一話 異文化の中で
呆けながら木漏れ日を眺めているだけで、一日が終わる。
このひと月というもの、そんな日ばかりが続いていた。
「ねー。アルバンせんせー」
頭を振ってまどろみかけていた意識を吹き飛ばし、アルバンは無邪気な声に視線を向けた。
「どうした? メリル?」
メリルと呼ばれた少女は、アルバンの顔をじっと見つめている。興味深く大きく瞬きすると同時に、人の数倍の長さの尖った耳をぴくぴくと震わせた。
「アルバンせんせーって……なんだか変な顔してるよね!」
アルバンはその問いかけに、苦笑いを返すことしかできなかった。
悪気もなく、花が咲いたような笑顔をアルバンに向ける。
このエルフという種族は恐ろしく美しい。
人の場合、聖女のような清楚さであったり、邪な感情を抱かせるような妖艶さであったりと、美しさの中にも個性があるとアルバンは思う。しかし、エルフには一流の芸術家が、人生をかけて作り上げた彫刻のような美がある。一片のほころびもない、完成された美だ。
子供のエルフとはいえ、その美しさにはため息が出るほどだ。そんな見とれてしまうような子供のエルフが目の前のメリル他、数人はしゃぎまわっている。
「それよりもメリル。課題はできたのか? エルフと人間の過去のかかわりを自分なりの意見を交え……」
「んーん、まだー」
そう言うと、メリルは他のエルフと一緒に花を摘んだり、虫を追いかけたりと遊びに夢中になってしまった。
「お、おい。お前ら。遊ぶならちゃんと課題を終えてから……」
幼いエルフたちには、そんなアルバンの声は耳に届いていないようだ。
先日、メリルの母親と話す機会があったが「まぁ、雪が降る頃にはやるんじゃないかしら?」とずいぶんのんびりした答えが返ってきてしまい困惑した。まだ、雪が溶けて間もない時期だというのに。
エルフの寿命は人に比べると恐ろしく長い。
千年を超える寿命を持つエルフにとって、時間の感覚は人間とは違う。草むらに寝そべって、一日中雲を眺めているエルフもいれば、森の中をふらふらと日が暮れるまで散歩していたりもする。
今年、十八になるアルバンの目の前にいる幼いエルフたちは、ゆうに六十歳を超えている。人間の感覚で考えてはいけないが、なんとなくアルバンは複雑な気分になった。
「さぁ! お前たち。俺は他のエルフのようにのんびりはさせないぞ! 今日中に……」
「あっ! 太陽が一番てっぺんに昇ったよ! 今日のお勉強はおわりー」
突然メリルが空を指さし叫ぶ。他のエルフたちもメリルの声を聞くと、嬉しそうに声を上げ散り散りに走り去っていってしまった。
嵐の後のような静けさの中、アルバンはただ、呆けて立ち尽くしているだけだった。
西に少し傾きだした太陽を背に、アルバンは重い足取りで家路についていた。
空を覆うほどの木の葉の隙間からは暖かい日の光が漏れ、春の到来を感じさせる。土に少しだけ残った雪を踏みしめると、サクサクと小気味よい音がアルバンの耳にも届いた。
この名も無きエルフの里にアルバンが婿に来て約ひと月。雄大な自然と、さわやかな風はとても落ち着くものではあったが、エルフの生活習慣にはまだ慣れていない。
元々、貴族の三男であったアルバンは故郷では毎日忙しく働いていた。家の領土内の穀物の管理。使用人たちの給金などの手配。時には不平不満などを解決したり、家臣たちのご機嫌なども取ったりしていた。その合間に、武芸の鍛錬、座学などをこなす。夜は夜で出たくもない晩さん会に出席し、神経をすり減らす毎日を送っていた。空を見て呆けることなどできはしなかったのだ。
そんな折、父が病に倒れ間もなく息を引き取った。
長男が家を継ぐことになったのだが、突然言い渡されたのは、エルフの娘との縁談だった。アルバンの家は、多少ながらエルフの里とも交易がある。その絆を強くするための話らしい。アルバンも何度か、エルフとは顔を合わせている。
