六話 種族の違い
完全に夜は更け、わずかに月明かりだけが森の中を照らしていた。風もいつの間にか止んでおり、聞こえてくるのは自らの地面を踏みしめる音のみだ。
何度か転がっている石や、木の根に足を取られ転倒してしまった。しかし、そんなことではアルバンの心は折れない。
すでに、エルフの里は寝静まっていることだろう。ルシールは家に戻っているはずだ。
「待てよ」
静寂を切り開いたのは、低く鋭い刃物のような声だった。
「この先はエルフの里だ。人間が入っていい場所じゃない」
声のした方に目を向けると、真っ暗闇の中、亡霊のように佇むエルフがいた。
真っ白な肌は闇夜によく映え、月明かりを浴びた瞳はアルバンを捕えて離さない。
「クリストフ。エルフ狩りの容疑は晴れたはずだ。俺はルシールに会いにいく」
クリストフの横を通り過ぎようとすると、すさまじい程の力で肩を掴まれた。指が肉に食い込む。
「黙って里から追い出されていりゃあいいものを……余計なことしやがって」
「お前がうわさを流したのか?」
クリストフは直ぐに答えようとはせず、アルバンの体を里とは反対の方角へ押し返した。暗闇ということも相まって、アルバンは足を取られ地面に倒れこんでしまう。
「ああ……エルフ狩りのうわさは俺が流した。忌々しかったぜ。外套のフードを深くかぶって人間の旅人の恰好までしてな。近くの農村まで行ってうわさを流したんだ」
クリストフは悪態を吐きながら、近くにある木を蹴った。ばさりと小枝が地面に落ちる。
「俺を追い出すことができなくて残念だったな。悪いが里へ行かせてもらう」
尚もクリストフはアルバンの前へと立ちふさがる。
「お前が戻ったところで、俺は一生お前を里から追い出すための策を練ってやる。この先ずっと。お前が老いて死ぬまで、ずっとだ」
これほどまでに人間を嫌う理由が分からない。
「お前はなぜそこまで人間を嫌う? 里長の話だと、一度も人間の世界に行ったことはないそうだが……」
「親父の昔話を聞くだけで十分だ。親父は何かと人間に希望を抱いているみたいだが、俺は違う。人間どもの汚らしい姿には反吐が出そうだぜ」
意味が分からない。話に聞いただけでそこまで憎めるものなのだろうか?
クリストフはアルバンの問いかけを一笑に付すと、つま先で地面に一本の線を描いた。線の内側――つまり線を挟んで里側に移動すると、地面を指差す。
「この線からこっち側がエルフの里だ。この線を一歩でも超えることができたら、この俺が里に入ることを認めてやる」
「バカなことを言うな。俺は暴力でお前に認めてもらおうなんて思わない」
アルバンは曲がりなりにも武芸の鍛錬は積んでいる。剣や槍など。特に徒手での戦闘訓練は他の貴族や騎士の中においてもスバ抜けた成績を誇っていた。クリストフにどんな自信があろうが、普通に考えて負けるはずがない。
「綺麗ごと言ってないで、さっさと来いよ。どんな言葉を並べられても俺はお前をエルフの里に入れる気はないぜ」
挑発に乗る気はないが、これではらちが明かない。
アルバンは構えを作る。
「いいんだな?」
「ヘッ」
アルバンは間髪入れずに、クリストフの顎にこぶしを叩きつけた。
「……グッ」
苦しみの声を上げたのは、アルバンの方だった。
たしかに、アルバンのこぶしはクリストフの顔面を捕えた。しかし、アルバンのこぶしにはまるで石を殴ったような痛みが広がる。
「貧弱だなぁ。人間!」
クリストフのこぶしがアルバンの顔めがけて振りぬかれる。とっさに、体をよじったアルバンの肩にこぶしはあてられた。
メギキ、と嫌な音が頭に響いてきた。
アルバンは吹き飛ばされ、地面に何度も体を叩きつけられた後、木にぶつかりようやく止まった。
「ぅ……ぐ」
クリストフは大股で歩み寄ってくると、木に寄りかかって倒れているアルバンの髪を掴んで眼前へと引き寄せる。
「これが種族の違いだ。お前ら人間はすべてにおいてエルフに劣る。おこがましいんだよ!」
クリストフはそのまま、アルバンを持ち上げると木に押し付けた。体の至るとこから悲鳴が上がり、痛みが全身を駆け巡る。
「それでも……俺は、ル、ルシールに」
アルバンの顔に、クリストフの頭突きが入った。アルバンの鼻からは血が噴き出した。
「きったねぇな……クソ」
アルバンの血に嫌悪したクリストフは、掴んでいた髪を離した。そのまま、力なくアルバンは地面にうつ伏せに倒れた。
「人間の血……きったねぇなぁ……クソ! クソ! 俺の体にも入ってやがるなんて、想像しただけでも気が狂いそうだ」
アルバンはそれでも、地面を這って里の方へと進もうとする。クリストフはそれを見ると、足を振り上げアルバンの背中を踏みつけた。
「グっ……ハ!」
肺に残った空気が、苦痛の声となり吐き出された。
「なんでこんなやつをルシールは選んだんだ……クッソ! 忌々しい」
「……え、選ん、だ?」
息も絶え絶えに、アルバンは疑問を発する。
「あぁ! そうだよ! テメェがエルフの里に来ると聞いたときに、相手にと真っ先に手を上げたのはルシールだ。あったこともねぇ人間なんぞになぜ! 俺というエルフがいながら!」
