第3話『しゃちくのおしごと!』
俺が転生しブラック会社で働きはじめてから、あっという間に時間は過ぎていった。
1日……2日……5日と経過して土曜日。ようやく休日だと思いきや当然のように呼び出されて出勤。日曜も出勤。振り替え休日だったはずの月曜日も出勤。
出勤、出勤、出勤……。
三連休どこにいったの? 労働基準法? 36協定? なにそれおいしいの? フルタイムって24時間勤務のことを言うんだっけ?
「あは、あははは……って、あれ? そういえば今日って何日だっけ? ……2月13日? ええっと、だから――、ッ!? 二次審査もう明日じゃん!?」
結局、あれからなにもできていなかった。パソコンからデータは取り出せてないし、面接の対策もなにもできていない。でも一方で、仕事には慣れつつあった。
本末転倒にもほどがあるだるろぉん!?
「侘木ィいいい! なァに手ェ止めてんだあァん!? テメェに作業割り振ってやってんのはだれのためだァ!? テメェのためだろうが! 無能なテメェを少しでも使えるようにしてやろうってんだろォが! さっきやれっつった案件はどーなったんですかァ!?」
「あ、はい。その修正ならちょうど今終わったので、開発環境にあげておきます」
はじめのうちはツラかった罵倒だが、今では初心に返った気分で聞けるようになっていた。
いやぁ、新人のころを思い出すなぁ。あのころの俺は『こんな上司にだけは絶対にならない』という反骨心ひとつで仕事をしていたといっても過言ではなかった。
「だったらさっさとそう言えやァ! それとも聞かれねェと答えられないんですかァ!?」
「すいません」
申し訳なさそうに謝罪しながらも、頭の中は審査のことでいっぱいだ。
あーやべー……結局、なにも準備できてない。でもせめて、一度決めたからには、審査を受けない――いや、受けられない、なんて結果にだけはしたくない。
そのために明日はなんとしても定時で帰らなければならない。
「明日ですが、言っていたとおり、どうしても外せない予定があるので定時で帰ります」
「はあああァん? ナメてんじゃねーぞ!? 先輩や上司が必死こいて働いてるってェのに、自分だけは先に帰りたいです、ってかァ? オレらが必死こいてんのはテメェら無能の分までがんばってるからだろォが! 無能が一丁前に休みだけは要求てんじゃねぇぞあァん!?」
「すいません、でもどうしても外せない用事なんです。手持ちの案件はもうすぐ全部終わりますから、ほかに期日ヤバい案件あったら優先して回してください。手伝います」
ピクリ、と先輩のまなじりが震える。珍しい表情。怒りというより、訝し気といった様子。
ぶっちゃけ俺はこの会社で演技なんてほとんどしていなかった。そんな余裕はなかった、とも言うが。だが、だれからも『変だ』なんて指摘されることはなかった。
つーかこの先輩、俺――というか私の人格を完全否定してるし、気づかれようがない気がする。
結局、先輩の表情はすぐに、なにごともなかったかのように怒り一色に戻った。
「へェー、そりゃー知らなかった! テメェがそんなにヒマしてたとはなァ! だったらもっとはやくそう言えやァ! それともなにか? テメェは聞かれなきゃホウレンソウもできないんですかァ!? ……あァ、なるほど。指摘されなかったらそのままサボってようとか考えてたわけだ! テメェはほんっと卑怯者だよなァ!」
「報告が遅れてすいません」
多分だが、訝しがられたのは仕事のペースが異様に上がっていたからだろう。
俺は案件をそれこそ片っ端から片付けていた。いやほんと、前世と近い仕事で本当に助かった。転生してからあった唯一の『いいこと』かもしれない。
そうじゃなかったら、今はもっと地獄になっていたことだろう。
……ちなみに。
毎日、深夜1時前後に退勤しているが、本来の定時は18時らしい。判明したのはつい昨日。どこにも記載が見当たらなかったから、調べるのに本当に苦労した。
最終的にこっそりとほかの社員に尋ねることになったのだが……。
『テイジ……? テイジってなに?』
『あっ(察し)』
『……あぁ、定時! 定時か! ごめんね、あまりにも久しぶりに聞いた単語だったから』
『ソーデスヨネ』
『ええっと、侘木さんはバイトだったよね? ……大丈夫かい? 働きはじめてもう2年なのに、正社員にしてくれるって約束まだ守って貰えてないんだよね?。 ……あぁ、ごめん余計なことを言った』
『アハハ……』
『たしか、バイトはぼくたち正社員より1時間、勤務時間が短いから……ええっと、あれ? そういえばぼくの定時って何時だったっけ……?』
『な、なんかすいません』
そこから1分ほど唸ってようやく思い出してくれた。今さらだけどこの会社ほんと……。
結局、今日も俺は深夜1時まで――実質の定時まで働いてから退社した。
自転車にまたがり夜道を走る。
めずらしく今日は、すこしだけ気分が上を向いていた。明日が期日の案件を、なんとか今日中にすべて終わらせることができたのだ。
まぁ、どうせ当日期日の案件やトラブルが舞い込むんだが……それでも、やれるかぎりのことはやった。
「~~♪ ~~~~♪」
やり切ったような気分で鼻歌しながら自転車を漕いでいた、そのとき。
――ガシャン!
