の外には、宅配された牛乳が置いてあったのはラッキーだ。
それを小さな容器に移してひたすらに振る。
振る。
振りまくる。
一心不乱に振れば手軽なバターが完成するのだ。
小麦粉に牛乳と砂糖とふくらし液を入れてこね、それから滑らかになった生地にバターを混ぜてさらにこねた。
これは実家にいた時に何度か練習したものだから、問題はない。
つるりとした生地になった所で濡れ布巾をかけて、しばし放置する。
「……ふっくら温まれ」
そう祈ると、ほんのわずかに生地に温度が宿る。
私がこれに気が付いたのは、皮肉にも母が亡くなってからだった。
言葉に不思議な力が宿る母の血を引いたせいか、私の祈りにもまた、不思議な力が宿っていた。それを魔女と呼ぶのだと知ったのは、母の遺した日記を読んでからだったが。
日記によれば母は古い魔女という種族の血を引いていて、貴族ながらもそういった不思議な力があったらしい。私の言葉を封じてしまった事を悔いていて、さほど気にしていなかった私にはかえって病床の母を気に病ませてしまった気がして申し訳なかった。
そんな訳で、どうやら私の言葉にも小さな呪い――もとい力があるらしい。
といってもこのように、ほんのわずかに温めるとか、ほんの少し冷やすとか、そんな些末な事しかできないのだ。
「それと、ベーコンも焼こうかしらね」
卵にベーコン。実家では朝食の定番だったがこの家ではどうだろうか。
贅沢すぎると怒られた時には、結婚初日の祝い膳だと言い張らせてもらおう。
容器に残ったバターをこそいで、温めたフライパンに入れた。そこに薄切りにしたベーコンを入れると、ジュウという軽快な音と香ばしい匂いが立ち上る。
そうして人数分焼きあがった頃には、パン生地もふっくらと膨らんでいた。魔女の力は大変便利だ。通常ならば一時間かかる発酵が、ものの五分程度で終わるのだから。
その生地を切り分けて丸める。そして「温まって」と祈るとふわっと生地が膨らんだ。それを温めたオーブンに入れている間に、卵を焼く。
あっという間に丸パンとベーコンエッグの出来上がりだ。
予想以上に早くできてしまって、再びロアを起こしていいものか、ほんのわずかに考えてしまった。
だが私は既におなかがすいている。
これは味見なのだと自分に言い訳をして、焼きたてのパンをちぎって口に入れた。
「おいしーーーー!!!!!!!!!」
私はつい叫んでしまって、それから慌てて口元を抑えてしまった。
まだまだ声の音量調節がうまくいかない。
寝ている家族を起こしていけないと思ったのだが後の祭りだったらしい。
「何の騒ぎだ!?」
「泥棒か!?」
夫と義父、そしてその後ろから義母が慌てた様子で厨房に入ってきてしまった。
私の声で起こしてしまい、大変気まずい。
だがこの美味しい朝食でどうにか名誉挽回できないものだろうか。
私はパンを差し出した。
「おはようございます!!!!!!!」
「おまえか!」
朝から元気な夫はそう叫ぶと、なぜか両肩をガクリと落としたのだった。
※※※
声が出なかった理由を話しながら、家族みんなで朝食となった。
最初は半信半疑だった夫家族だったが、私が実家で行っていた仕事内容や、兄の結婚の話、そして声が出ない故に邪魔者だった反省を口にすると、こちらが申し訳ないくらい同情してくれた。
私自身はさほど大変な境遇だとは思っていなかったのだが、話しているうちに彼らにとって、私は随分不遇な立場の男爵令嬢になってしまった。
領地経営についても大変ではあったが嫌なものではなかったし、むしろ学びがあって楽しかった。引継ぎもままならず兄に任せたことには一抹の不安はぬぐえないが、兄ならきっと成し遂げてくれると信じている。
「うっうっ……そうなのねアラーラ……。安心しなっ、うちの嫁になったからにはあたしの娘同然だよ!」
「こんな綺麗な子を虐げるとは、やっぱり貴族ってやつぁ信用ならねぇな!」
義母も義父も目に涙を浮かべて憤ってくれている。
大変申し訳ないと思いつつも、これを嬉しいなんて思ってしまっている私もいた。こんな風に私のために感情を荒げる人がいるなんて。
ちらと夫ロアを見ると、彼は神妙な顔をした。
むりやり押し付けられた私という負債に、迷惑している事はわかっている。
