婚約破棄されないように頑張りましたが、されました。
「ソフィー・エトマン! 僕は君との婚約を破棄することを、今この場で宣言する!」
突然の高らかな宣告に、会場はにわかにざわつき始めました。
王族も参加している、豪勢な部屋での夜会。
その貴族たちが大勢集まっている場で、私、ソフィー・エトマンは、婚約相手である公爵家のジョゼフ・ダンテス様に、婚約破棄を突き付けられていました。
「婚約破棄……ですか?」
私は内心驚きつつも、あくまで淑女として静かに返事をします。
「ああ。なぜなら、君はここにいるアンヌを、いつもひどくいじめていたからだ! そんなことをする人と、僕は結婚するつもりなどない!」
ジョゼフ様はそう言って私を睨みつけるようにしながら、傍に立っている女性の腰に手を回しました。
女性の名はアンヌ・コラン。男爵家の令嬢です。
彼女はくりくりとした大きな瞳を潤ませ、ジョゼフ様の後ろに隠れるように、不安げな表情で私を見つめていました。
――ああ、やっぱり、駄目でした。
お父様、お母様、申し訳ありません。
私はゆっくりと顔を伏せながら、心の中で両親に謝りました。
いつかされるとは、思っていました。
でもまさか、こんな多くの方たちが集まる場で、見せつけるようにされようとは。
「何か言うことはあるか、ソフィー・エトマン!」
私は彼の方を見て言いました。
「いいえ、何もありませんわ」
周囲からどよめきが立て続けに起こります。
その時、ジョゼフ様の後ろにいた、アンヌの口元が少し歪み、吊り上がるのが見えました。
注視していた私しか気づかないと思うくらい、僅かな間のことでしたけれど。
「では、いじめを認めるのだな! 貴族の恥さらしめ! いますぐ、この場から出て行ってもらおう!」
「……」
全ては、私の至らなさのせいです。
周囲から嫌でも多くの視線が集まる中。
私は、突然不思議な感覚に襲われました。
ゆっくりと周りのものがぼやけ、喧騒が遠くから聞こえるようになっていきます。
まるで、時間が止まってしまったかのように。
けれど私は、自分でも不思議なくらい冷静でした。
自分の後ろから、自分を客観的に見ている感覚。
そして、事ここに至るまでの日々を思い起こしていたのです。
◆
約半年前のことです。
「ソフィー、いるか。大事な話がある。後で私の書斎に来てくれ」
ある日の夜、私が自分の部屋で読書をしている時の出来事でした。
「はいお父様、わかりました……?」
部屋のドア越しに急にそんなことを言われ、少し不思議に思いましたが私は了承しました。
「……なんでしょう。お父様ったら、急に改まって」
私は、貴族の令息や令嬢たちが集う学園に通っていました。
普段はそこの寮暮らしですが、その時は夏の休暇で、地方の実家の屋敷に帰っていたのです。
時間をおいて父の書斎に行くと、開口一番こう言われました。
「急な話ですまないが、お前の婚約相手が決まった。相手はダンテス公爵家、その跡取りの、ジョゼフ・ダンテス様だ」
「はあ。婚約相手……ですか?」
婚約。
突然のことに正直、私は実感がわきませんでした。
今は学園で、勉強や習い事、貴族の催し物など、様々な日々の課題に追われている身。
とても結婚のことなど考える暇はありませんでした。
そうでなくとも、一人で読書や書き物をしているのが好きな性分でしたから、そういう話は自分には関係ない、どこか遠い世界での出来事だと思っていたのです。
とはいえ、私ももう17歳。
領地を持った貴族同士なら、そろそろそういう話も出てくるのは、当然といえば当然でした。
「仕事の縁で、運よく先方と話をつけることができたんだ。ダンテス公爵の家に嫁げば、お前も、この家も安心だ。……ソフィー、この話、受けてくれるね?」
父は少しばつが悪そうな顔をしながらも、その顔は真剣そのものでした。
私の生まれであるエトマン伯爵家は、領土内の度重なる飢饉と干ばつにより、財政がひっ迫していました。
仮にも貴族だというのに、暮らしは年々貧しくなる一方で、最近は使用人の数もだいぶ減り、屋敷の庭もかなり荒れていました。
そこへ、今羽振りがいいと噂のダンテス家と繋がりができるのは、没落一歩手前のエトマン家にとって、父にとって、まさに天から手が差し伸べられたような話だったでしょう。
もちろん私も、そのあたりの事情は理解していました。
(私が嫁ぐことで、エトマン家が存続できるのであれば……)
「わかりました。その話、お受けいたします」
「おお! そうか……! ……すまないな、ソフィー」
「お父様が謝る必要なんてありません。むしろ、これは我が家にとって喜ばしい話なんですから」
私はそう言って、にっこりと笑いました。
◆
婚約相手であるジョゼフ様のことは、以前から知っていました。
敷地は広いですが、狭い貴族界。
しばらく学園で過ごしていれば、生徒の名前、家柄、序列などは自然と覚えていきます。
ジョゼフ様は公爵家ということで、普段から同じく家柄のいい友人たちに囲まれていました。
