三話 エルフと人間
朝日が射し込み、部屋の中を明るく照らす。
そのまぶしさに目を細めると、アルバンは大きく体を伸ばす。
目を覚ました瞬間に感じられる木の良い香りに、朝靄の澄んだ空気。実家にいた頃は、朝からけたたましく聞こえてくる馬車の音や、商人の張り上げる声で目が覚めていたものだ。まだ慣れないことが多い生活の中でも、自然と共に起床することは、こんなに気持ち良いものなのだと分かった。この感覚に種族の違いはないだろう。
細い麻糸で編みこまれたシーツを、藁で固めた寝床にかぶせたベッドから降りると、アルバンは隣で寝ているルシールに目を向けた。
小さな寝息を立てるルシールの寝顔は、とても愛らしい。
アルバンはそんなルシールを起こさないように忍び足で部屋から出た。
土の香りと、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、残った眠気を吹き飛ばす。気持ちの良い朝だ。
少し、その辺りを散歩でもしてこようか、と思い視線を森の奥へと向けると、人ひとりは入ってしまいそうな麻袋と、なめした動物の革で作られた外套を着込んだ里長がアルバンに手を振っていた。
「おはようございます」
簡単な挨拶を交わし、アルバンは里長へと歩んでいった。
「どこかに行かれるんですか? そんな恰好で」
里長に近づいてみると、長旅にも耐えられそうな立派な革のブーツまで履いていた。
滅多に里の外へと出ることがないエルフは、一年を通して軽装だ。それでも、雪の季節になれば防寒のため着込むことはあるが、今の里長ほどではない。
「そういえば、お前はこの姿を見るのは初めてだったな。ようやく雪も溶けてきたころだし、一度、人里に下りてみようと思ってな」
「人里に?」
ほとんど、人前に姿を現すことのないエルフとは思えない言葉だ。これも、人の血が多少なりとも入っている証拠なのだろうか。
「この里で採れる果物や、野菜。ほんの少ししか作ってないが、木彫りのペンダントなんかも人間には好評でな。年に数度、珍しいものと交換してこの里に持って帰ってきてるんだよ。里長がわしの代になってからだがな」
そう言うと、里長は肩に掲げた大きな麻袋をポン、と叩く。
一見するとエルフは華奢ではあるが、その肉体には人とは違う強靭な筋肉が隠されているらしい。
アルバンが大事に持っている木彫りのペンダント。はっきりとは覚えていないが、これもひょっとすると里長から譲り受けたものかもしれない。
「自分も一緒に行きましょうか?」
里長はアルバンの申し出を手で制した。
「何を言っとるんだ。ルシールとの結婚式も近づいておるだろう? そろそろ式の準備もしなければならない。今日だって、式の際にルシールが着る衣装の採寸があると聞いておるぞ? のんびりしている暇はないはずだ」
まさか、エルフに急かされるとは……。アルバンは困ったように頭を掻いた。
「まぁ、人里とはいっても、街からは離れた小さな農村だ。心配はしなくてよい」
「里長がそう言うのでしたら……」
「結婚式。楽しみにしているからな」
里長は満面の笑みで、アルバンの肩を一度叩く。
「お気をつけて」
アルバンは力強く歩いていく里長の背中を、じっと見つめていた。
「つまんなーい。つまんなーい。ぶーぶー」
ほっぺたを膨らませて、そこら中を走り回っているのは、メリルと数人のエルフの子供たち。
日が昇りきった後は、朗らかな陽気が里を包み込み、いよいよ芽吹きの季節の足音が聞こえてきた。これなら、結婚式までには道端に残った雪も溶けきってしまうだろう。
アルバンとルシールの結婚式を控え、衣装合わせにとメリルの母親の元へと訪れていた。
メリルの母親はエルフにしては珍しく、人の街で服飾を学んでいたそうだ。