アルバンを踏みつけている足にさらに力が込められる。骨も内臓も、踏みつぶされてしまうほどに。
「なんだよ……クリストフ。お前、ルシールのことが、好きだった、のか」
一瞬の沈黙の後、クリストフの振り上げた足が、アルバンの体を蹴り上げた。宙を舞ったアルバンの体が地に叩きつけられた。
「俺はお前のちんけな人生なんかよりも、何倍もの年月、ルシールと共にエルフの里で暮らしてきたんだ。それを忌み嫌う人間が横からさらっていきやがった! その気持ちがお前に分かるか!」
クリストフの気持ちは痛い程にわかる。愛する人間から拒絶され、気持ちがそこにないと分かった時は、世界から消えてしまいたいとさえ思う。
「だけどな……クリストフ……! お前は……ルシールに何をしてやれた? 何を与えてやれた? 俺の生きた人生よりも、何倍も……何倍も一緒にいたルシールに……! お前はルシールに求めるばかりで、自分からは、何も……」
「てっ……めぇ……!」
クリストフは倒れこんだアルバンの頭を掴むと、そのまま力を込めた。頭蓋骨のきしむ音が徐々に大きくなっていく。
「あっ……ぐ……ウゥ」
視界が狭まる。音が遠ざかる。痛みが消えていく。記憶が薄れていく。
「アルバン!」
意識の消えかかった頭に、ルシールの声が響いた。
ぼぅ、とした目を開くと、視線の先には目を見開き、大きく体を震わせたルシールがいた。
「クリストフ! あなたいったい何を!」
ルシールは震える足で走り寄ると、クリストフの腕にすがりついた。その衝撃で狼狽していたクリストフはアルバンの頭を離した。
アルバンとルシールはそのまま、地面に横倒しになる。それにかまわず、ルシールはアルバンの頭を抱いた。
「あ、あぁ……アルバン! アルバン……! なんで、こんな」
「……ルシール……なぜここに?」
「あなたがいつまで経っても戻ってこないから、心配して……」
ハッとしたルシールはクリストフの方を見ると、今まで見たことがないような表情でクリストフを睨んでいる。怒りのためか罵る言葉もなく、ただ瞳に涙を溜めアルバンに抱き着いていた。
「ルシール……離れていてくれ……お、俺はまだ、クリストフとの決着が、ついていない」
ルシールは一瞬、何を言っているのか分からない、という表情をしていたが、アルバンを胸に抱くと、せきを切ったように瞳からは大粒の涙が溢れた。
「決着とか……! 何言ってるのよ! アルバン死んじゃうわよ! 早く手当――」
「お願いだ。ルシール。放してくれ」
アルバンがルシールの体にすがりついた。その剣幕に、ルシールはアルバンをそっと地面に降ろした。狼狽した様子はルシールの顔に張り付いたままだ。
「ク、クリストフ……あの線を越えたら、俺は里に入っていいんだった、な」
クリストフもアルバンの行動には疑問を拭えないようだった。傷だらけの体で、泥にまみれ這いながら進むその姿にクリストフは後ずさる。
「アルバン! やめて! お願いだから」
その叫びに、クリストフの顔が再び怒りに満ちる。這いずるアルバンの前に立つ。
「お前いい加減にしろよ! ルシールの同情を誘う作戦か? そういう根性が嫌いなんだよ!」
クリストフの言葉には、先ほどまでのような力がない。アルバンの様子に気圧されている。アルバンがフラフラになりながらも立ち上がると、クリストフの表情には恐怖の色が見えてきた。
「く、来るなよ!」
クリストフがアルバンの顔を殴りつける。これまでのような力がない。
「クリストフ! やめて!」
ルシールがクリストフに食らいついた。
「ッく! 離れろルシール!」
クリストフは纏わりつくルシールを掴んで引きはがした。ルシールの体が地面に倒れこむ。
「クリストフ。ルシールには手を出すな」
「っひ……」
クリストフはおびえ、また一歩後ずさっていく。
「や、やめろ! 来るなよ! 来るなよ!」
クリストフはおびえ、腰も引けている。構わず、アルバンは歩んでいく。
殴る力も、先ほどまでの威勢も消え失せたクリストフは、さらにアルバンの圧力に屈していった。
「……クリストフ」
クリストフは声にならない悲鳴を発し、アルバンをおびえた獣のような表情で見つめた。
「これ、入ってるよな」
アルバンは自分の足元を指さした。
クリストフの引いた線の内側――里側にアルバンのつま先が入っていた。
腰を抜かし地面に尻もちをついたクリストフは、こくこくと頷くだけだった。
それを見たアルバンは、糸の切れた人形のように地面へと倒れこんだ。
「アルバン!」
直ぐにルシールはアルバンの元へと駆け寄った。頭をしっかりと抱くと流れた涙が、アルバンの顔を濡らした。
そんな表情を見て、アルバンがやさしくルシールの頬に触れた。
「君に、伝えたいことがあるんだ」
ルシールは口を引き結んだまま、じっとアルバンの顔を見つめている。
「愛している」
その言葉に、ルシールの口はさらに引き結ばれ、美しい宝石のような瞳からは大粒の涙が流れだした。
再び、静寂の戻った森の中はただやさしく、淡い月明かりが降り注いでいた。