私は自分の薄い胸を叩いた。
「この一か月!!! 商人に必要な統計学!!!! 大陸で使われる母国語以外の五か国語の読み書き!!!! 販売スキルについての専門書を読み漁り!!!!! 少しでも御企業にとって有益な妻であるように努力してまいりました!!!!! まずは妻だと思えずとも!!!! ただの従業員として!!!! お役に立てるように頑張ります!!!!!」
なお今朝振る舞った朝食も、その一環だ。
平民は身の回りの事全てを自分たちでやると聞いていたので、嫁入り先を知った一か月の間、執務をこなしながら学んできたのだ。
しかしそれをせめてもっと前に知っていたら、できることが増えていたというのに。一か月前に知ってしまった私の絶望を、どう言い表したらよかったか。
だがこれから長い人生、学ぶ機会はいくらでもある。
目を真ん丸に見開く私の夫ロアに向かって、私は今できる最上級の笑顔を作ったのだった。
気が付けば「おとなしくしている」という母の呪いも同時に解けたようだ。
難解な母の呪い……もとい祈りは、私の表情筋から仕事を奪い、自由に野山を駆け回ることすら制限されていた。
母は母なりに、貴族らしくないお転婆な私を心配してくれたのだろうが、長年抑圧されていた私は周囲から陰気だとレッテルを貼られるには十分だったと思う。
せめて悲しみの涙を零す事くらいは許して欲しかったけれど、今は十分幸せなのだから何も言う事はない。天国の母も、娘が幸せなのならそれが一番嬉しいだろう。
それから解放された今なら分かる。
自由であることの素晴らしさが。
嫁いでから一週間。今日も店先で仕事に精を出す。
「いらっしゃいあっせえええええ!!!!!!!!!」
おっといけない、まだまだ音量調節が苦手なのだ。エレガントにいらっしゃいませと伝えたつもりがまるで山賊のカシラのようになっていまい、私は思わず口元に手を当てて微笑んだ。
驚愕に目を見開いたお客様は一瞬だけ押し黙り、それからガハハと大声で笑った。
「元気な姉ちゃんだなぁ! 何くったらそんなに元気になるんだぁ? 姉ちゃんみたいに元気になれる保存食は置いてあるかい!」
お客様はそういうと、店の中へと入ってくれた。
我がピッツラ商会は、この辺では少し名の知れた商会だ。
扱うものは多岐に渡り、専門的な他店とは品揃えが違う。他国のものも多くあり、食品から文房具、武具に至るまで様々なものがあるのだ。そのせいで知識は必要とされるが、今のところ問題なく仕事ができている。
「元気でしたら!!!! こちらの!!! モリノー茶はいかがでしょうか!!!! 長寿で知られるモリノー国の!!! 職人が丹精込めて作ったお茶で!!! 飲めば医者いらずと言われるほど精がつきますよ!!!!」
もちろん医学的なものではないが、それはきちんと値札に記載している。
そう勧めるとお客様は「ほう」と興味深そうな顔をした。
「姉ちゃんの旦那もこれを飲んで「毎晩元気」なのかい?」
にやりと笑うお客様に、私は笑顔で頷いた。
「勿論です!!!! 主人も飲んでいて!!!! 毎晩どころか昼夜問わず元気です!!!!」
先日試食も兼ねて、家族皆でモリノー茶を頂いたところだ。それからみんな元気にばりばり働けているのだから嘘ではない。
私の声に店内の人々がざわついた。なぜかカウンターの中にいるロアは、真っ赤な顔で私を見ている。どうしたのだろう。今元気だと伝えたばかりなのに熱が出ていたら嘘になっていしまうだろうか。
「お、おお……姉ちゃんの旦那は昼夜問わず元気なのかい……そりゃあ……すげえな」
「はい!!!!! すごく元気です!!!!」
再び店内がざわついた。夫ロアの顔がどんどん赤くなっていくせいで、従業員たちもロアをちらちらと見ている。皆、心配なのだろう。
お客様は「ふむ」と言うと、ポンと手をたたく。
「よし、なら店先に出てる分全部くれ」
「ありがとうございます!!!!!!」
安くない金額のモリノー茶が、こんなに一度で出るのは珍しい。平民には少し贅沢品だが、その分滋養強壮には良いものだから胸を張って売ることができる。
店頭のものを全て手に取ると、そのまま夫のいる会計カウンターに持って行った。
「旦那様、お願いいたします」
その瞬間、店内がまたざわついた。