しかし、それは建前だということはアルバンにも察しがついた。
三男に領土を分け与える貴族など聞いたことはないし、丁度いい落とし所だったのだろう。
このひと月、兄たちから手紙の一つも来ないことから、もう家に帰れないことはアルバンには分かっていた。
ならば新天地で新たな人生を――とは思ってみても、生活習慣の違いは中々なじめるものではない。
アルバンは歩みを止め、ガラスのように透き通った泉で顔を洗った。雪解け水の冷たさがぼんやりとした頭を覚醒させる。落ちる雫が、水面に映るアルバンの顔をぼやけさせた。
「そんなに変な顔してるかな……」
先ほどメリルに言われたことがちょっと、気になってしまう。
変だと言われた自分の顔を見つめていると、背後で草の擦れる音が聞こえた。
手拭いで顔を拭き、後ろを振り返る。そこには、メリルの母親が少し驚いた表情で立ち尽くしていた。
「あ、メリルのお母さん……こんにちは。いい天気ですね」
精一杯の笑顔でアルバンがあいさつをすると、メリルの母親は視線を泳がせた。
「あら……アルバンさん。こんにちは……じゃあ、私はこれで」
と、言うなりそそくさと立ち去ってしまった。
大体こんな感じだ。
どのエルフに会っても、このような態度を返されてしまう。あまり歓迎はされていないみたいだった。
アルバンは空を仰ぐ。一つ大きなため息を漏らした。
「おいおい、人間。辛気臭い顔してんなよ」
突然、悪意の塊のような言葉をぶつけられた。
アルバンが声の方向を見ると、尖った氷のような視線を向ける男のエルフがいた。
「なんだか嫌な感じがすると思ったら、やっぱりテメェかよ」
男のエルフはまるで汚物を見てしまったかのように、口元を歪ませた。アルバンは言葉を交わさず、その場から立ち去ろうとする。
「おい、人間。いつになったらこの里から出ていくんだ?」
その言葉に、アルバンの歩みが止まる。
「この里は、お前ら人間が入っていい場所じゃないんだぜ?」
「クリストフ。悪いがルシールが待っているから早く帰らないと……」
その言葉に、クリストフと呼ばれた男のエルフの口元がさらに歪んだ。アルバンの肩を掴み、指には力が込められていく。
切れ長の目はエルフの特徴だが、さらにその瞳は吊り上がりアルバンを射抜く。
「……ルシールがなんでテメェなんかと……」
これ以上、話していても険悪になるだけだ。
アルバンは肩に置かれた手を掴もうとすると、
「お前ら人間は昔からそうなんだろう? 肉体も精神も未熟なくせに、野蛮で征服欲だけは一人前ときてる。世界のあらゆるところを自分たちの縄張りにして、さらにこのエルフの里にまで手を伸ばすのか?」
「人間とエルフは共存しているはずだ……それにお前がそんなことを思うのも、自分の体に人間の血が入っているからじゃないのか?」
クリストフの指から力が抜ける。
「この里のエルフたちはみな穏やかだ。まだ俺はここにきて日も浅いが、お前以外からそんな考えを聞くことは――」
そこまで言ったところで、アルバンの背筋には冷たいものが走った。クリストフの瞳がどす黒い感情に塗れ、アルバンを射抜いていた。
「……二度とそれを口にするんじゃ――」
「クリストフ! 何をしている!」
静けさの漂う森の中に、怒号が響いた。遠くのほうから、壮年のエルフが小走りに近づいてくる。
クリストフの表情に動揺が走ると、アルバンの肩から手を離した。腕を組んで不満げに視線を泳がせている。
先ほど、怒りの声を上げた壮年のエルフがクリストフに詰め寄る。
「おまえはまだ納得しておらんのか? もう子供でもあるまいし……。いつまですねておるつもりだ!」
「あーあー。耳元で叫ぶなよ。親父。それに誤解すんな。俺はこいつともっと仲良くしようと腹を割って話そうと思っていただけだよ」
うるさい蠅を掃うように、壮年のエルフに向かって手を振ると、再びアルバンに鋭い視線を向ける。
「なぁ、人間。そうだろ?」
