閑話 シルヴィアとヨルゲン
ユウヤたちが突撃準備を始めている頃。
戦場を一望できる小高い丘の上にシルヴィアはいた。
シルヴィアが本気を出せば、敵などすぐに一網打尽にできる。
だが、シルヴィアは動かなかった。
ユウヤがそれを望まなかったからだ。
「損な性格じゃのぉ」
シルヴィアは呟きながら、こっそりとロードハイムの陣地からくすねた食料を口に運ぶ。
今から視界の先で戦が起きようというときに、なんとも落ち着いた様子だった。
しかし、次の瞬間、シルヴィアは視線を鋭くして空へと向ける。
視線の先には雲一つない青い空。
しかし、その青空に一つの黒い点が浮かんでいた。
黒い点はやがて、明確な形を見せ始める。
漆黒の羽を持つ鳥だ。
ただし、常識外の大きさであるが。
見た目はそのまま烏だ。
しかし、飛んでいることが不思議に思えるほどの大きさを誇っている。
その烏はゆっくりと旋回しながら、シルヴィアの下へと降下していく。
それをシルヴィアは烏から視線を外さないが、動く気配は見せない。
やがて、巨大な烏はシルヴィアの前へと降り立つ。
青みがかった目が、ジッとシルヴィアを見つめる。
シルヴィアは居心地悪そうに顔をしかめながら、その烏へ言葉を発する。
「もう来るとはのぉ。さすがはラディウス空中戦士団の団長じゃ」
「それは昔のこと。今はただ老いた烏でございますよ。シルヴィア様」
あろうことか烏はシルヴィアに言葉を返した。
そして体から微かに光を放ち、その姿をたちまち人型の男へと変えた。
烏から人間へと変化したのは、白髪頭の老人だった。
黒い服に身を包んだその姿は、まるで主人に仕える老執事のようだ。
しかし、老いているという印象は微塵も感じさせない。
背は高く、体つきもしっかりしている。
そして、その澄んだ青い目が発する光の強さが、この老人が只者ではないことを物語っていた。
「相変わらず見事な獣化じゃな。そこまで自在に人と獣の姿を変えられるのは、そう多くはないじゃろ」
シルヴィアは老人を称賛する。
それに対して、老人は恭しく頭を下げた。
「お褒めの言葉、ありがたく。しかし、シルヴィア様。このヨルゲン。レグルス中を探し回りましたぞ?」
ヨルゲンはやんちゃな孫娘を窘めるように、シルヴィアの行動を遠回しに注意した。
それを受けて、シルヴィアは肩を竦めて、ため息を吐く。
「きっちりとアークレイムの駐屯軍を撃破したし、置手紙もしたのじゃ。少しの暇くらいよいじゃろう」
「そうですな。常日頃から使徒としてラディウスを守ってこられたシルヴィア様ならば、少しの暇くらい許されるでしょう。ただし、周りに黙って行ったことと、他国に潜入したことはやりすぎです。下手をすれば、戦争だということくらいお判りでしょう?」
ヨルゲンは真摯にシルヴィアの身を案じて、そう言っていた。
それがわかるためか、シルヴィアも強くは出れなかった。
「悪かったと思っておるのじゃ。じゃが、言えば止めたであろう?」
「それが臣下の務めですので。すべての魔族の庇護者であろうとするシルヴィア様の姿勢は御立派ですが、シルヴィア様だけで救えるほど甘くはありません」
「そんなことはわかっておるのじゃ……。わかっておるが……見過ごせぬのじゃ。妾は魔族の使徒。行方の知れぬ魔族たちならばいざ知らず、居場所がわかっている者たちを見捨てるわけには行かぬのじゃ!」
「その結果、ラディウスに住まう魔族が危険に晒されても、ですか?」
「っ!?」
シルヴィアが言葉に詰まり、俯く。
それを見て、ヨルゲンは自分の言葉を反省した。
救いたいと思うシルヴィアに対して、あまりにも思いやりのない言葉を発してしまった、と。
「失礼を。少々、いじわるな返しでしたな」
「よいのじゃ……。わかっておる。どちらも守りたいという願いは贅沢で、傲慢で、そして難しいということくらい。じゃが、それでも何もしなければ救えないのじゃ」
そう言ってシルヴィアは面を上げる。
その瞳には強い意思が宿っていた。
諦めないという強い意思だ。
それを見て、ヨルゲンは微笑みを浮かべた。
ここに来るまで、ヨルゲンは心配をしていた。
シルヴィアが現実に打ちのめされていないかと。
シルヴィアの力を考えれば、その身に危険が及ぶというよりは、精神的に打撃を受けることのほうがあり得ることだった。
シルヴィアがラディウスを出たと知り、その後を追ったときから、ヨルゲンはシルヴィアが途方に暮れているだろうと思っていた。
思ったが故に死に物狂いで探した。
しかし、見つけたシルヴィアは予想よりもずっと明るかった。