簡素な服しか身につけないエルフの里に住んでいると、どうにも腕が鈍ってしまうらしい。豪華なドレスを作れる結婚式は胸が躍る、とメリルの母親は興奮した様子で語っていた。
ルシールは今、メリルの家の中で衣装の採寸をしている。付き添いで来てみたが、結婚式前に、夫が衣装を見るのは不幸を呼ぶらしく、家の外に追い出されてしまった。
元気盛りのメリルたちも、家の中にいると暴れまわりそれこそ問題なので、アルバンと一緒に外で待機していた。
「ねぇー。ひまー!」
突然、背中にメリルが覆いかぶさってきた。不意のことで、アルバンは前につんのめってしまう。
「それじゃあ、この前の課題をやってしまおうか?」
「今日は勉強の日じゃなーいー」
メリルはアルバンに抱き着いたまま、首を思い切り締め上げた。
「……うっ……うぐぐ。や、やめろってメリル。締まってる、締まってる」
そんなメリルの様子を見て、ほかの子供たちもアルバンの元へと集まってきた。そして、一斉に抱き着く。
「あそんでーあそんでー」
……人間の子供たちよりも、手に負えないかもしれない。
ひょっとすると、エルフは百年以上続く子供時代に、すべての元気を使い果たしているのではないか、とさえ思う。
「こら! あなたたち。いい加減にしなさい!」
穏やかな陽気を吹き飛ばすような叱責が飛んだ。
アルバンにまとわりついていた子供たちは、はしゃぐのを止めた……と思うと、悲鳴を上げながら一目散に辺りに散っていった。
アルバンが呼吸を整え、辺りを見渡した時には子供たちの姿はどこにもなかった。
「……全くもう」
呆れた声を出しながら、メリルの母親は腰に手をあて困ったような笑みを漏らしていた。
「大丈夫? アルバンさん」
「助かりました……。いやぁ、しかし元気が良すぎて大変ですね」
咳き込みながらアルバンはメリルの母親に答える。
「ええ。でも、子供はあのくらい元気が良くないといけませんわ」
メリルの母親が、ふふ、と小さく笑う。
「そういえば、ルシールの採寸は終わったんですか?」
「いえ。まだですわ。後は、他の者に任せれば大丈夫でしょう。次はアルバンさんの番」
「……俺?」
「新郎も衣装は作らないと。久しぶりの結婚式ですもの。腕が鳴りますわ」
メリルの母親の表情は穏やかなものではあったが、瞳はきらきらと輝いている。久しぶりの仕事は楽しくて仕方ないのだろう。
……ただ、まだ壁はあるようにも思える。
普通に会話しているようでも、視線を合わせてはくれない。仕方ないとは思うが、少し寂しく思う。
少しずつこの壁を埋めていければいいと思う。
アルバンはこの不安を吐き出すように、深く深呼吸をした。
「これで、終わり」
メリルの母親は、植物をほぐして作られた採寸用の紐を、手慣れた様子でまとめると、にこりとほほ笑んだ。
「思っていたより早いんですね。ルシールはずいぶんと時間がかかっているようですが」
「新郎の衣装を新婦と一緒にしちゃいけませんわ。新婦は結婚式の花。衣装にもそれなりの時間を掛けませんと」
まあ、そうだろうな。とアルバンは納得する。
アルバンがいる隣の部屋では、まだルシールが採寸をされているのだろう。ほんの少し覗いてみたい欲に駆られる。
「いけませんわよ」
見抜かれていた。
そう言いながらも、メリルの母親は非常に洗練された動作で、採寸の道具を片づけていく。一糸乱れぬ動作に見とれてしまうほどだ。
「素晴らしいお手際でした。何年ほど服飾の修業を?」
と、言った後、なんとも間抜けな質問をしてしまったと思った。
「ふふ、二百年くらいかしら」
二百年という時間に驚愕する。エルフと人間を同じ時間の感覚で考えてはいけなかった。
「最初は小さな農村で、隠居した老夫婦に師事をしましたわ。その方たちが亡くなってからは、もう少し大きな街で。そのあとは転々と。途中、戦争に巻き込まれて危ない目にあったり……そういえば王都に居たこともありますのよ」