そういう方たちが談笑しながら並んで歩いているのを見ると、一種近寄りがたい雰囲気を感じたものです。
ジョゼフ様は私のひとつ年上で、綺麗なブロンドの髪ということで、他の令嬢たちからも人気があるようでした。
「やあ、君がソフィー・エトマンさんだね。友人に聞いたんだ。初めまして。僕のことは知っているかな」
婚約が決まった後日、学園にて。
私が廊下を歩いていると、彼から声をかけられました。
「あ……はい。ダンテス様。初めまして」
私は振り向いて挨拶してから、貴族式の礼をします。
「ジョゼフでいいよ。もう婚約のことは聞いてるよね。これからよろしく」
「はい。これから、よろしくお願いいたします」
「あんまり固くならずに、気楽にいこうよ。いずれ夫婦になる仲なんだから」
ジョゼフ様はそう言って首を上げ、髪をかき上げる仕草をしました。
「はい。わかりました」
ジョゼフ様は私のことを、どうやら知らないみたいでした。
(格下の落ち目の伯爵、それも異性とくれば、知らないのも仕方ありませんね)
いつも学園の図書室に引きこもっているせいでもあるのでしょう。
「エトマン家は今大変みたいだね。父上から聞いたよ。まあ、うちの援助があれば何も問題ないさ」
「……ありがとうございます。本当に感謝いたしますわ」
「……うーん。なんか君、固いよね。ほら、もっと愛想よくさ」
「はあ……」
私はそう言われ、少し引きつったような笑いを浮かべました。
普段から喋るのが苦手な私にとって、男性と気軽に話す、というのは難しいことでした。
学園にそれなりに友人はいましたが、異性と話したことは、ほとんどなかったのです。
ましてや、相手は格上の貴族。
そんな私の態度に何か思うところがあったのか、ジョゼフ様は少し拍子抜けしたように肩を落としました。
「……うーん、なんだかなあ。まあいい。とりあえず、これからよろしく」
その言葉は、私が最初に感じた違和感でした。
ジョゼフ様は興味を無くしたように、その場から去っていきます。
(……いけない、もっと気が利いたことを言えるようにならなくては)
私はその時から、ジョゼフ様に気に入られるよう努力することにしました。
(これも全て、エトマン家の為)
そう。
間違っても、婚約破棄などされないように。
◆
婚約が決まってからは、授業はいつも以上に先生の話に耳を傾け、予習も復習も欠かさず行うようにしました。
加えて、経済、政治、地理、農業、水産、畜産、鉱業、簿記、気候に至るまで、領土を治める貴族に必要であろう学問や教養も、時間が許す限り、ひそかに図書室で学ぶことにしたのです。
いずれ公爵家の夫人として、夫の助けとなるために。
もちろんそれだけではなく、貴族の間で話題になっていることやゴシップなども、積極的に友人から仕入れ、ある程度は話せるようにしました。
話下手でも、自分が知っていることならそれなりに話すことはできたので、前もって勉強することにしたのです。
ある日、私は思い切ってジョゼフ様を昼食に誘うことにしました。
あれから、ちゃんと二人きりで話す機会がなかったからです。
(婚約相手だというのに、これじゃいけませんよね)
最初の印象が良くなかったのでしょうか。
ジョゼフ様と廊下などですれ違うたびに、こちらがお辞儀をすると目を合わせてはくれるのですが、すぐに逸らしてどこかに行ってしまうのです。
(認識してくれている以上、まるっきり無視されているよりはましですけれど)
私は昼休み、ジョゼフ様のいる教室に行き、ぜひ一緒に昼食をと誘いました。
「わかった。じゃあ中庭に行こうか」
了承を貰えたので、ひと安心します。
このところの態度を見るに、断られてもおかしくはないと思っていたからです。
二人で中庭のテラスに行き、日陰のあるテーブルの椅子に腰掛けます。
「それで、なんの話かな」
「え? 話?」
「うん。何か話があるんだろ?」
「えっと、そういうわけでは……。お互い婚約している身ですから、ただ一緒に昼食をと……」
「そうなの? うーん、困るなあ……僕は忙しいんだよ」
「す、すみません……ご迷惑でしたら、また今度の機会に」
早速でした。
私はまたも、頭の片隅に違和感を感じていました。
「仕方ない、今日はもういいよ。ただし、今後何かあるときは僕に予定を予め聞いておくこと。いいね」
「……わかりました」
そこからは、ひたすらに気まずい時間が続きました。
お互いほとんど何も喋らず、私が空気に耐え切れずに明るく学園の話題を出してみても、聞いているのかいないのか生返事ばかりで、ついには私も次第に無言になっていきました。
静かな方がいいのかなと思ったのです。
ですがジョゼフ様は明らかに退屈そうでしたし、それを隠そうともしませんでした。
ついには、こんなことを言われました。
「ねえ、何か怒ってるの?」
「えっ……?」
「だって、ずっと黙ってるから」
「いえ、そんな……」
「そう? それならいいけどさ」
再び沈黙の時間。
お互いとっくに昼食を食べ終わり、何をするでもなく、ただいたずらに時間だけが過ぎていきます。
「……」
「……」