ヨルゲンは、シルヴィアは狼牙族の里を見つけ出すことすらできないだろうと考えていた。
魔族を匿う里が、そんなに簡単に見つかるはずがないと。
各国の隠密たちでもなければ、見つけられるはずがないと。
だが、蓋を開けてみれば、シルヴィアは狼牙族の里を目の前にしている。
そして、その里の行方を左右する戦いを見ていた。
「何か……良き出会いがありましたかな?」
「良き出会い? そうじゃな。良き出会いというよりは、面白い出会いならあった。あそこで先頭に立っている男に出会ったのじゃ。ほれ、アルシオンの銀十字という少年じゃ」
「アルシオンの銀十字? マグドリアを使徒を退けた若き英雄ですな。使徒かもしれないと噂になっている」
「十中八九、使徒じゃ。本人は明かす気がないようじゃがのぉ」
シルヴィアはいよいよ決戦の雰囲気が漂い始めた戦場を見つめながら、気にした様子もなく呟く。
しかし、その呟きにヨルゲンは驚きを見せた。
「明かす気がない? 使徒なのにですか? 使徒の証である聖痕を見せれば、実力がどうあれ、どの国でも公爵の地位と望むままの財宝が手に入るというのにですか?」
「〝使徒〟ゆえにというべきじゃろうな。地位も財宝も手に入れられるじゃろうが、代わりに使徒となれば平穏を失う。どれだけ尊敬されようと、どれだけ丁重に扱われようと、使徒が戦の道具であることに変わりはないからのぉ」
「それは……」
ヨルゲンはシルヴィアの考えに口を挟もうとするが、すぐに思い直した。
ヨルゲンは使徒ではない。
使徒になった者にしかわからないモノがあり、そしてそれがシルヴィアの考えに繋がっている。
その考えに対して、いくらヨルゲンが言葉を尽くしたとしても、意味はなさない。
「別に、使徒になったこの身を呪っているわけではないのじゃぞ? 使徒になり、多くの者を守れた。使徒であることに誇りもある。ただ、それを嫌う者もいるという話じゃ」
「彼は戦が嫌いということですかな?」
「戦が嫌いというより、平穏が好きなのじゃろう。何も変わらない、凪のように穏やかな日々が大切なのじゃ」
「あの年頃の少年にしては非常に珍しいですな。普通は刺激を求めるものですが」
「変わっておるのじゃろう。そもそも価値観が妾たちとは違う。使徒であることを隠していること。魔族への偏見がないこと。平穏の大切さを知っていること。どれも普通ではないのじゃ」
シルヴィアは自分の角や羽を見て、驚きこそすれ、怖がる素振りを見せなかったユウヤを思い出していた。
恐怖というのは表に出やすい。
隠していてもわかるものだ。
自分を怖がっているならば尚更だ。
しかし、ユウヤからはそのような気配は微塵も感じられなかった。
人と魔族に大差はないというだけのことはある。
そうシルヴィアは関心していた。
同時に不自然さも感じていた。
大陸の人間、ひいてはこの世界で生きる人間にしては、あまりに魔族と人間、そして人間と人間との問題に無頓着すぎる、と。
「不自然で、おかしな男じゃ。貴族の息子の癖に貴族らしさは全くない。他者への差別意識が希薄すぎるのじゃ」
「実の息子ではないのでは? 戦場で拾われたというなら、よくある話ですし、他者への差別意識も持ちづらいでしょう」
弱い立場を知っている人間は、弱い立場の人間に自分を重ねる。
それゆえに弱者に優しくなる。
全員が全員とは言えないが、それなりの数の人間はその通りになる。
しかし、シルヴィアは首を横に振った。
「戦場で拾われたにしては甘すぎる。考え方はまるっきり温室育ちじゃ。不自由はほとんど経験しておらぬじゃろ」
「では、彼はどうして変わっているのでしょうか? 人と違いが出るならば要因があると思いますが?」
「こう言ってはなんじゃが、あれは生まれつきなのじゃろうな」
シルヴィアは苦笑しながらも、その甘さが嫌いではなかった。
幼き頃に戦場を経験しているならば、生きるか死ぬかの壮絶な経験をしたということだ。
どうしても甘さは消えていき、厳しさが身についていく。
利用できるものは利用しようとするし、排除するべきものは排除するようになる。
レグルスの使徒たちは皆、大なり小なり、そういう一面を持っている。
それゆえにユウヤの甘さはシルヴィアには不思議に映った。
「やはり不思議な男じゃ。平穏というのは無くして初めて、そのありがたみに気付くものじゃ。あやつはそれを知っている」
「戦に出て気付いたのでは?」