アルバンはなにも答えず、ただ、クリストフの視線を受け止めていた。
「……まあ、よい。クリストフ。さっさとここから立ち去れ」
「ちっ」
クリストフは舌打ちをすると、アルバンから視線を逸らした。
「……どんな手を使っても、里から追い出してやる」
誰に向けられたのかもわからないほどの小さな声で、クリストフはそう漏らした。
壮年のエルフはクリストフが立ち去ったのを見た後、アルバンに向き直った。
顔には相応のしわが刻まれているものの眼光は鋭く、その体躯からは全くと言っていいほど衰えは感じられない。じっと見つめられると圧倒してしまうほどだ。
すると、壮年のエルフはアルバンに対し深く頭を下げた。
「アルバン。すまない。息子の拒絶はわしの責任だ」
「いえ……そんな。頭を上げてください。里長」
そう言った後も、里長は頭を下げたままだったが、しばらくするとゆっくりと頭を上げた。すまなそうな里長の表情がアルバンに向けられる。
「クリストフの奴は、わしが必ず説得して納得させる。あいつは世間知らずでなぁ……本当に困ったやつだ。なぁに、お前の受け入れは里のみんなの総意だ。きっと上手くやっていけるさ」
「果たしてそうでしょうか……?」
皆の総意、と里長は言うが、基本的に穏やかで争いを好まないエルフたちだ。里長の決定に反論ができなかったのかもしれない。人の血が入ったクリストフをのぞいて。
「俺には、この里の皆が自分を受け入れてくれているとは到底思えません。俺を見る目は仲間へ向ける視線ではありません。この先、俺はうまくやっていけるのでしょうか?」
ふと、弱音を吐いてしまう。
里長は純粋なエルフではない。数世代前に人間と交わった先祖がいるそうだ。とはいえ、人間の血は薄まり、容姿は純粋なエルフと寸分違わない。ただ、時折見せる表情や言動は、人間のようでもあり、アルバンのこわばった心を幾分か和らげさせた。
「……里の皆は戸惑っているんだよ」
「戸惑う?」
「エルフというものは、人間から見れば無味乾燥な種族に見えるだろう?」
「あ、いえ……そんなことは」
たじろぐアルバンに里長の口端には笑みが漏れる。
「実際そうなんだよ。人間から見れば、永遠とも思える寿命を持ったエルフたちは自ら何かを得ようと行動することに億劫なんだ。外の世界を知ることも、生きる意味を探すことも、な」
里長の表情が曇る。
「だからこそわしは、お前がこのエルフの里に来たことで、何かが変わることを期待しておるのだ。お前のことを嫌っているわけではない。人間の血が入ったわしが言っておるんだ。間違いはない」
たしかに、本当に人間のことを嫌っているのなら、人間の血が入ったエルフが里長になれるわけがない。しかし、不安は胸の奥に燻ぶっている。
「なぁに、里の子供たちに人間の世界のことを教えていれば、その子らが大人になった頃には里全体の意識も変わっているさ」
エルフの子供たちが大人になる頃には、自分の寿命などとっくに終わっているのだが……とは思ったが、黙っておいた。
「ところで……あっちの方はどうなっておるんだ?」
里長がアルバンの顔をのぞき込み、にやりと笑う。
「あっち、とは?」
「何を言っとるんだ。あっちだよ。あっち。実はわしにはそっちのほうが気になってなぁ」
そう言いながら、里長は肘でアルバンの横っ腹を小突く。
「アルバンとルシールの子、だよ。若いんだからわかるだろう?」
「ああ……そういう」
アルバンは咳払いをすると背筋を伸ばし、里長の顔を真摯に見つめた。
「結婚式はまだ先です。少なくともそれまではルシールに求めることはありません」
はっきり言うと、里長の表情は落胆に変わる。
「真面目だなぁ……人間はみんなそうなのか?」
確かエルフは、控えめで穏やかだったはずだが……。
尚も、根掘り葉掘りとルシールとのことを聞き出そうとする、人間臭いエルフとの会話を無理やり中断し、アルバンは家路へと急いだのだった。