第5話
ソフィアの話を聞いたエンリカは、やはり動揺することなく淡々としていた。
「そうですか。旦那様の周りはなにやら不穏な事になっていると思っていましたが、どうやらお役御免の時のようですね」
エンリカは今にも荷造りしそうな、さばさばした雰囲気だった。
奥様専属のメイドふたりも、同じく冷静だった。
「次を探さなきゃ。お給料はさがるだろうけど、ここよりは楽ねきっと」
「しばらく、羽を伸ばそうかしら?」
ふたりとも手をひらひらさせて、今にも飛び立ちそうだった。
奥様はメイド達の一番苦手な、チェリーナが名のある貴族の婦人になった結果のような人だという。
使用人はよく解雇され、使用人の方も居着かない。
もうすぐ全員居なくなるのかと、ソフィアが空虚な気持ちになった。
「ですが」
エンリカが思案顔で口を開いた。
「こちらから辞職を申し出ると退職金が減るし、事が起こってからではゴタゴタにまぎれて退職金がもらえないかもしれないし、悩みどころね」
皆が黙る中、エンリカはしばし考えた。
「最悪、お金は貰えなくても、無事この屋敷を出られればいいわ。伯爵の問題で私達が処分されることはないけれど、屋敷まで焼き討ちされるかもしれませんからね」
メイド達は、ヒッと肩をすくめた。
ソフィアもそこまで考えていなかったので、息を呑んだ。
「ソフィア。とてもいい情報をありがとう。また、なにかあれば教えていだける?」
「はい、そうしたいのですが、私もこの屋敷に来て情報が入らなくなっています。私が知っていることは、計画が資金不足で実行に移せないでいる、というところまでです。数日前に聞いたことです」
「そう。資金集めは大変だろうから、今日明日の話ではなさそうね……一応、荷造りはして待ちましょう」
エンリカの決定に、一同うなずいた。
「では、今日は仕事に戻りましょう。ソフィア、執事のセグレト氏にご挨拶に行きますよ」
「はい」
一瞬で仕事人に戻ったエンリカを尊敬して、ソフィアは恭しくついて行った。
廊下を歩く間、なにか聞かれるかと思ったが、エンリカは無言で前を歩いた。もう、この屋敷に関わる全てに興味がないように見えた。
エンリカは執事部屋をノックした。
「セグレトさん。新しいメイドを連れて参りました」
「どうぞ」
微かな応答に、ソフィアはエンリカに続いて部屋に入った。
狭いが豪華な部屋、オレンジの照明の下、重厚な机を前に男が立っていた。
カッコいい
一目見てそう思ってしまい、ソフィアはいけないと思い直した。
彼は伯爵を、手助けしている……。
執事セグレトは、ソフィアと変わらない年齢だった。金髪は後ろで結ばれ前髪は垂らしていた。近づいてよく見ると、激務なのか不健康そうな青白さで、青い瞳も生気がなく無表情だ。
「ラナロ子爵家から来た、ソフィアです」
エンリカの紹介の後、ソフィアはお辞儀した。
「君も、金に目がくらんできたのか?」
いきなりのご挨拶に顔を上げると、セグレトは眉を寄せた軽蔑を隠さない顔でソフィアを見下していた。
「……はい」
反論しようか迷ったが、彼は伯爵の手先と踏んで、好きなように思わせることにした。
セグレトが失望したような顔でため息をついたので、反論したさに胸がうずいた。
「セグレトさんには、嘘をつかなくていいのですよ」
エンリカが言った。
ソフィアの反抗心を見抜き、その顔は笑っていた。
不思議がるソフィアをよそに、エンリカはセグレトに顔を向けた。
「セグレトさん、もう旦那様を改心させることは諦めて、この屋敷を出ることを考えた方がいいですよ。ソフィアに聞きましたが、民が暴動を起こす一歩手前のようです」
セグレトは眉根のシワを深くすると、うつむき黙り込んだ。
そこで、ソフィアは気になる事を聞いた。
「改心?」
「セグレトさんは、旦那様が民を苦しめているのを止めようとして……それが仇になって、毎夜のごとく旦那様から暴力……折檻を受けているんですよ」
えっ、かわいそう……
敵対心は一瞬で同情心に変わった。
「私が最初に見てしまった時なんか、椅子に縛りつけられて馬鞭でビシバシ。奥様も笑って見てらして悪趣味なこと」
「エンリカさん! そこまで聞かせる必要はない……」
ソフィアは恐怖と怒りに震えながらセグレトの、目を伏せた虚ろな顔を見つめた。執事服で隠れた体は傷だらけなのだろうかと、痛しく思った。
「なんとか、執事の仕事に誇りを持とうとしたが、無駄なあがきだったようだ」
ソフィアの視線に答え苦しげに吐かれた言葉が、さらに胸を打った。
執事として情熱を持っている人だったとは
まさか、敢えてこの屋敷に?