私は勇気をふり絞り、別の角度からまた話題を出すことにしました。
「あの……ジョゼフ様は、将来領地をどのように経営していきたいとお考えですか?」
「経営~? おいおい、勘弁してくれよ……。先生の授業じゃないんだからさ」
「そ、そうですよね……ごめんなさい」
「……経営は父上がいるし、まあ別に大丈夫だろ。今うちはうまくいっているし、お金だって何もしなくても入ってくるし」
「ですが……」
「ああもう、君は僕に説教するために呼んだのかい?」
「いっ、いえ、すみません。そうじゃないんです。ただお話をしたくて……」
「ったく……まあ君が考えることじゃないよ。そういうのは僕に任せておけばいいんだ」
そこからの時間は、私にとっては拷問に等しいものでした。
何を話題にすればよいのかわからず、私はただただ黙り込んでいました。
しばらくして、辺りに鐘の音が響きます。
「……昼休みが終わるな。じゃあ、僕はこれで」
そう言って、ジョゼフ様は待っていたとばかりに早足で校舎に入って行ってしまいました。
(また、とは言ってくれないのですね)
一人取り残された私は、思わず小さくため息をつきます。
(やっぱり人間、そう簡単に変われたら苦労はしませんわね)
ジョゼフ様が興味を抱くような話題を勉強してきたつもりでしたが、私の場合、自分でも不自然に思うほど話題の出し方がぎこちないのです。
かといって黙っていると、怒っているのかとか、そういう風に勘違いされてしまいます。
最低限の人付き合いはできますが、けれどどこか違和感というか、そういうものはあったのです。
◆
ですから私が学園の図書室に入り浸るようになったのは、ある意味必然だったと言えるかもしれません。
規模こそ小さかったものの、必要最低限の本はあったし、本を読むスペースもあり、勉強にもうってつけでした。
何より、静かで人が少ないのが気に入っていました。
本棚のおかげで、勉強の休憩の合間に書き物をしたり、物思いに耽ったりしているのを見られにくい、というのもありました。
勉強に困った友人や、下の学年の子たちにも、たびたびここで授業の内容を教えたりもしていました。
いつもここで勉強しているだけあって、成績はそれなりによかったからです。
とにかく学園で唯一、私が落ち着ける場所がこの図書室でした。
図書室には私のほかにもう一人、常に居ついている方がいました。
ニコラ・ド・シャレット公爵令息です。
成績はトップクラス、綺麗な銀色の髪、すらりとした背に、儚いとも美しいともいえる容姿に、誰もが一度は目を奪われます。
私も勉強はできるほうでしたが、シャレット様には遠く及びませんでした。
ただ、シャレット様はあまりものを話さない、そっけないというか、冷たい印象を受ける方でした。
基本的に世間のことには興味がなく、図書室でひたすら読書をしている印象です。
公爵家ということもあり、誰も彼に話しかけようとはしません。
学園の令嬢たちからは氷の令息と呼ばれ、憧れを持ちつつも近づきがたい、そんな雰囲気を持っていました。
私も例に漏れず、シャレット様の邪魔にならないよう、いつも彼から遠いところの席に座るようにしていました。
彼は当然ながら、私のこともいないように扱っていましたから、ある意味私も気が楽でした。
そして私は身の程知らずなのを承知で、彼に少しだけ、ひそかに親近感を覚えていたのです。
ある日のこと。
放課後、私がいつものように図書室に行こうとしていると、ふと廊下の前をジョゼフ様が歩いているのが見えました。
なんとなく追いつくのが気まずいので、私は少し歩く速度を落としました。
(……仮にも婚約者なのに、何をしているのでしょう、私は)
(そうです、何も悪いことはありません)
そう自分に言い聞かせ、ジョゼフ様に話しかけようとした時でした。
「ジョゼフ様~!」
「ん? おお、アンヌか」
ジョゼフ様の歩いている先から、一人の令嬢が小走りに走って来たのです。
(あの子は……アンヌ?)
アンヌ・コラン。
小柄で、大きな可愛らしい瞳に、ブロンドの髪。
私と違い、常に一定数の友人に囲まれているタイプでした。
彼女は異性にも友人が多いようで、よく話しかけたり話しかけられたりしていました。
愛嬌もあり、私とは真逆の存在でした。
友人といえば友人だし、友人じゃないと言えば友人じゃない、彼女とはそんな微妙な関係でした。
知り合い、と言った方が近いかもしれません。
特に行動を共にするわけではないが、喋らないわけでもないような。
私は驚いて、思わず咄嗟に廊下の角を曲がり、その場に止まってしまいました。
(私、なにを……)
そうこうしているうちに、二人の声が聞こえてきます。
「今日はこれからお暇ですかー?」
「ああ、暇だけど。どうしたの?」
「だったら、一緒にビリヤードでもして遊びません?」
「ビリヤードか。いいね。よし、行こう」
「あっ、でも……」
「ん? なんだい」
「ジョゼフ様、もう婚約者がいるのに……ソフィーに悪いから、私、やっぱりやめておきます……」
「いや、いいんだよ。いいんだ。大丈夫だから。行こうよ。構いやしないさ」