あれがあの人の夫なのか、とか。あんな優しそうな顔をして昼夜問わず元気なのか、とか。そんな言葉が耳に入ってくる。
そしてなぜか隣に立つ義父までもが驚いた顔をしている。
「ろ、ロアお前、役に立たないって聞いたけど違ったんだなあ。そんな……そうか。いつの間に」
「ち、ちがっ! ちょ、アラーラ……!」
「本当の事ですもの!!!! 旦那様は!!!! 連日本当にお元気ですわ!!!!!」
またつい大きな声を出してしまって、店内の視線を一心に受けてしまう。
はしたない事だ。ごまかし笑いをする私を、先ほどのお客様はなぜか尊敬したような視線を向けていた。
「はあ……旦那も凄いが嫁も凄い。この商会は安泰だなぁ」
そういって会計を済ませると、そそくさと商品を持って帰っていった。
そして店内では残された人々が私たちのそばにワッと集まった。
「在庫は! 在庫を出してくれ! 俺にもひとつ!」
「こっちにも一つ……いや二つくれ! 俺も久しぶりに男を見せたい!」
「私にも頂戴! 旦那に食べさせなくちゃ!」
そう言って結局、在庫も全てなくなってしまった。
それどころか絶対に入荷したら教えて欲しいと言われ、前払いの予約客まで殺到してしまったのだから不思議なものだ。皆、疲れているのかもしれない。
ひと波去った店内では、ぐったりとした様子のロアがいた。
「旦那様、お疲れでしたら裏で休まれてはいかがでしょうか」
「いや、大丈夫だ。きみは……天然なのか?」
「……? 人工物ではありませんが……?」
「そういう意味ではない。なるほど……天然か」
それだけ言うと、フラフラと裏へとまわってしまった。やはり疲れていたのだろうか。
私はといえば、結婚初日から身体の自由が戻り、活力がみなぎり大変元気だ。
「じゃあ私は、店先に納品されたものを裏の倉庫へ片付けて参りますわね」
従業員たちにそう告げて、ひょいひょいと木箱を担いで裏へとまわった。
後で聞く話によると、その様子を見た街の人々にはさらにモリノー茶の需要が高まったのだとか。嘘ではないが本当でもないので少し心苦しいが、私が店の宣伝になっているのなら良しとしよう。
※※※
半年後。
ピッツラ商会の売り上げは目に見えて上がった。
義父に見せてもらったそれは、素人の私でも理解できるほどに右肩上がりだった。
モリノー茶を皮切りに、様々な商品が飛ぶように売れたのだ。
微力ではあるが、私も空き時間を利用して街の人々に宣伝した甲斐があるというものだ。
西に転んで身動きが取れないという老女がいれば助けに走り、お礼をと熱心に言ってくれる老女にいつか使ってほしいと家業を宣伝した。
東に原因不明で泣いてる赤子がいれば培った知識を総動員して原因を突き止め、他国の人間だという彼らのために適切な医者を紹介して通訳し、お礼をしたいと言うその家族にさりげなく家業を宣伝した。
その結果、身分を隠した貴族だったという老女が商会を懇意にしてくれたり、泣いている赤子の両親が他国の大商会で新しいパイプができたり、とにかく全ての物事がうまい具合に転がってくれた。
もちろん、今の売り上げが全て私のおかげではない。
もともとあった素晴らしい商会を築いた義両親と夫ロア、そして頑張ってくれる従業員たちの努力があったお陰なのだ。私のしたことは些末な事でしかない。彼らの頑張りが実を結んだだけだ。
そんな店に身を置いている事は、私にとって誇らしかった。
働き者の夫は街でも一目置かれた存在だし、私の質問にも面倒くさがらずに応えてくれる誠実さがあった。気が付けば私は、彼の事を異性として意識するようになっていた。
だけど私とは形だけの結婚だ。
たとえ妻としてでは無理でもいち従業員として、好きな人のそばにいられる事は幸せなものだ。
そう思っていたのだが。
夕食も済み、いつも通りそれぞれの自室で過ごそうとした今、なぜか夫が床に土下座をしているのだ。
謝られる筋合いは何一つないため、混乱を隠しきれない私に夫は謝罪を口にする。
「アラーラ……本当にすまない。俺が悪かった」
「なにも謝る事はありませんが……? どうされましたか。夕飯でピーマンを残したことを気にしているんですか」
「いやそれはそれで申し訳ない。ピーマンだけは昔から食べられなくて……じゃない! ええっと……その、夫婦としての義務を果たしていない事についてだ」