仕える主人さえ間違えなければ……
この人も、上手く逃げてほしい。
「セグレトさんも被害者であることは、私達以外誰も知りません。暴動が起きれば、セグレトさんも裁かれるかもしれませんよ?」
エンリカがソフィアの危惧することを言った。
「旦那様を止められなかったのです。罰は受けます」
セグレトはうつむいたまた答えた。
「逃げてください」
ソフィアは思わず口にしていた。
「……逃げる人ではないでしょうね」
セグレトの硬い表情を読んでエンリカが言った。
ソフィアもそんな気がして不安になっていると、エンリカが少し考えてから続けた。
「もしもの時は、私がセグレトさんは関わりないと証言してあげますよ。私達の退職金をしっかり確保してくれるならですけど」
ニヤリとするエンリカに、セグレトは目を丸くした。
ソフィアは戦慄した。セグレトが折檻されるのを見ても逃げ出さなかったエンリカだけに、金さえ払えば余計なことはせず言わず、そこを買われて雇われ続けていたのだろうが、最後までブレない人だ。
「……わかりました。私のことはともかく、退職金は保証します」
セグレトが取引に応じたので、ソフィアはひとまずほっとした。
夜、エンリカにセグレトが職務を終えるだろう時間を聞いて、ソフィアは執事部屋に向かった。
奥様と鉢合わせないように角で廊下を伺ったり、周囲に気をつけながら歩くのはスリルがあった。
意を決してノックすると、はいと返事がした。
「メイドのソフィアでございます」
「どうぞ」
入ると、セグレトは最初と同じように机を前に立っていた。
「なにか、ご用か?」
暗く沈んだ声と表情に、ソフィアはまた胸が痛んだ。
「あのような話を聞いて、気になりました。また、今夜も……折檻を受けるのではないかと」
「……心配させてすまない。ありがとう」
ソフィアはまともに顔を見れなかったので、セグレトの表情はわからなかったが、声には優しさが感じられた。
「この頃は、回数も減ってきた。私が説得を諦めてきたからだろう」
声がまた、暗く沈んだ。
「旦那様の横暴も貿易管理の職務が終わるまで、そう思い諦めていたが、民の暴動が起こるのが先か……最初は、大きな職務を任されて、王に応えようと無理に金を集めているのだと思い黙って従っていた。しかし、ご自分が財を成すためだったとは……」
セグレトは過ちの日々を回想し、悔恨の念に目を閉じた。
「もう、旦那様には極力、関わらないでください」
ソフィアは強い眼差しをセグレトに向けて、両手に持ったケースを開けて宝石を見せた。
「私は、このレガディアを売ってお金にし、暴動を手助けするつもりです。資金さえあれば、暴動は実行されます」
セグレトは二つの驚きから、宝石とソフィアの顔を交互に見た。
「なぜ、暴動に手を貸すんだ?」
「このお屋敷に来る前に仕えてきた、ラナロ子爵のお嬢様のためです。お嬢様は、チェリーナ様が流した噂のせいで婚約者を失いました……今も悲しみに暮れています。私は、伯爵の力を盾にしたチェリーナ様の傲慢さと横暴さが許せないのです。それで……」
「主人のために、復讐か」
セグレトはそれほどのことをさせる主従関係を、羨ましく思った。
「そのレガディアは? メイドが持つには高価な物だが」
「子爵のお嬢様から頂きました」
セグレトはまた、ソフィアと子爵家のお嬢様の主従関係の良さを察した。
「そんな大事な宝石を、売ってはいけないな」
ソフィアは暗くなっていた顔をあげた。
「資金なら、私が出そう」
驚いて目を見開くソフィアに、セグレトは微笑した。
「旦那様から頂いた金……民に返すようなものだ。少しは、罪滅ぼしになるだろう。計画の中心人物の名を知っていないか?」
そう言われると、セグレトを暴動に加担させるのが罪深く思えてきた。
「セグレトさんが、暴動に手を貸すことはありません……」
止めるように片手を伸ばしたソフィアに、セグレトは初めて笑みをみせた。
ソフィアを安心させるような、力強さがあった。
「もちろん、旦那様の任期が終わるまで、耐えてもらえないか交渉するつもりだ。無理なら、なるべく人に被害が及ばぬように頼むしかないが」
セグレトは最悪の事態を予想して、目を伏せた。
「お願い、します」
宝石を売りたくなかったし、セグレトの交渉に賭けたくなった。
「この事の罰は、私が受けます」
「そんなことは心配しなくていい。君のことは誰にも言わない」
言われても構わなかったが、ありがとうと胸の内で呟いた。
「海運業を営むギャレオンという方が、計画の中心人物の一人と聞いています」
「ありがとう」
「どうか、お気をつけて」
「あなたも……会えてよかった」
セグレトのその言葉と微笑みに、ソフィアは状況を忘れて胸をときめかせながら部屋を出た。
いけない、彼のことでドキドキしてる場合じゃないわ。
貿易ギルドの状況は動き出す……。
一体、どうなるのか。
ソフィアの胸は震え続け、只々セグレトの交渉が上手く行くように祈りながら眠りについた。