「そうですか? ジョゼフ様がそう言うなら……」
そう言って、二人は楽しそうに談笑しながら一緒に去っていきました。
「……」
私は、その場に固まっていました。
(盗み聞きはよくないと思いましたが……でも……)
あんなに楽しそうな声は、私の前では決して聞かせてくれないものでした。
……いえ、それより。
婚約者がいながら、他の令嬢と一緒に遊ぶというのは……。
しかもお互い名前で呼び合っているのを見ると、既にある程度親しいと見ていいでしょう。
――でも。
(私が、いけないのでしょうか。私に、愛嬌がないから……)
◆
それからは、もやもやとした気持ちが少しずつ溜まっていきました。
そのまましばらく数日を過ごしましたが、ジョゼフ様とアンヌはお互い至る所で会っていることが分かってきました。
一緒に遊び、お互いさらに親しくなったのでしょうか。
友人から伝え聞いた噂ですが、お昼を一緒に食べたり、教室でずっと二人で話していたり、ついには男子寮にジョゼフ様と隠れて入っていくアンヌを見たという方もいたそうです。
(……さすがに、このままではいけません。やはり婚約者として、一言言っておかねば)
私は意を決してジョゼフ様の教室に行き、再びお昼に誘うことにしました。
ジョゼフ様は少し驚いたようでしたが、了承してくれました。
「……ああ、いいよ。じゃあ中庭でいいかな」
再び、二人で中庭に行きます。
あれ以来、結局二人でお昼を食べることはありませんでした。
それどころか、廊下で会ったりしてもお互い目線を交わすだけで、特に話すということはしていなかったのです。
席について、早速ジョゼフ様が切り出してきます。
「断りもなく急に呼び出したんだ。なにか用があるんだろうね? ないなら、もう行くけど」
私は、この言葉を我慢して聞かなければいけませんでした。
(……アンヌの急な用事には、応じるのに……)
ですが、あくまで私はエトマン家の為、危うく出そうになる非難の言葉を飲み込みました。
「……はい。今日お呼びしたのは他でもありません、ジョゼフ様とアンヌのことで……」
「ジョゼフ様~!」
と、私が最後まで言い終わらぬうちに、校舎の方から突然声がしました。
見ると、アンヌがこちらに勢いよく走ってくるのが見えました。
「もー、ひどいよ、置いて行っちゃうなんて」
「悪い悪い。急に呼び出されたからさ」
「ふーん、それならいいけど」
アンヌは私をちらりと見ると、どうしたことか、一緒の席に着いたのです。
「じゃあここで待ってるから、早く終わらせてよね」
「ああ」
私は、顔が熱くなるのを感じました。
(どういうこと? なんで、アンヌがいて当然みたいな空気になってるの?)
婚約者なのに、まるで私はおまけのような扱いでした。
こんな状況じゃ、言いたいことも言い出しにくくなります。
二人は既に体を寄せ合って、こちらを見ている状況です。
どう見ても出来上がっている何とも言えない空気に、飲まれそうになります。
案の定、ただでさえ話下手な私が、この場を切り抜ける気の利いたことを言えるわけもなく。
「それで、なんだって?」
「……いえ、なんでもありません。お話は、また後日に……」
「なんだ、だったら呼ばないでほしいな。行くぞ、アンヌ」
「はーい。じゃあね、ソフィー」
「……」
私は彼女の顔を見ることができませんでした。
二人はそのまま、仲良く体をくっつけながらどこかに去っていきます。
決定的でした。
(私、婚約者……ですよね?)
頭ではエトマン家の為だと分かっていても、ここまでないがしろにされると、流石にくるものがありました。
その晩は、昼間のことが気になり、なかなか寝付けませんでした。
◆
ある日の放課後のこと。
いつものように私は図書室で読書をしていました。
シャレット様も、普段通り静かに本を読んでいるようでした。
図書室には私と、彼しかいません。
心地良い時間でした。
と思っていたら。
突然部屋の扉が大きな音をたて、がらがらと開きました。
「ねえ、ここなんかいいんじゃない?」
「おいおい、ここは流石にまずいだろう。寮に行こう」
「寮だとばれたらまずいんじゃないかしら」
「ここだってそうだろ」
「ほとんどいつも誰もいないじゃない」
それはまごうことなく、ジョゼフ様とアンヌの声でした。
私やシャレット様が座っている場所は、入り口からは本棚の死角になっていて見えないのです。
(あの人たち、何を……まさか)
「ジョゼフ様?」
私は思わず立ち上がり、入り口の方に行きました。
するとあろうことか、二人は体を抱き合い、今にもお互い口づけをしようとしている最中だったのです。
「ソフィー!? お、おい、話が違うじゃないか、誰もいないって」
「あらら。ごめんなさーい」
二人は一応離れましたが、その距離感はいまだに近いままでした。
(……わざとだ)
おそらくアンヌは、私がいつも図書館にいることを知っていたのでしょう。
見せつけるようなアンヌの目が、嫌と言うほどそう語っていました。
(わざわざ、そのためだけにここに……?)