「王都に……。自分の実家もあります」
「アルバンさんが、生まれる前のことですけどね」
メリルの母親は、懐かしむように目を細めた。
「なるほど。それで服飾の修業を終えて、里に戻ってきて結婚したと」
メリルの母親はゆっくと瞼を閉じた。道具の片づけをやめ、手を胸の辺りにもっていく。
「いいえ。里に戻ってから結婚したわけではありません。私の夫は――人間です」
次の言葉が紡げなかった。
「お気づきになられませんでした? メリルはハーフエルフです」
ハーフエルフ。
人間とエルフの混血だ。
数は少ないが、ハーフエルフという存在は聞いたことがある。
「……そうだったんですね。他のエルフと同じように見えましたから」
「メリルはどちらかというと、エルフの特徴が色濃く出ています。私の夫だった人も、人間にしては見目麗しかったですから」
メリルの母親は顔をほころばせた。反対に、組んだ手には力が込められたようにも思える。
「夫との生活はとても幸せでした。人間とエルフ。子を成し、ともに生活ができる。それが何よりも嬉しかった」
エルフと人間。不意に、ルシールが脳裏に浮かんだ。
「でも、やはり種族の壁は高いのだと知りました。私の夫は、メリルが成長する前に老いていきましたわ。人としては、生涯を全うしたのでしょう。でも、私たちから見れば、その命はあまりにも短い」
鼓動が早鐘を打つ。ルシールとの間に子ができても、アルバンの生きている間には、その子が立派に成長する姿は見られないだろう。こんな当たり前のことを、アルバンは失念していた。
「だから、エルフは人間とかかわるのが怖いのだと思いますわ」
アルバンは何も答えず、メリルの母親の言葉に耳を傾ける。
「エルフにとって、人間は目まぐるしすぎるのです。この前生まれたと思っていた子が、いつの間にか成長し、老いていく。領主も変わり、国も変わり、忙しすぎる生涯に焦る様に人と人で殺し合う。人間とは相いれない」
相いれない。
その言葉に、アルバンの胸は痛む。
エルフにとって、その移り変わりようは恐ろしいものだったのだろう。メリルの母親の経験は、エルフにとって理解しがたいものだったのだ。人間とエルフ。あまりにも違う寿命と、価値観の違い。人間の世界を見ていないエルフでも、本能的に察しているのかもしれない。
「でも、それは間違いだった」
メリルの母親の声に力がこもった。
「あの子が生まれた」
慈しむように、メリルの母親は自らの体を抱く。
「人間とエルフ。相入れないのなら、なぜメリルは生まれたのでしょう」
メリルの母親は、そっと窓の外に視線を移す。遠くの木から、ちらりとこちらを伺うメリルの姿が見えた。
「正直なところ、今でも人間とかかわるのは怖いのです。でも……」
その時、隣の部屋の扉がゆっくりと開いた。中から出てきたのは、疲れた表情のルシール。
「貴方たちのような、新しい風が吹いていけば……あるいは」
突然声を掛けられたルシールの疑問顔が、メリルの母親に注がれる。
「え? 何。どうしたの?」
ルシールは何が何だかわからない様子だ。
「いいえ。早くあなた達の子供が見てみたいな……って」
「……ひぃえ!」
ルシールは喉の奥から妙な声を出すと、服の端を掴み俯いてしまった。途端に、リンゴのように顔を赤らめる。
アルバンも開いた口がふさがらなかった。
メリルの母親だけが、可笑しそうに笑っていた。
その時だった。
「アルバンはいるか!」
朗らかな雰囲気が、突然破られた。
部屋にいた三人が、一斉に部屋の扉に向けられる。そこには、肩を激しく上下させた里長が、目を見開きアルバンを見つめていた。
普段の様子とは違う里長の雰囲気を察し、アルバンの胸はざわめいた。
「採寸の途中だったか。すまないが少しアルバンを借りていくぞ」
ルシールもメリルの母親も、里長の様子にただ頷くだけだった。