プロローグ
10月中旬。
「んっ。そこ……もっと強く……」
艶やかな声が響く。
男を惑わせる魔性の声。
耳をくすぐるその音に、俺は酔いしれようとしていた。
しかし、手を止めるわけにはいかない。
まるで楽器のような彼女の声に聞き惚れることは、今の俺には許されない。
俺に許されているのは手を動かし、彼女の急所を探すことだけ。
そのことだけに集中力をつぎ込む。
そう、俺は彼女を悦ばすことだけに意識を割けばいい。
それ以外のことなど些末なことだ。
「何してんのよ……」
来客だ。
見慣れた親戚の少女が、呆れたような表情で俺を見ている。
何をしているのか?
見ればわかるだろうに。
「肩もみだ」
「見ればわかるわよ! なんで肩もみを夢中でやってるのか聞いてるの!」
親戚の少女、アリシアが耐えられないとばかりに怒りだす。
肩もみを夢中でやっていた理由?
そんなの頼まれたからに決まってるだろうに。
「おー、ブライトフェルンの。書類はできたのか?」
「できました、できましたとも! 約束通り手伝ってるんですから、私とユウヤを早くアルシオンに帰してくださいね!」
「わかってるよ、やかましいな。あ、肩もみはもういいぞ。サンキューな」
「いえ」
侯爵の娘であるアリシアに対して、不遜な物言いだ。
しかし、それを咎める者などこの場にはいない。
アリシアですら、言葉遣いには何も言わない。
なにせ、彼女のほうが色々と上だから。
「次は何をすれば?」
「んー、じゃあ、紅茶でも淹れてくれ。とびっきり美味しいヤツな!」
厄介な注文をつけてくれる。
心の中でため息を吐きながら、俺は紅茶を淹れるために少し離れたところにある棚に向かう。
「ちょっと」
「なんだよ?」
「なに執事みたいなことやってるのよ。アルシオンの銀十字の名が泣くわよ」
「泣かせとけばいいんだよ。そんな名は。仕方ないだろ? アルシオンに帰るためにはあの人の協力が必要なんだから。機嫌を損ねて戦場に放り出されるより、こっちのほうがよっぽど楽だ」
「あんたって本当にプライドないわよね……」
アリシアが脱力して、遠いところを見る目になった。
これは現実逃避をしようか迷ってる目だな。
まぁ、仕方ないだろう。
俺は執事の真似事。アリシアは事務仕事を手伝わされている。
なぜ、こんなことに、と普通は思う。
俺も最初は思った。
けど、そんなことをしても何も解決しない。
俺とアリシアの安全が保障されているのは、彼女がいるからだ。
なら、精いっぱいご機嫌取りをしよう。
なにせ、ここはマグドリア国内だ。
周りは敵だらけ。
安全地帯はここだけなのだ。
「お茶菓子も忘れるなよ! 美味しいヤツな!」
「了解しました」
答えながら、紅茶を淹れて、適当にお茶菓子を見繕う。
それらをお盆に乗せて、彼女の執務机に向かう。
「どうぞ、紅茶とお茶菓子です」
「おう、サンキュー。しかし、エルトリーシャの悔しがる顔が目に浮かぶぜ。あいつ、今頃、お気に入りのあんたを取られて悔しがってるぜ」
レイナはまるで見てきたかのように意地悪な表情を浮かべた。
ここからエルトに連絡を取るなんて、ほぼ無理なはずだけど。
「どうですかね。そもそもここにいることも知らないんじゃないですか?」
「しっかりと知らせを出しといたから、伝わってるはずだぜ。二人の領地にもすぐ伝わるはずだ。そのうち迎えが来るから、それまでは引き続きあたしの手伝いだな」
そう言って彼女、レイナ・オースティンは快活な笑みを見せた。
そう、俺とアリシアはマグドリアで、侵攻中のレイナの軍に保護されていた。
どうしてこうなったかといえば、発端はアリシアだ。原因はまた別にあるが。
俺は何も悪くない。
そう俺は悪くないのだ。
ああ、神よ。
神威をくれたのは素直に感謝するけれど、七難八苦は勘弁してくれ。
どうして月一ペースで面倒事に巻き込まれなきゃいけないんだ。
「おっ! なかなか美味いな! アルシオンに帰らず、このままここに居てもいいんだぜ? あんたなら本当に副官を任せてやるぜ?」
「ありがたい申し出ですけど、遠慮しておきます。使徒の副官なんて苦労しかなさそうですし」
「違いないな。あたしたちは自己中の権化みたいなもんだし」
自覚ありか。
それでも自分勝手に振舞えるあたり、エルトに似ているな。
たぶん、エルトと仲が悪いのは同族嫌悪に近いんじゃないだろうか。
まぁ、同時期に使徒となったというのも関係しているだろうけど。
しかし、俺はつくづく使徒に縁があるようだ。
もはや、これほど使徒と関わりがあることは不運と言えるのではないだろうか?
どうにかならないかな。
この運の悪さは。