夫の言葉で合点がいった。
私と夫は結婚しているにも関わらず、いわゆるそういった夫婦の営みがない「白い結婚」というものだった。
だが私のような女を押し付けられた夫に同情し、そしてあたたかく接してくれる夫や義両親に感謝こそすれ、恨む気持ちは全くない。
むしろ商会で働くことも、家族のために家事をすることも楽しくて仕方がないので、私としてはロアを責めるもりはなかった。
薄い身体の私は、女性として魅力がない事も知っていたし。
そう伝えるとロアは突然身を起こして私の両腕を掴んだ。
「ち、違う! 俺がいくじなしだったからだっ! そ、その……タイミングを逃がしてしまって……どうにも言い寄るきっかけがなくてだな」
ごにょごにょと呟く夫だったが、こう見えて仕事の時はバリバリと働く良い跡取りなのだ。てきぱきと指示を出し書類をさばくその姿は実に恰好良くて、そんな姿に私も惚れてしまったのだが。
「今更だと思うが、……アラーラ、君が好きだ。愛している」
「愛してる!?!?!?!?!?!? 私をですか!!!!!」
まさかの告白に、私はびっくり思わず大きな声を出してしまった。
ハッとして口元を押さえるが、旦那様は怒りもせずにただ穏やかな笑みを浮かべていた。
「そうだ。俺はきみを愛しているよ」
いざという時にはキメてしまう、旦那様はやっぱりできる商人だ。
「旦那様……私もですわ。お慕いしております」
初めてのキスは柔らかくて、そしてロアからはなぜか、完売御礼のモリノー茶の匂いがした。
※※※
夫ともついに名実ともに夫婦となり、商会もうまくいって、順風満帆としか表現できない日々を過ごしていた。幸せパワーで私は、今まで以上に元気いっぱいに過ごしていた。
そんな中、予想もしなかった突然の来訪者があった。
たまたま家族が誰もおらず、従業員も皆昼休憩をとって出払っている時間帯だった。
「お兄様!!!!! それにお義姉様も!!!!!!!」
突然店内に現れたのは、私の兄夫婦だった。こんな事を言っていいのかは失礼だが、義姉は平民がターゲットの商会などには興味がなさそうなのに。
「うるさ……っ。なんだアラーラお前、喋れたのか?」
兄は耳を抑えながらそんな事を言う。
「はい!!!!!!! 喋れるようになりましてよ!!!!!!」
「うるさい!」
喜んでくれるかと思って、つい大きな声を出してしまったが兄は迷惑そうに耳を押さえた。元とはいえ貴族の淑女としてははしたなかったと反省していると、兄は「まあいい」と呟いた。
「金を用意しろ。この店はお前が嫁いでから随分儲かっていると聞く。あの女傑夫人までこの店をひいきにしているそうじゃないか。一体どんな手を使ったんだ」
女傑夫人とは、件の私が助けた老女の事だ。
決してそんなつもりで助けた訳ではないが、うちの店をひいきにしてくれている上に平民となった私とも茶飲み友達になってくれる、気さくな良い方なのだ。傾いた侯爵家を立て直した事でも有名で、そのせいで女傑などと呼ばれているが穏やかで話しやすい方だ。
「それにあの有名な、西の国の珍味まで取り扱ってるんですって? 西の国は過去の伝統を大事にするから決して食品を輸出しないと聞いているのに、どうやったのかしら」
西の国というのは、以前私が通訳をして助けた赤子が縁で繋がっている。西の国の大商会だという彼らはこの商会のために、目玉となる珍味を融通してくれたのだ。もちろん彼らにも十分利益のある話だったようだが、それでもわざわざ議会を動かしてくれたのだから感謝しかない。
それらを説明しようとする前に、兄は手のひらをこちらに向けて発言を制した。
兄はいつもこうだ。喋ろうとも喋れまいとも、私の言葉を聞き入れる気がない。
「まあ俺たちは経過には興味はない。金が欲しいだけなんだ」
無心に来たことをあっさりと認め、貴族としてのプライドを一切感じられない。酒で焼けた喉から発せられる声は以前よりもしゃがれていて、あれからまじめに執務を行っているのか不安になってしまう程だ。
領民たちは大丈夫だろうか。
「ですが既に夫は契約に則り、お兄様に十分な金額を渡しているはずですわ」
「まあ契約は契約として頂いているがな。身内として金をくれと頼みにきているだけだ」