横合いから突然、自転車のハンドルが掴まれる。
バランスを崩して、俺はすっ転んだ。
「痛ってぇ!? な、なんだいったい!?」
擦りむいたひざがジンジンと痛む。すっかり履き慣れてしまった黒のストッキングが伝線していた。
頭上に影かかる。顔を上げると、そこいたのは……。
「ご、ごめんね。ちがっ、ちがうんだ……ケガさせるつもりじゃ。……あ、あの……ねぇキミ。いつもこの時間……ここ、通ってるよ、ね……? ボク、その、いつも見てて……!」
脂ぎった肌とだらしない腹、ハゲた頭。30代後半ほどに見える男が俺を――いや、私を見下ろしていた。すぐさま事態を理解した。
――うわぁああああ!? ヘンタイだぁあああああああ!?
下心丸出しの顔、というのはこういうのを言うのだろう。男のときは気にしたことも気にする必要もなかったが、向けられてはじめてわかる不快と嫌悪がそこにはあった。
「これ、普通に傷害なんで警察呼びますね」
「ち、ちがう! 事故だ! ボ、ボクはただキミとお話しようと……!」
あー面倒くさいなこれ。ただでさえ疲れてるのにこんなトラブルにまで巻き込まれるとか、ツイてないにもほどがある。
気持ちの悪いおっさんをムシして、俺はスマートフォンを取り出し……。
――ガッ。
と、腕が掴まれた。
スマートフォンが手から零れ落ち、地面を転がった。
「なにするんですか? さっさと放し――」
おっさんの手を引き剥がそうとして。
「……ぇ?」
おっさんの手はビクともしなかった。
そのとき俺ははじめて理解した。今の自分が非力な女性であることを。
――ゾワァァ、と背筋を寒気が駆けあがった。
「っ……! 放せ、このっ!」
「ハァっ……ハァっ……」
必死で抵抗するも逃れられない。
おっさんが湿った息を吐きながら顔を近づけてくる。あやしげに蠢くもう片方の手が私の胸元へと伸びてきて……。
「――おい! そこでなにしている!?」
まばゆいライトが俺たちを照らし出した。
腕が解放され自由になる。ドタドタと遠ざかっていく足音が聞こえた。
やがて、光に眩んでいた目が近づいてくる影を捉えた。青い制服――警察官だった。
「大丈夫ですか!?」
差し出された手から俺は反射的に距離を取る。
警察官の青年はどこか申し訳なさそうな顔で手を引っ込めると、無線機に顔を寄せどこかと通信をはじめた。断片的に『事件発生』『場所は』『傷害』『逃亡』という単語が聞こえてくる。
俺はどこか遠い出来事のようにその声を聞いていた――。
* * *
あのあと俺は交番に連れていかれた。2時間ほど手当てと事情聴取を受けたあと、パトカーで家の前まで送ってもらった。
「……」
ボスン、とベッドに倒れ込む。シーツをぐしゃりと握りしめた。
はっきり言って、俺はショックを受けていた。男のときには到底ありえなかったトラブルに。抵抗しようとしてもできない非力さに。
肉体というのはおよそ自分がもっとも信頼できる存在であったのだと、こうなってはじめて気づく。
手を動かせば手が動く、足を動かせば足が動く、物を持てば持ちあがるし、走れば前へと進める。
その常識が突然、目の前で崩れ去った。引き剥がせると思った。引き剥がせるはずだった。本来の力なら。でも現実はビクともしなかった。
”私”の身がいかに頼りなく、いかに無防備だったのかを思い知った。
「……今日は疲れた」
いや、疲れてるのはいつものことなんだけど……今日は飛び抜けて。
時刻はもう4時になっていた。出勤まで3時間もない。
着替える余裕すらなく、ウトウトとしはじめる。
頭のどこかで『審査の準備をしないと』という思いはあったが、身体はまったく言うことを聞いてくれなかった。
俺はそのまま眠りに落ち――そして、二次審査の当日が訪れた。
そして――。
* * *
二次審査の当日。
時刻は18時――すなわち、定時。
「――なァにしてやがんだテメェはよォおおおおおお!?」
先輩社員が俺の前に立ちふさがっていた――。