私はもはや、怒りを通り越してあきれていました。
「あー、これはその……なんだ、なんでもないんだ。二人で来ただけで」
ジョゼフ様は、視線を上に向けながら言いました。
(この期に及んで、言い訳などするのですね)
もうそれなら、きっぱり言ってほしかった。
そうでないなら、いっそ私から……。
……いえ、それだけはできません。
「ねえ、もう行こ」
「そうだな。それじゃあ」
二人はそう言うなり、何もなかったように図書室から出ていきました。
私はゆっくりと席に戻り、しばらく考え事をしていました。
(一体いつまで、こんなことが続くのでしょう……)
机の上には、勉強のための本や教材が積まれています。
(もはや、こんなことをして意味があるのかしら)
なんだか馬鹿馬鹿しくなったので、今日はひとまず寮に帰ることにしました。
机で荷物をまとめていると、ふと傍に誰かいることに気づいて、顔を上げます。
そこにはシャレット様が立ちながら、私を見下ろしていました。
何度もここでは一緒になっていますが、今までこんなことは一度もなかったので、私は驚いていました。
その綺麗な青い瞳に見つめられ、私は思わず硬直します。
「君は、ダンテス君の婚約相手じゃなかったっけ」
かすかに遠くから聞こえるような、そんな声。
心地良い響きでした。
「は、はい……。そうです、けど……」
「……」
私は先ほどのことを思い出し、そのまま黙って俯いてしまいました。
「……ごめん、いきなり」
「いえ」
「……それは、農業の本?」
「あ……はい。そうです」
「……ふーん。いや、何でもない。じゃあ、これで」
シャレット様はそう言ってから、荷物を持って静かに図書室を出ていきました。
(やっぱり、私はうまく話せない)
無理に変えようとしても、どこかで無理が来る。
色んな事が一度に起こって、その時の私の頭は何も考えられなくなっていました。
寮に帰り体の汚れを落としてから、私はすぐさまベッドに倒れこみました。
◆
週末に学園主催の社交パーティが行われるというお知らせが入りました。
何でも、王族である皇太子様も参加する大掛かりなものになるという話です。
学園の中心にある、大広間で行われるとのこと。
「パーティ、楽しみね」
「そうね、どんなドレスを着ていこうかしら……」
周りの令嬢たちは、普段とは違う大規模な催しに、皆色めき立っているようでした。
私はと言えば、日々の勉強に追われ、それどころではありませんでした。
また、事あるごとにアンヌにジョゼフ様と懇ろなのを見せつけられ、いい加減気が滅入ってもいました。
あくまで噂ですが、二人は既に隠そうともせず、大っぴらに学園のあちこちで情事を繰り返しているようです。
学園の風紀を乱す行為ですが、今絶好調の公爵家の息子ということで、誰も意見することはできません。
皆見て見ぬふりをしていました。
そういうわけで、私は一応まだ婚約はしている身ですが、ほとんどなきに等しいものになっていたのです。
(今度の休暇、お父様になんて言おうかしら……)
ジョゼフ様自体には、私はもはや何の感情も持っていませんでした。
唯一心配なのは、お父様になんと申し開きをしたらよいのかということ。
家の財政と私の感情でせめぎ合い、押しつぶされそうになっている状況です。
図書室には相変わらず通っていました。
貴族の夫人としての勉強をする意味はもうあまりありませんでしたが、それでも一度始めたことですし、せっかくなので続けることにしたのです。
あれ以来、あの二人がここに来ることはありませんでしたから、それだけはいいことだと言えました。
ここは、私にとって神聖な場所。
あの二人に入られるのは、ここが汚される気がして嫌だったのです。
そうして慌ただしく日々は過ぎていき、週末になりました。
いよいよ夜会が始まります。
私も一人の令嬢として、ドレスを着て参加することになりました。
会場に一歩足を踏み入れると、そこはもう外とは別世界のようでした。
煌びやかな、眩しいほどの装飾。
色とりどりに並べられた、豪華な食事。
ピアノの音楽に合わせてダンスを踊る、貴族たち。
そのすべてを、私はどこか冷めた目で見ていました。
一緒に来た友人たちから話しかけられても、どこか上の空。
図書室で借りた本を読みたくて、一刻も早く帰りたかったのです。
(それにしても……)
(これから、どうしましょう)
ジョゼフ様があんな状態で、とても婚約のことを話せる雰囲気ではありません。
このまま、なかったことになるのでしょうか。
それならそれで、いいと思っていました。
そしてしばらく夜会は続き、いよいよ佳境と言う頃でした。
ふと前を見ると、ジョゼフ様とアンヌが二人で並んで、こちらへ歩いてくるのが見えました。
二人とも、普段とは違う豪華な衣装に身を包んでいました。
パーティ中もたびたび視界には映りましたが、二人の関係については既に興味は全く無くなっていたので、特に何も思っていませんでした。
(こちらに来る……? なんでしょう)
二人は私の前まで来ました。
そしてジョゼフ様はアンヌと目配せしてから、突如こう言い放ったのです。
「ソフィー・エトマン! 僕は君との婚約を破棄することを、今この場で宣言する!」
◆
……。
自分の感覚が、会場内に戻って来ました。
ぼやけた視界は元に戻り、騒がしい喧騒も聞こえるようになっていきました。
私は冷めた頭で、考えていました。
……それにしても。
言うに事を欠いて、よりにもよって、いじめですか。
あくまで自分たちが被害者だと、そう言いたいのですね。
なんとなく想像はつきます。
彼らはおそらく婚約破棄をする大義名分が欲しかったのでしょう。
そのまま婚約破棄をすると、ただの浮気をした男と、寝取った女という事実だけが残りますから。
厚顔無恥な彼らでも、そうなれば公爵家といえども流石に非難の声は逃れられないと思ったのでしょう。
最後の最後まで、救いようがない方たちでした。
私自身はと言えば、やり方はともかく、彼らとすっぱりと関係を切られるので、むしろ清々しい気持ちにさえなっていました。
むしろ向こうから破棄してくれたので、お父様にもある程度言い訳が立ちます。
事情を話せば、許してもらえるでしょう。
ジョセフ様から出て行けと言われた私は、この場はおとなしく出ていくことにしました。
そうして私が後ろを向いた瞬間でした。
「殿下」
突然会場に、よく通る涼しい声が響きました。
声の主を探してそちらを向くと、それはいつも図書室で一緒だった、あのシャレット様でした。
(えっ……? シャレット様……?)
