五話 もう惑わされない
太陽が西の地平線に隠れ始め、周りの草原は橙色に染め上げられていく。
アルバンはスルブルグ家を出てからというもの、馬を乗り継ぎながら不眠不休で走り続けていた。
この許可証があれば、万が一うわさが里に届いても疑念は晴らせるはず。そう思うと、一秒でも早く里に帰りたかった。
里に近い場所まで来ると途端に道が悪くなるため、馬を降り徒歩での移動となる。
疲れ切ってはいたが、体を休める気にはなれなかった。とにかく里へ。
辺りは徐々に夜の帳が落ちてくる。自然と共に生きるエルフは日が落ちてしまえば、あとは寝るだけだ。その前に里長にはこの許可証を届けたい。
力が入らない足を叱咤し、アルバンは里への道を進む。
揺らめく炎の明かりを見たのはその時だった。
すでに辺りは完全に読闇に満ちている。この時間に外にいるエルフは珍しいが……。
少々の不安を感じ、アルバンは木の影から炎の明かりを伺う。
そこにいたのは、巨木に背を預け不安げな表情をするルシールだった。
家からはだいぶ離れているこの場所に、なぜルシールが?
「ルシー――」
「考え直してくれたか? ルシール」
体中の熱が奪われるようだった。松明を持ち、ルシールの前に立っていたのはクリストフだった。
クリストフは口端を上げ、冷笑を浮かべていた。しかし、目は笑っていない。
「あなたとの結婚のこと?」
ルシールの意外な言葉に、背筋が凍り付く。
「あの人間はエルフ狩りを行っている家族の一員だ。あいつはスルブルグ家のスパイなのかもしれねぇ」
ルシールがクリストフを睨む。クリストフは視線を逸らさずに、さらに口端をゆがめた。
もうすでに、うわさが里に届いている……? こんな早く。
頭の中が真っ白になりかけたが、まだ遅くはない。手に持った許可証を強く握りしめる。
「どちらにしても、あの人間はこの里には居られねぇ。婚約は破棄だ。となりゃあ、一番一緒にいた俺たちが結婚してもおかしくないだろう?」
何を言っているんだ。血がにじむほど、アルバンはこぶしを握った。
「結局人間なんてそんなもんだ。この里には人間の血はいらねぇ。純粋なエルフだけがこの里に居ればいいんだよ」
全身が熱を帯びる。殺意さえ芽生える。
ぬかるんだ土を蹴って、クリストフの前に出ようとした時、
「じゃあ、あなたもこの里から出ていかないといけないよね。あなたは純粋なエルフじゃないんだから」
すさまじいくらいの怒気がクリストフの体を覆ったのが分かった。
松明を持つ手は震え、真っ白な肌が怒りで赤く染めあがっていくのが暗闇でも分かった。
走り出そうとしたアルバンの足さえも止まる。
「二度とそれを言うなよ。ルシール」
穏やかな口調ではあったが、クリストフのエルフらしからぬ憤怒の表情に、ルシールは地面に尻もちをつく。それでも瞳の力は失わずにクリストフから視線は逸らさなかった。
「……言い過ぎたわ。それについては謝る。でも、私はそんなあなたの高圧的な態度が気に食わないの」
「ハッ! そうかそうか、悪かった。こんな俺の性格も人間の血が入っているからかもな」
その皮肉に、ルシールの目が鋭く吊り上がる。
「まあ、そうだよな。結婚すならお互いのことを尊重しないといけねぇ。我を通すだけじゃ成立しないからな。いいよ。この性格改めてやるよ」
大きく腕を広げ、クリストフはへらへらと笑う。
「ところで……あなたは一人で何をそんなに盛り上がってるの? 私にはアルバンという婚約者がいる。あなたと結婚なんかできない」
クリストフは真顔に戻る。松明を持ったまま歩み寄ると、頭一つ分高い位置からルシールを見下ろす。
「だから、言ってんじゃねぇかよ。あの人間はエルフ狩りをするようなやつなんだぜ?」
クリストフの容赦ない言葉がアルバンに刺さる。
「そんなの根も葉もないただのうわさ。あなたは分かっているでしょ?」
「噂が立つってことは、きな臭い何かがあるってことだ」