「そうかもしれぬが……そうじゃない気がするのじゃ。あやつの戦働きを見るかぎり、マグドリアとの戦中に使徒に目覚めたわけではない。そう簡単に神威は扱えぬからのぉ。そうなるとあやつは戦に出る前から使徒だったのじゃ。それでもあやつは名乗り出なかった。平穏を奪われるのを嫌ってのぉ」
失う前から平穏の価値を知っている。
そんなことがあるだろうかとシルヴィアは自問して、あり得ないと答える。
どれだけ人に聞かされたとしても、本当の価値に気付くのは、自分が痛感した瞬間だ。
「あやつは一度、平穏を失っておるのかもしれぬな。どういう形かはともかくのぉ」
「だから平穏に拘ると? しかし解せませんなぁ。そんな少年がなぜここに?」
「そこが面白いところじゃ。あやつにとって、狼牙族は敵であった。じゃが、あやつはその狼牙族を守りにきた。自分が狼牙族の戦士長を討ったからじゃ。今の状況に責任を感じておるのじゃよ」
「評価が定まりませんな。平穏を第一に考えているなら、責任など放棄すればいい。いや、そもそも侵略してきた敵を倒しただけです。責任など誰も追及しない」
「他人は追及はせぬだろうな。結局は、あやつ次第なのじゃ。自分に納得が欲しかったのじゃろ。まぁ、結論をいえば、あやつは自己満足であそこにいるわけじゃ。平穏を求めるのも、責任を取ろうとするのも、全てあやつの我儘ともいえる」
「なるほど。そういうことなら納得です。実に使徒らしい」
シルヴィアとヨルゲンは同時に笑う。
我儘である。
その一点は使徒の共通事項なのだ。
ヨルゲンとシルヴィアはひとしきり笑い合うと、戦場へと目を向ける。
そこでは既にロードハイムの騎士たちの突撃が始まっていた。
そして、その先頭には銀十字のマントを羽織ったユウヤの姿があった。
「さて、今なら容易く隠れ里に入れますが?」
「そうじゃなぁ。戦が終わってしまえば狼牙族に接触するのは難しくなるのぉ。ユウヤもあれこれと考えていたようじゃが……」
「お望みなら一目に付かぬルートをご案内できますが?」
「ふむ。まぁ焦らずともよいじゃろ。まずは目の前の戦を見るとしよう」
そう言ってシルヴィアは地面に腰掛け、また食料を口に運び始めた。
「よいのですか?」
「よい。妾はユウヤの戦いを見届ける。あやつは妾の助力は不要と言ったのじゃ。使徒である妾がここにいると知れれば、ラディウスが危険になるからじゃ」
「ほう? ラディウスの心配までしてくれるとは。中々どうしてお人よしですな」
「損な性格をしておるのじゃ。気遣いなどせず、妾に頼めばすぐ終わるというのに。じゃが、そんなあやつを妾は気に入った。じゃから、妾は手を出さぬ。無論、負けそうになれば別じゃがな」
「流石に負けはないでしょうな。どのような神威を持っているにせよ、せいぜい二倍程度の数では使徒の相手ではありません。ところでシルヴィア様。高みの見物を決め込んでいるのは、我々だけではないことにお気づきですか?」
ヨルゲンはそう言うと、辺りを見渡す。
小高い丘の上からだと、周辺のことが全て見て取れる。
しかし、ヨルゲンの視界内には何もいない。
だが。
「気付いておる。巧妙に隠れているようじゃがな」
「空から見たときに確認しましたが、アークレイムの隠密ですな。こそこそと何かを狙っている様子」
「大方、賊たちが失敗するのを見越して、狼牙族とロードハイムの間で問題を起こす気なのじゃろうな」
「そうなれば関係悪化。ラディウスも黙っていません。それが今回の狙いというわけですか?」
「そうじゃろ。上手く妾たちを動かし、レグルスとアルシオンを足止めする気なのじゃ。そして、王都では逆のパターンじゃろうな」
シルヴィアの言葉にヨルゲンは微かに目を細ませる。
その事態はあまり歓迎できない事態だからだ。
「魔族が人間を襲うと?」
「狼牙族の生き残りか、はたまた別の魔族か。どちらにせよ、王都を襲うのは魔族じゃろうな。襲撃が失敗したにせよ、成功したにせよ、民の印象は最悪じゃ。襲撃させることに意味がある。これはもはや止められまい」
「レグルスの対応次第では、我らも本当に動かねばなりませんな」
「そうじゃな。でもまぁ、平気じゃ。奴らは妾がここにいることを知らぬ。仕組まれたことと知っていれば、妾たちも対処はできる。あとは状況次第じゃな。とりあえず、今は目の前のことじゃ。アークレイムの鼠どもが動くようなら始末する」
「御意に。では、私はもう一度偵察に参ります」
そう言うと、ヨルゲンはすぐさま烏に姿を変えて、空へと羽ばたいて行った。
シルヴィアはそれを見送り、もう一度、視線を戦場へと移すのだった。