今この会場内で一番身分の高い王族、一番高いところにある椅子に座っている、国の第一王子のルイ殿下に向かって言ったようです。
ルイ殿下は若くして既に名君として通っている、皆の憧れの方でした。
「どうした、シャレット公爵子息。何か言いたいことでもあるのか」
「はい。恐れながら申し上げます。先のダンテスのいじめの宣言、あれは全くの事実無根でございます」
またもや、会場内にどよめきが沸き起こりました。
「なっ……! 急になにを言うんだ! 嘘なわけ、ないだろう!」
「そっ、そうです! ソフィーは、いつも私を……」
「二人とも、少し黙ってくれるか。俺は今シャレットと話をしたいのだ」
殿下からの圧力に、ジョゼフ様とアンヌは口をつぐみました。
私はといえば、驚きのあまり言葉を失って、その場に立っていることしかできないでいました。
「そこのジョゼフ・ダンテスは、ソフィー・エトマンと婚約をしている身でありながら、アンヌ・コランに浮気をし、学園内でも隠れて情事に耽っておりました」
「おい! おい! 何を言ってるふざけるなお前! いい加減にしろ! そんな、そんなこと、僕がするはず、ないだろう!」
「ダンテス」
殿下は、ジョゼフ様を鋭く睨みつけました。
「……!」
そのあまりの眼力に、ジョゼフ様は再び黙ります。
その顔は、真っ赤に膨れ上がっていました。
「それで?」
「そしてあろうことか、いじめという虚偽まで持ち出し、ソフィー・エトマンに罪を擦り付けようとしたのです。……おそらくは、婚約破棄の正当らしい理由付けに利用したいが為なのでしょう」
「ふうん……なるほどな。うん、話は大体分かった」
「でっ、殿下! まさか、そんな男のほら話を信じませんよね?」
「そっ、そうです! 言いがかりです!」
「アンヌ、お前は黙ってろ!」
その時のジョゼフ様とアンヌは、なんとも無様に見えたのを覚えています。
こんな絵に描いたような小悪党は、物語の中だけにしか出てこないと思っていたからです。
「さてな。どちらの言い分が正しいかは、実際俺にもわからんのだ」
「そ、そうです! この男には証拠が、証拠がないのです! 殿下! この嘘つきめ!」
「そう。確たる証拠がない。だからダンテスとその女を罰することはできん。それはソフィー・エトマンのいじめの件についても同じだ」
「証拠なら、私たちが証拠です!」
再び声がしたので振り向くと、そこには学園の令嬢たちが数人、集まっているのが見えました。
(あ……あの子たち……)
それは、私が図書室でよく勉強を教えたりしていた生徒や友人たちでした。
「殿下。シャレット様の言うことは本当ですわ! ソフィーさんはいじめなどしていません!」
「むしろ、いじめていたのはアンヌさんの方です! いつもお二人でソフィーさんに見せつけるようにしていましたもの!」
「そうです! そうです!」
その子たちを機に、あちこちで私への擁護の声が上がり始めました。
「お二人が今晩の計画のことを話しているのを、私はっきりと聞きました!」
「二人で寮に入っていくところも見ましたわ!」
「私などは、お二人が……いやっ、これ以上ははしたないので言えませんわ!」
ジョゼフ様とアンヌの学園内での横暴とも言える数々の行動は、相当目に余るものがありました。
皆、思いの強さは違えど、思うところがあったのでしょう。
シャレット様が異議を申し立てたのをきっかけとして、膨らんだものがはじけるように、次々と擁護の声が出てきたのです。
それらを、ルイ殿下は心底面白そうに聞いていました。
「なるほど、なるほどな。皆、貴重な意見感謝する。……だが、やはりどれも確実な証拠とは言えないな」
「!! でっ、殿下! そうです、そうですとも!」
「うん。だからこの件については、いじめの方も、浮気の方も不問にしよう。どちらにも証拠がないからだ。だが、その後についてはお前たちの好きにするといい。各々どう思うのか、どう感じるのか、どう行動するのかもお前たちの自由だ。それまでの関係を鑑みて、どちらを信じるか信じないかを決めるのだ。……それでいいな? シャレットよ」
「はい。感謝いたします。殿下」
「よし、話は終わりだ。宴を再開しよう。まだまだ夜は長い」
私は、その後のことをあまり覚えていません。
令嬢たちが駆け寄ってきて、皆目に涙を浮かべながら話しかけてくれたのをおぼろげに覚えています。
ジョゼフ様とアンヌの二人は会場から出て行ったのか、最後まで見かけることはありませんでした。
そして、パーティが終わりに近づいてきた頃です。
ようやく周りから令嬢たちがいなくなると、私はある人を探し始めました。
「シャレット様……」
私を助けようとしてくれた。
いえ、助けてくれた。
ほとんど、関わりなんてなかったのに。
ですが、シャレット様は既に会場には見当たりませんでした。
(……そうだわ)
私はふと思いつき、早足で会場を出て、ドレス姿のまま校舎に向かいます。
ドレスを持ち上げて走りながら、一直線に図書室へと足を運びました。
やはり、図書室の明かりはついていました。
私は息を整えてから、戸を静かに開けました。
(シャレット様……!)