「どうしても、アルバンをこの里から追い出したいのね。いつまで経っても子供みたい」
眼前まで迫ったクリストフの顔を、ルシールは睨み返す。今度はクリストフがルシールとの距離を取る。
「よっぽどあの人間を信用してるんだな。この前初めて会ったあの人間のことを。なんだよ? そんなに愛してやがるのか?」
ルシールは何かを言いたそうに、口を開きかけたが直ぐにその言葉を飲みこむように喉を動かした。腕を組んで不満げに視線を空に泳がせた。首をかしげると、組んだままの手で片耳のイヤリングを触る。
「別に……アルバンのことなんかこれっぽっちも愛してなんかいないし」
足が震える。目の前が真っ暗になる。胃の腑になにか重いものが詰め込まれた気がした。震える足を手で押さえ、崩れ落ちそうになる足を何とか踏ん張った。
「そうだよな! たったひと月前に出会った男なんかに情なんて湧くわけねぇよな! ハハっ。傑作だ」
クリストフの笑い声が闇夜に響き渡る。耳を覆ってしまいたい。
「……うるさいわね」
「なぁ、ルシール。俺は変わるって言ってるだろ。結婚して子を作らないと、この里には将来はない。結局エルフ狩りの疑念が晴れないと、あの人間はこの里を出ていくだけだ。ルシール。やさしくしてやるよ。俺との結婚を考えろ」
ルシールはあからさまに表情を歪めたが、一つ、大きく息を吐くと、
「……そうね。疑念が晴れなかったときは、クリストフとの結婚を考えてみるわ」
その言葉を聞いた瞬間。アルバンの足は力を失った。地面に膝が落ちると、全身の力が抜けたようになる。
「誰だ!」
クリストフが声を上げると、驚いたルシールが振り返った。
「……ア、ルバン……今の会話、聞いて……」
「てめぇ。戻ってきやがったのか……エルフ狩りめ!」
「止めて!」
クリストフのアルバンに突きつけられた腕をルシールが掴む。
「こいつはエルフ狩りを行う下衆な人間だ。里の皆を呼べ! こいつ追い出すんだ!」
クリストフの怒号が辺りに木霊する。
「クリストフ」
何とか絞り出したアルバンの言葉に、クリストフの声が止まった。
「この書状はスルブルグ家の資産の流れを閲覧することのできる許可証だ。これがどういう意味か分かるか?」
「……何だってんだ?」
クリストフは人間の世界のことをほとんど知らないのだろう。何が何だかわからないと言った表情をアルバンに向ける。
「この里にも、この書状の意味が分かるエルフがいるはずだ。スルブルグ家がエルフ狩りを行っていない証拠になる」
クリストフもアルバンのその自信に何かを感じたのだろう。松明を持った手をだらり、と下げると忌々し気に舌を鳴らした。
「アルバン!」
心配そうに駆け寄るルシールを手で制す。
どんな表情をしていたのだろうか。
アルバンを見るルシールの表情は、驚愕と自責の念に駆られていた。
「俺は里長のところに行ってくる」
アルバンがそう告げると、ルシールは何も言わずにその場に立ち尽くしているだけだった。
いつもよりも冷たい風が吹いた。
すべての熱が奪われたようになり、体の震えが止まらない。
アルバンは震えを押さえつけるように、自分の体を抱き重い足取りで歩を進めた。
安心しきった里長の表情が、驚愕へと変わっていく。
アルバンは里長の家に出向いた後、二人で里の外の石造りの建物の中にいた。エルフ狩りの疑念を晴らす証拠を持っていたとしても、里の中では話すことのできない内容だったからだ。
里長は書状を放り投げると、力の限りアルバンの肩を掴んだ。
「婚約を破棄するなど……! いったい何があった。言ってくれ! アルバン!」
「ひと月……まだたったひと月なんですよね……こんな短い時間じゃ、何かを変えることなんてできなかったんだ。少しずつ変わっていけばいい。そうするのが正しいと今でも思っている」
「アルバン……」
「でも、俺は……ルシールを愛してしまった。虫が良すぎたんです。愛する者が、自分を必ず愛してくれているなんて……」
