第5話『仕事なんざ知るかバァアアアカ!』
――カチ、カチ。
時計の針の進む音が妙に大きく聞こえた。
俺はパソコンの前で手を組み、願っていた。
時刻は18時39分。あと1分で退社しなければ、二次審査の時間に間に合わない。
――カチ。
時計の針が進み18時40分を指した。
作業そのものはすべて終わっている。あとは先方のチェック待ちだけ。
まだ、ギリギリ間に合う。自転車を全力で漕げば5分は短縮できるはずだ。
* * *
18時44分。
――ジリジリと時間だけが過ぎていく。
電話でタクシーを呼んだ。会社の前で待ってもらうことに。これであと数分は稼げる。自転車は明日、乗って帰ればいい。
* * *
そして、18時49分。
――限界だ。
俺は立ち上がった。
「すいません、先輩。あとは先方からチェックもらえれば終わりです。でも私、どうしても帰らなくちゃいけなくって。だから……」
「はァあああああああ!? さっきテメェ、自分で『やる』っつったよなァ!? テメェが引き受けた仕事で、テメェのミスだよなァ!? やり切るのがスジってもんじゃねェのかあァん!?」
「本当に急いでるんです!」
その声は意外なほどに、社内に響いた。
俺が――私が反論するのがよほど珍しかったのだろう。社内中の目がこちらを向いていた。
「私のミスであることも理解してます。でも、本当に……どうしても帰らなくちゃいけないんです。もし先方のチェックでさらなる問題が発覚したら電話してください。そのときは会社に戻ってきて対応します。だからどうか――」
「『電話してください』だァ!? テメェは先輩をあごでこき使おうってのかあァん!? ただでさえオレァ、テメェの代わりに先方に頭下げて謝ってやってんだぞあァん!?」
いつの間にか、時計の針は18時51分を指していた。
「すいません、帰ります」
俺はカバンを引っ掴んで、先輩の脇を抜けようとした。
走ってタクシーに乗り込んで、家まで送ってもらって……間に合うかわからない。でもまだ可能性は残っているはずだ。信号の運がよければきっと――。
俺の腕が――ガシッ、と掴まれた。
「勝手に帰ろうとしてんじゃねェよ」
「離し――」
振り払おうとするが、先輩に捕まれた腕はビクともしなかった。
瞬間、フラッシュバックする。
先輩と、昨晩のおっさんの姿がダブって見えた。力では決して男には敵わない――俺はそのことをすでに思い知らされていた。
――逃れられない。
諦念が胸中を支配する。
そして、昨日のできごとがあったにも関わらずなんの対策もしていなかった自分の迂闊さに、間抜けさに……呆れを通りこして情けなくなる。
「あァん!? 泣きゃあ許されると思ってんのかあァん!? これだから女はよォ!」
時間は淡々と過ぎていくかに思われた。しかし――ピコンっ、とパソコンが電子音を鳴らした。画面にメールの受信通知が表示されていた。
「……確認してもいいですか?」
先輩社員があごで許可を示す。
メールの内容は、サイトのチェックが完了し問題がなかった旨と、『今回の件が発生した経緯と今後の対策を説明』に対する指摘だった。
それを読んでいる途中で俺の手が止まった。
指摘の内容はこうだ。
――――――――――――――――
本件の発端となった案件に関して。
修正を担当したのは侘木さんとのことでしたが、事実でしょうか? 途中で、担当者は侘木さんから交代になったと当方では認識しております。
以下、その際のメールのやり取りを添付させていただきます。
ご確認のほど、よろしくお願いいたします。
――――――――――――――――
「……はい?」
えーっと、これは。どういうことだ? 理解が追いつかない。
だが、頭のスミになにか引っかかるものがあり、それを辿るようにプログラムの更新履歴を遡っていった。
ウチの会社はバージョン管理もテキトーだ。修正内容のメモも残されておらず、だれがいつなにを修正したのか、一目じゃ確認できない。しかも、俺はあのときひどく慌てていた。
まぁ、つまり。なにが言いたいのかというと……。
――前回の修正やったの、私じゃなくて先輩じゃねぇかぁあああああ!?
更新ログには先輩のパソコンIDが記載されていた。
お、俺はなんて見落としと誤解を……!?
先輩が本気でキレていたから、俺もてっきり私のミスだと思い込んでしまった。
まさか先輩のやつ、俺に罪をなすりつけようと……いや、ちがうな。あの激怒っぷりは本物だった。おそらく、自分が担当したことを本気で忘れているのだろう。
俺はゆっくりと、深く、うなずいた。それから『経緯』の内容を修正してメールを返信し、無言でパソコンの電源を落とした。
時刻は18時56分を指していた。
「あァ……? オイ! なに勝手に帰ろうとしてやがんだあァん!? ほかにも仕事はまだ――」
「こんな仕事やってられっかぁああああああああ! こんな会社やめてやるぅうううううう!」
俺は出口へと向かって歩き出した。
「ナメたこと言ってんじゃねぇぞあァん!? いきなりやめられるわきゃねェだろォが! 契約違反で……」
「退けぇえええ! 今すぐそこを退かなきゃ、違法な労働とパワハラセクハラでこの会社を告発してやる! あんたを訴えてやるぅううう! わかったら今すぐ、そこを退けぇえええ!」
俺は吠えた。
先輩が一瞬怯んだ隙を突いてその脇をくぐり抜ける。俺は全力ダッシュで逃げ出した。
「ま、待てやゴラァああああああ!?」
伸ばされた先輩の腕はギリギリで、俺に届かなかった。
俺はそのまま会社を飛び出し、入口の前で待ってくれていたタクシーに転がり込んだ。
「出して! すぐ!」
「え!? あ、はい!」
タクシーが走り出す。リアガラス越しに会社を見たが、外まで追いかけてくる者はいなかった。
「ふ……ふは、ふはははははははは!」
「お、お客さん……?」
俺はもう色々と吹っ切れた気分だった。
――会社のバッキャロォオオオオ! なぁにが労働じゃ! なぁにが勤務じゃ! もう知らねぇよバァアアアアアアアアアカ!
「運転手さん」
「え!? は、はい。えっと……あはは、その、どこまでお連れしましょうか……?」
「そこのコンビニ!」
「こ、ここですか!?」
まだ200メートルも走っていなかった。だが、そんなことはお構いなしだ。タクシーの運転手の困惑をムシして俺はサイフを取り出した。
細かいのがない。
「つりはいらねぇ!」
「え!?」
俺は1万円札をトレイに叩きつけると、停車したタクシーから飛び出した。
18時59分。
俺はそのままコンビニの個室トイレへと駆け込んだ。
バタン、ガチャ、と慌ただしく密室を作り、スマートフォンを取り出す。選考メールに記載されていたオンライン面接用のURLをタップする。
そして……。
――19時00分ジャスト。
俺のVTuberオーディション二次審査がはじまった――!