借りる、と嘘でも言わないあたりが兄なのだ。
きっとこうやって、人の好い夫を酔わせて言いくるめてしまったのだろう。
今の生活があるきっかけは兄にある。だからその部分は感謝しているが、だからといって要求にこたえるわけにはいかない。
私は今はこの家の娘であり、守るべき家族がいるのだ。
キッと兄を睨むと、彼はそれを受け流して笑った。
「渡せないというのならまあそれでもいいさ」
引き下がってくれるのだろうか。ホッと胸を撫でおろした。
「貴族は噂話が好きだからな。それも、悪い噂の方が広まりが早い事をお前も身をもって知っているだろう?」
「……っ、脅しているんですか」
「いや? そんなつもりはないがな? そう聞こえたなら謝罪しよう。とにかく一週間後、またここに来る。色よい返事を待っているぞ妹よ」
そうして提示した金額は、どう考えても私の貰っている小遣いではまかなえない額だ。
兄は言いたいだけ言うと、さっさと近くに停めていた馬車に乗り込んで去ってしまった。
私はその場にへたり込んだ。
あれは断ったら間違いなく悪評を流される。新しい家族たちの今までの努力を、私の兄が駄目にしてしまう。
兄はやると言ったらやるだろう。根っからの貴族の兄にとって平民は、大事にする相手ではなく搾取する相手なのだ。そこに慈悲などない。
ああ、私が幸せになったのがいけないのだろうか。一瞬でも兄に感謝してしまった事がいけなかったのだろうか。
とにかく内密にお金を用意しなければいけない。
有り余る元気を活かして、よそでの仕事を掛け持ちしたら良いだろうか。いや、それでも一週間後にそんな大金が用意できるわけがない。うちの商会の一月分の売り上げ相当だ。
「どうしよう!!!!!!! あんな大金用意できない!!!!!!」
とっさに大きな声が出てしまいパッと口元を押さえたが遅かった。
昼休憩に出ていた従業員にまで聞こえてしまったらしく、どやどやと帰ってきた。その上丁度義両親と夫までもが戻ってきたようで、私の大声が周囲に響き渡ってしまった事からもはや言い逃れができない。
「アラーラ、教えてくれ。何があったんだい」
そう優しく問いかけてくれる夫に背中をさすられて、私は思わず涙腺が緩んでしまったのだった。
そうして一週間後。
再び兄夫婦が現れた。
「どうしたんだアラーラ。随分大人数で歓迎してくれるじゃないか」
迎え入れた店舗内には、私だけではなく、夫のロアと義両親、そして従業員たちがそろっていた。
私は兄に言った。
「申し訳ありませんがお金はご用意できません」
その返事を分かっていたのか、兄はハッと鼻で笑った。
「それは構わないがアラーラ、お前はそれでいいのか? この店の評判が地に落ちても」
兄は商会を人質にとったつもりかもしれない。
だけど一度でも要求をのめば、一度で済むような人でもないだろう。
「調べてもらいましたわお兄様。執務を放置して、ご夫婦で遊び歩いているそうじゃありませんか。家は火の車でメイドたちまで解雇するなんて……お兄様の遊んだツケを領民が支払うのは納得いきませんわ」
「納得するもしないも、お前はもうよその人間だろう。貴族のやることに口を出すな」
「よその平民であるこの私に、お金を無心しているはその貴族のお兄様ですわ」
「ああいえばこう言う……。まったく、喋らない方がよかったなお前は」
その言葉に私は少なからず傷ついた。
そうだ、私は悲しかったのだ。
実家にいたときは平気なふりをしていたけれど、兄に仕事を押し付けられて、メイドたちには陰気だと噂をされて、傷ついていたのだ。
だけどそれは平気だと強がりだったと、知ることができたのは夫であるロアを始めとする義両親のあたたかさがあったお陰だ。
隣に立つロアの手が、優しく肩を抱いてくれる。
私は兄をキッと睨みつけた。
「貴方に支払うお金は!!!! 今も未来も!!!! ありません!!!!!」
そう言った途端、私の大声をかきけすような大歓声が響く。
見れば店外にも人々が大勢詰めかけていた。いつの間に知ったのか、常連さんたちが集まってきている様子だ。
格下の私に啖呵を切られて、兄はいらだちを隠さなかった。
「アラーラおまえ……っ! この街にいられなくしてやるからな……!」