里長は何も答えない。ただ、じっとアルバンの顔を見つめていた。
「俺はいつだって、距離を置かれていた。それを感じながら実家でも父や兄たちに認めてもらおうと、自分の価値を高めていたつもりだった。エルフの里に来てからも、認めてもらおうと……」
「それは違うぞ。アルバン。お前はこの里に来てからよくやっておる。お前の評判は日に日に良くなってきておる。だから――」
「違うんです。里長」
里長の言葉が止まる。
「俺は……自分がこんな弱い人間なんて思わなかった」
里長の息をのむ声が聞こえる。
――アルバンのことなど愛してはいない。
この言葉が、頭の中を駆け巡り、いつまで経っても消えない。
愛する者に、愛して貰えると思った。理性などは吹き飛んでいき、残るのは焦燥感と絶望感のみ。
「何があったかは分からんが、皆の意識は変えることができる。アルバンならそれができると思っておる」
「なぜ……そこまで俺のことを」
肩に置かれた里長の手は、いつの間にかやさしくアルバンの背中を撫でていた。飽きるほど長い生を生きるエルフ。その手はアルバンの心を幾ばくか落ちつかせるものだった。
「確かに、最初は若くて誠実な人間の男なら誰でもよかった。しかし、里に来たお前は誰とでも分け隔てなく接し、仲間の輪に入ろうと必死にもがいていた。この男なら、エルフの里に光明をもたらす者だと……そう思った」
「買いかぶりすぎです。俺はそんな人間じゃない」
「わしはお前ならば……と」
再び、部屋中に沈黙が満ちる。
体を支えているだけで精いっぱいだった。このまま崩れ落ちて眠ってしまいたい。
森のさざめきだけが聞こえてくる中、永遠にも感じられた静けさを破ったのは里長の悲痛な声だった。
「頭を冷やして考えてくれ。アルバン。お前は愛されるべき人間だ。もう一度……この里で経験したことを思い出してほしい」
もう何を言われてもアルバンの心には響かない。
里長は、ぴくりとも動かないアルバンに背を向けると、静かに部屋から出ていった。
再び、沈黙。
これからどうすればいいのだろう。
それだけがアルバンの脳内を支配していた。
もう、エルフの里には居ることができない。実家に戻っても、アルバンの居場所はないだろう。このまま、目的地を定めずあてもなく、さまようのだろうか。
――クリストフとの結婚を考えてみるわ
思い起こされるのは絶望の言葉。大きく一度、身震いをする。寒い。
アルバンは身を縮こませる。外套のポケットに手を入れると、なにか硬いものが指先に当たった。
何気なく取り出してみると、それは塩の小瓶だった。小瓶いっぱいの塩が、ほとんど使われることなく詰まっていた。
結局使うことはなかったな――と、アルバンは自虐にも似た笑みを浮かべる。
こんなものを持ち込んで、人間の味付けに慣れてもらおうとしていた自分を殴りたい気分だ。何が悪かったのだろう。何をしてしまったのだろう。後悔の念が脳裏に渦巻き消えることはない。
しかし、なぜ外套に塩の小瓶が?
小さな疑問が色を帯び、邪念を少しずつ消し去っていく。この塩の小瓶は、ルシールが卵を焼いてくれた時に、いらないと言って放ったものだ。それが偶然にも外套に入り込んでいたのだろう。
「あの時の卵……美味かったな」
アルバンにルシールが不器用にも卵を焼いてくれた時のことが思い出される。凍えていた体が徐々に熱を帯びる。
ルシールがアルバンのためだけに、卵を焼いてくれた。
「はは」
なぜか笑みがこぼれる。
どんなに絶望に打ちひしがれようと、どんなに暗闇の中をもがいていても。
たったこれだけのことが、これまでの人生で味わった閉塞感、疎外感を吹き飛ばすほどの風をアルバンの心に起こした。
足に力を入れる。立てる。足を前に出す。歩ける。
「もう一度」
声に出す。心は惑わされない。
「ルシールに」
決意は力を与え、未来に向けての活力となる。
アルバンは決意を胸に部屋を出ていくと、エルフの里に向けて走り始めた。