4:理解は求めるものではない
偏見だらけの、太陽の下が嫌いになった。
だったら夜の世界で、「違う自分」になって、そして実力でのし上がる、シンプルかつ難易度の高い方法を、私は選んだ。
何度も、死にたいと思った。
何度も、自分を傷付けた。
何度も、朝日の安心感に救われた。
よかった、1日また生き延びた。
死にたいはずなのに生きている事を安心する。
私が死にたいと思わなくなったのは、体の病気の薬が無くなって、給料日前で、振り込まれる日は三日後で。3日くらい大丈夫かな、なんて思った次の日、軽い多臓器不全を起こした。
吐いて、頭痛で頭が爆発しそうになって、自力歩行も出来なくなった。ベッドに横たわって、このまま死ぬのかなって思ったら、
死にたくない
そう、思った。死にたくない、まだ生きていたい。
それが、きっかけだった。
東日本大震災まで1年くらいはパニック障害もほぼ落ち着いてたけど、あれをきっかけにパニック障害どころかPTSDにもなって。
そして、世界一愛していた犬との永遠の別れ、愛していた人との別れを経て、私は1人になった。
生きる為に働かなきゃいけない。
仕事はある。
しかもパニック障害も体の病気も理解あるお店だったから、仕事を、この店でまず生きる為に働こうって。
そう、思った。
思ったけど、やっぱりみんながみんな理解出来るわけじゃない。
そこの店の上と揉めて辞めて、違う店に行ったら、今度は薬の副作用で太っちゃったら、副作用のせいにするな!って言われた。
「ママは、抗がん剤飲んでハゲてるお客さんに同じこと言えますか。」
それを言って、元々他に贔屓してる女の子もいたから、私はもう辞めるって辞めて。
どこに行っても同じ。
夜の世界だけじゃないし、昼も普通にショップ定員とかコールセンターとか営業とかもやってきたけど、どこも同じ。
バレたら、カミングアウトしたら。
そこに生まれるのは混乱・困惑・偏見。
相手に理解を求めてしまうから、傷付くんだ。
相手は自分じゃないし同じ経験もしてない。価値観だって違う。
根本的に、理解は求めるものではないんだと、その時に悟った。
だけど、理解されたい。苦しいのも辛いのも、1人で抱えるのはもうしんどい。
それなら。
まずは「知って」貰うことから始めようと思った。
何か聞かれたら、こういうの知ってますか?こういうのもあるんですよー。
って、そこでやめる。
理解求めるだけエネルギーの無駄。わかるわけが無い。なってみなきゃわからないんだ、病気の辛さってやつは。理解出来ないのが当たり前だから、せめて知っててくれないか。そんな感覚だった。
別れて一年後かな、元カレさんは病気には理解なかったから、「人」として接してくれていた人だったんだけど、世話になってる人がガンになって苦しんでる、って言われた時、ああ、この人にとって私はその人以下で、そしてガンだと言われて始めて、病気は甘えだなんていう言葉の罪の重さに気付いたのかと。もしくはガンだけは甘えじゃないとでも言いたいのかと思ったけど、そこまで馬鹿ではないらしかった。
体大丈夫か、って、その時言われてももう遅いのにね。
だってその時私、アル中で肝臓壊してたもん。