第9話『仕事の辞めかた講座(後編)』
正社員への昇格。それは私が2年間も望み続けていたもの。
胸中で私の心が揺れているのを感じながら、俺は――ゆっくりと首を振った。
「ありがたいお話ですが、転職はもう決めたことですから」
俺は確信していた。たとえもう2年待ったところで、この社長が願いを叶えることはない、と。
これは鼻先にぶら下げられたニンジンにすぎない。
「……んー、そうかい」
俺は手の内にある退職届を再度、社長へと突き出す。
社長は組んでいた腕を解き、今度は指を組んだ。ずっと微笑みで固められていた社長の表情が、変化する。
「侘木さん、率直に言うけれど……いきなり『2週間後に辞めます』なんてのは社会人として常識に欠けているよ。私個人としては侘木さんの門出を祝ってあげたいところだけれど」
「法律上は2週間前に申告すれば問題ないはずですが」
「でも就業規則で1ヶ月前に申告するように定められている」
「っ……」
本性を現しやがったな。
そんなの初耳だ。そもそも就業規則そのものが会社のどこを探しても見つからなかった。
でも1ヶ月前の申告というのは、たしかに妥当だ。
「考えてもみて欲しい。業務の引継ぎや退職の手続きもしなきゃいけないし、代わりの人も雇わなくちゃいけない。2週間じゃどうしたって間に合わないだろう?」
「それは……! ですが!」
「法律で決まっている『2週間』というのは、本当に危急を要するときのためのものだよ。たとえば……そうだね、もしご両親が亡くなられて、実家のお店を今すぐ代わりに切り盛りしなくちゃいけない、なんて理由なら融通してあげられるけど。そうじゃあないよね?」
「……違います」
本当に口がうまい。それにタチも悪い。言っていることの大部分は正論だから余計に。
もし俺が見た目どおり社会に出てから1、2年の新卒なら、社長が言うところの『常識』を刷り込まれていたかもしれない。
「それにうちは給与が20日締めだからね。2週間後に辞めるとなると中途半端で手続きが煩雑になるんだ。だからどうかな、来月の締め日までは働き続けるのは。そっちのほうが侘木さんのためになると思うよ」
「……わかりました」
俺は社長の押しに負けたように首肯した。
そして、勝ちを確信した。
「それはよかった! じゃあ、その退職届は一旦、侘木さんに返しておくよ」
「いいえ。これは、このまま提出させてください」
「……ん? どういうことかな? 日付がズレるから修正してからじゃないと受け取れないよ。ただ私はこれから出なくちゃいけなくってね」
「すぐに終わります。だって、私も同意見でしたから」
「うん?」
「話が途中になっていましたが……私の希望としては2週間後の3月1日づけでの退職です。が、いきなり2週間後というのは難しいと考え、来月の締め日づけでの退職届を用意してきたんです。つまり、社長と同意見です」
「……」
「社長、ありがとうございます。これまで大変お世話になりました。こちらにも記載されているとおり、来月20日に退職させていただきます」
「……わかったよ」
社長はついにそれを受け取った。
「いつでも、気が変わったら働き続けてくれていいからね」
「ありがとうございます。失礼いたします」
俺は深く頭を下げ、それから自分のデスクへと戻っていく、途中で振り返る。
「そうそう社長。ところで――私の有給はあと何日残っていますか?」
俺は思いっきり笑顔を浮かべて、問うてやった。
* * *
俺は交渉を終えて、今度こそ自分のデスクへと歩いていた。
――はぁ~~~~! 危なかった!!!!
心底から安堵の息を吐く。
あれからも『自分の有給くらい自分で把握しろ』やら『先に退職願を出せ』やら『大きな案件があるからそれが終わるまで』やら、手を変え品を変え口車に乗せようとしてきて……事前に準備していなければなぁなぁにされていたかもしれない。
「……ふぅ」
使わずに済んでよかった、とジャケットの内ポケットを撫ぜる。
ここにはハラスメント発言の録音が入ったスマートフォンがある。ただ、これを出すことになっていたらそれは実質の負けだった。
録音したといってもここ2週間分の記録しかない。
なにより、証拠があったとしてもどうせ使えない。
――世知辛ぇよなぁ。
仮に証拠が揃っていたとしてもできることは”民事”裁判だけだ。いわば自腹の裁判。
時間と金と労力を費やして、その結果得られるものといえば大抵の場合は費用よりも少ない額の慰謝料だけ。
恨みを晴らすのが目的ならそれでもいいだろうが、今の俺には負担が大きすぎる。VTuberオーディションもあるし、転職活動も終わったわけではない。
なによりこんな会社とはやく関係を切りたい。
私の状況を鑑みるともう少し慰謝料をもらえるだろうが、それでも労力に見合うかは怪しい。
泣き寝入りするしかないのが現実。
それでも――悲観する必要は一切ない。だって死なずに済んだのだから。
死ぬくらいなら会社を辞めればいい。頭ではわかっていても、先に心が潰れてしまうことがある。
私がそうなる前にこの状況から抜け出せたこと。
今はただそれを喜べばいい。
そう俺は本心から――。
「戻ってくんのが遅ェんだよ! テメェは仕事をしねェだけじゃなく、社長の時間まで奪って足を引っ張りやがってなにがしたいんですかァ!? テメェがやってることは無能以下だってこと理解してるんですかァ!?」
「……」
「迷惑ばっかかけてよォ! テメェには羞恥心がないんですかァ!? ハッ、女のクセに化粧もせず出歩けるような精神の持ち主だもんなァ!? 毛づくろいできる猿のほうがまだ常識知ってんな!」
……すー、はー。すー、はー。落ち着け俺……うん、落ち着いた。
死ぬのもダメだが、殺すのもダメだ。こんなやつの命と引き換えに自分の人生をくれてやるなんて勿体なさすぎる。
だって、これから待っているのは今よりもずっと楽しい毎日なんだから――。