自分の領地でもない場所で、一体何をどうするのかは分からない。私と違ってたしかに社交性はある兄が、どんな悪評を流すのか恐ろしいと思う。
だけど。
「アラーラ、大丈夫だ」
隣でロアが微笑む。
「義兄さん。アラーラと縁をつないでくれたことには感謝します。ですが要求には一切応えられません。俺たちは商人だ。貴方みたいな人間に金を出すメリットは感じられないからな!」
そう啖呵をきる夫は実に頼もしく、カッコよく。
私は思わずときめきを感じてしまった。
「お前たち……っ! はっ、強がれるのは今だけだ! そのうち泣いて俺に縋りつくだろう!」
そう兄が叫ぶ。
だけど私たち一家の方針はもう決まっているのだ。
大丈夫、一人ではない。夫も義両親も、そして従業員も。同じ気持ちでここに立ってくれている。役立たずだった私を、受け入れてくれているのだ。
肩を抱く夫の手から、じんわりとしたあたたかさが伝わってくる。
兄上のいいなりにはならない、そう叫ぼうとした瞬間、甲高い馬の嘶きと激しい蹄の音が近づいてきた。
「な、なんだなんだ!?」
兄までもが動揺する中、その豪奢な六頭馬車は店頭に止まった。
そして中から出てきたのは。
「ハァイ、アラーラ。私たち友達でしょう? 困ってるときに頼ってもらえないなんて寂しいわ」
以前私が助けた一人である老女、改め女傑夫人だった。
華やかなドレスに身を包む彼女は、左右から美しい男性に手を引かれて馬車を降りてきた。
「じょ、女傑夫人……! なぜ貴女がこんな所に!」
「ん~? 貴方どなた? 末端貴族の顔までは覚えてないのよね。ごめんなさい」
全く悪びれないその様子は、まさに貴族そのものだ。
誓って言うが、普段の彼女はこんな居丈高に振舞う人ではない。おそらく兄のプライドを傷つけるために、あえて嫌な言い方をしていたのだろう。
案の定ショックを受けた様子の兄に、彼女は追い打ちをかける。
「そうそう、思い出したわ。アラーラの兄よね。今度投獄される」
「はあ!?」
「あら、違法賭博に借金、禁止されている薬物に手を出しているらしいし……なによりこの半年、貴族が行うべき領地の執務を放置しているそうじゃない」
「な、なぜそれを!」
女傑夫人の言葉に私も驚いた。
兄がそんな事をしているとは知らなかったからだ。
「アラーラを失って、貴方の家の使用人たちもアラーラのしてきた功績を理解したそうよ。私の可愛いワンちゃんたちがちょっと調べたら、出るわ出るわ……埃しかでてこなかったわぁ」
そういって女傑夫人は、左右に立つグッドルッキングガイたちの顎下を撫でた。
そうして筒状に丸めた一通の書状を、美男子の一人が兄にポンと渡した。
「陛下からの書状です。男爵位のはく奪と追放、そして今の領地は貴方の従弟が代わりに治める事になっております」
「な、な……、そんな馬鹿な……そん、そんな……!」
あまりに話がうまく運びすぎて、驚きに声が出ない私に女傑夫人は美しいウィンクをしてみせる。
「ね、アラーラ。みんな貴方の事が好きなのよ。貴方が大切に思っているこの店を、守ってあげたいと思えるくらいには、ね。感謝してくれるなら、またお手製のパンを持って来て頂戴な。貴方のパンが一番おいしいんだもの」
茶目っ気を含ませながらそう言う彼女に、私は思わず抱きついてしまった。
視界の端には脱力する兄の姿があったが、その視界はすぐに滲んでなにも見えなくなる。
「ありがとう!!!!!!!!!!!」
いまだかつてない大声で叫ぶ私を、周囲は割れんばかりの大歓声で包んでくれた。
そうしてそれからも店は順調に大きくなった。
従業員を大事にする家族の姿勢は、従業員たちのやる気にも繋がってくれている。
女傑夫人とも仲のいい付き合いをさせてもらって、辛い事なんて全く感じられない毎日だった。
なぜか女傑夫人の一言で私が焼いたパンまで店頭に出すことになったが、皆が喜んでくれるからこれ以上嬉しい事はない。母から私へと伝わるこの不思議な力が、一体いつまであるのか分からないけど。
「幸せね」
私の言葉には小さな祈りが籠る。
「幸せになって欲しいわ」
この祈りだけはどうか、無限に叶っていて欲しい。
手の中に収まる小さな命を撫でながら、私は夫の肩に身体を寄せたのだった。
終