果たして、シャレット様はそこにいました。
いつものように同じ席に座り、優雅に本を読んでいました。
こちらに気づくと、ふっと彼は微笑みます。
「やっぱり、来てくれたんだ」
「えっ……?」
「なんとなく、ここにいれば会えると思って」
私はその時、嬉しいやら恥ずかしいやら、何だか不思議な気持ちになりました。
「あの……どうして、私を助けてくれたんですか?」
「どうして、か……。うーん、やっぱり、どうしても君のことがほっとけなくって。迷惑じゃなかった?」
「いっ、いえ! 全然、迷惑じゃないです! ……私、本当に嬉しくて。シャレット様に、お礼を言いたくて、ここに……」
「ドレスのまま、来たと?」
「……」
私は思わず、顔を赤らめました。
「ごめんごめん。ドレス、よく似合ってるよ。綺麗だ」
「……! あ、ありがとう、ございます……」
不意打ちでした。
私はこの時から、もうこの人の虜になっていたのです。
「でも、なんだか不思議な気分です。シャレット様とはいつも顔を合わせていたのに、全然お話ししていなかったので……今こうして普通に話しているのが嘘みたいで」
「たしかに、そうだね。俺は君がジョゼフ君の婚約者だと知っていたから、話しかけたら彼に悪いと思ってたんだ。でも、その心配はもうしなくていいからね」
「婚約破棄……されちゃいましたからね」
「……」
「……」
私たちは、顔を見合わせて笑いました。
「でも、本当にあれでよかったのでしょうか……。ルイ殿下は、どのようなお考えなのでしょう。私、まだ混乱していて……」
「大丈夫。あの人は立場上ああ言わざるを得ないだけで、本質は見極められる人だからね。それにそもそも、彼と俺は昔からの友達でよく見知った仲だし、会場では他の子たちの証言も沢山出たから、ほぼ間違いなく、ダンテス家の王家からの印象は悪くなるだろうね」
私はまたも驚いてしまいました。
公爵家ならば、殿下と親しくなる機会が多いのは、そうかもしれませんけど……。
二手も三手も上を行っていたシャレット様に、ただ驚いたと言いましょうか。
「とりあえず今日はもう遅いし、帰ろうか。寮まで送っていくよ」
「あ、ありがとうございます」
シャレット様と一緒に歩く夜の校舎は、全てが新鮮に見えました。
女子寮の前まで来た後、シャレット様は「また明日」と言って、男子寮の方へ去っていきました。
(また、明日……)
そう言ってもらえて、私は心が温かくなるのを感じました。
◆
それからの日々は、私にとってとても幸せなものでした。
放課後になると図書室に寄っては、今までお互い話せなかったことを話すように、シャレット様とお話をしました。
もちろん、図書室に他に誰もいないときに限って、ですけど。
シャレット様は私のとりとめもないお話を、急かさず静かに楽しそうに聞いてくださるし、貴族の領地問題、経営問題についても日頃から考えておられる方でしたから、今まさに勉強中の私とは、とても話が合ったのです。
彼の知識の深さは私とは比べ物にならないほどで、とても興味深い話を沢山してくれました。
博覧強記とは、まさしく彼のことをいうのでしょう。
シャレット様は実際に話してみると、氷の令息という印象は受けませんでした。
むしろ、とても気さくで、おしゃべりで気のいい方だと分かってきたのです。
……ということをお話したら、彼は少しばつが悪そうな顔でこう言いました。
「なんでか、皆俺を誤解するんだよ……まあ俺にも原因はあるけどさ。俺はただ、静かに本を読んでいたい、それだけなんだ」
「やっぱり、私たちは似た者同士ですね」
「……そうかもね」
しばらくして、昼食も一緒に食べるようになり、学園内でも新たなペアが誕生したと、一時話題になりました。
皆、例の騒動を知っていたので、さもありなんと納得している様子でした。
あるいは、図書室にいつもいる二人がくっついたくらいの認識なのかもしれません。
シャレット様と話していると、時々ふとお互い無言になることがありました。
ですが、それは決して気まずいものではなく、むしろ心地よい沈黙の時間でした。
「……」
「……」
一緒に窓の外の景色を見たり、静かに読書や勉強をしたり。
お互いをわかっているからこその、沈黙。
一度そのことを話題にすると、彼はこう言ってくれました。
「無理に人に合わせる必要なんてないよ、ソフィー。君は君のままでいい」
ジョゼフ様とアンヌですが、一応今まで通りに学園生活を送っていました。
いえ、今まで通りというのは違いますね。
ジョゼフ様は流石に体裁が悪いのか、以前のような横柄な態度は鳴りを潜め、肩身が狭そうに、窮屈に毎日を過ごされているようでした。
廊下などで令嬢たちとすれ違うたびに、非難の眼差しで見られるのですから、無理もないことでしょう。
綺麗なブロンドの髪も、あれ以来くすんで見えました。
ダンテス公爵家の事業も、新技術の確立により古いものとなり、実のところ今財政はかなり厳しくなっていると、シャレット様から聞きました。
(その上、あの勉強嫌いのジョゼフ様が跡取りなのですから……今後は、大変でしょうね)
アンヌの方も、多かった友人は皆いなくなり、しばらくジョゼフ様同様、こじんまりと過ごしているみたいでしたが、ある日突然学園から姿を消しました。
彼女がどこに行ったのか、誰も知りませんでした。
後に聞いた噂ですが、コラン男爵家は色んな要因が重なり、取り潰しになったそうです。
それからも学園では様々なことがありましたが、無事何事もなく過ぎていきました。
ですが同時に、どうしようもなく寂しい気持ちも強くなっていきました。
(シャレット様と、離れ離れになってしまう)
シャレット様は、私のひとつ年上。
つまり、今年で学園を卒業してしまうのです。
◆
学期末。
卒業式が終わり、私は友人たちと他愛もないお話をしてから、いつも通り図書室に向かいました。
(明日から、私一人で……)
(いいえ、今までと何も変わらない、ただ元に戻っただけ……)
私は俯いていた顔を上げ、図書室の戸を静かに開けました。
静かな図書室の中には、誰もいませんでした。
卒業式の日にここに来る好き者は、私くらいのものでしょう。
まだシャレット様は来ていないみたいでした。
お互い、時間ができたらここで待ち合わせると、約束していたのです。
(今はお昼前……。シャレット様は卒業生ですから、流石にまだ時間がかかりそうですね)
私は待つ間、いつものように読書をすることにしました。
そして、一時間後。
(そろそろでしょうか……)
二時間後。
(お腹がすきました)
四時間後。
(……結構、時間がかかっているんでしょうか)
既に本を一冊読み終えてしまいました。
そして、六時間後。
まだシャレット様は来ません。
(もしかして、もう、学園を出てしまわれて……?)
外ももう夕方になり、日が沈もうとしています。
と、そこで図書室の戸が開き、シャレット様がやってきました。
「シャレット様!」
「ごめん、遅くなって。先生やら、友人やら、お世話になった人らに色んなところに連れまわされてさ。……待った?」
「少しだけ。でも、平気です。シャレット様が来て下さったので」
「そうか……」
「……」
そこから少し、沈黙の時間が続きました。
「今日で、お別れですね」
「……そうだね」
「シャレット様なら、国で一番の貴族になれます。私が保証しますわ」
シャレット様は、微笑みました。
「それは有難い。そうなれるように、努力するよ」
そして、彼は図書室を見回しました。
「ここに来るのも、最後か。なんとも感慨深いね」
シャレット様は窓辺に近づいて、夕日に染まった景色をしばらく見てから、振り返りました。
「ところでソフィー、そろそろ俺のこと、名前で呼んでくれないか?」
「え?」
「俺だけ名前で呼ぶのも、変だろ」
「そう……ですね。最初の呼び方に慣れると、つい……。じゃあ……ニコラ様」
「呼び捨てでいい」
「ニ……ニコラ」
「うん。よし、そろそろ行くか」
ああ……ついに、お別れなのですね。
どうしようもない寂しさはありますが、私は覚悟を決めてニコラを送ろうと、彼に微笑みながら言いました。
「またどこかで会えることを、信じておりますわ」
「……ん? いや、君も来るんだよ」
「……へ?」
「お別れって言ったのは、ここの図書室のことだよ」
「ど……どういう」
混乱している私に、ニコラは急にまじめな顔になって言いました。
「ソフィー、結婚してくれ。俺はもう、君がいないとだめなんだ。もう、どうしようもなく好きなんだよ」
「けっ……こん?」
「……本当は、ここで一目見た時から君のことが気になっていた。だから、いつもここに来るのが楽しみだったんだ。本を読んでいる時の君の顔が、あまりに綺麗だったから。こんなこと、流石に恥ずかしくて今まで言えなかったけどね。でも君は婚約していた。だから眺めるだけにしたんだ。でも、図らずも向こうが婚約破棄をしてくれた。だから、俺にもチャンスがあると思ったんだ」
私はあまりの驚きに、その時言葉を失っていました。
「パーティで君を助けたのも、下心が全くなかったといえば嘘になるけど。でも、純粋に助けたかった気持ちも本当なんだ。実際に話すようになってからも、同じ本好きで趣味が合うし、領地経営や色んなことを勉強していて、ますます好きになったんだ。……今まで言わなかったこと、怒るかい?」
私は嬉しさのあまり溢れる涙をぬぐい、呼吸を整えて、彼に再び微笑みました。
「……いいえ。いいえ。結婚、喜んでお受け致しますわ」
◆
後日談。
色々ありましたが、私は学園を中途で退学し、シャレット公爵家に嫁ぐことに決まりました。
お父様が最初にその知らせを聞いた時の驚きようときたら、言い方は悪いですけど、とても面白かったです。
でも、無理もありません。
婚約していた公爵家から婚約破棄されたと思ったら、別の公爵家の方と結婚することが決まったのですから。
公爵家では、とてもよくしてもらっています。
学園にいた時のように、毎日書斎でニコラと本の内容や、領地経営についての意見を言い合っているので、あまり変わりがないと言えばそうでした。
変わったことと言えば、ニコラが事あるごとに「好きだ」とか「綺麗だ」とか言ってくるようになったことでしょうか。
もはや遠慮なしのストレートです。
私もそれにまんまと乗せられているのですから、とやかくは言えませんけど。
最近では、屋敷の庭で自分で農作物を一から育ててみたりしています。
実際に自分の手で学んでこそ、分かることもあるというもの。
これらの野菜が収穫できる時が、今から楽しみです。
おわり
読んで下さって、ありがとうございました。