小市民の犯罪
この小説は完全なフィクションです。
「まずいよなぁ……」
夜勤へ向かう道すがら、つぶやいた。財布の中には五百円玉が一枚あるだけだ。この冬いっぱいはきこんだ靴は内側がすこし擦り切れていて、そこからしっとりと雨がしみこむ。もう四月になるというのに、ジャケットは冬物で、中にTシャツを着ている。
「どうして大丈夫なんていっちゃったんだろう」
テレビのコマーシャルで流れていたフレーズを繰り返す。きれいな女優さんが、日の当たる町を闊歩しながらいうせりふは、悩んでいながらもすがすがしい。三十を超えて久しい、大してかっこよくもない男が、しとしと降り続く冷たい春雨の中で言っても、そこには人生の翳りしかみられない。
家賃の支払いも済んだ。光熱費もなんとか間に合った。そうしたら財布の中身がひどいことになった。また三日後くらいには、来月の支払いが始まる。ちょうど電話してきた母親に
「生活は大丈夫なの?」と聞かれて、
「大丈夫だよ」と答えてしまった。
アパートのポストには毎日のように闇金業者と思われるところからのダイレクトメールが届く。『おまとめローン』のような広告に引っかかり、相談をしてしまった。怪しいと途中で気がついて、融資こそ受けなかったが、二ヶ月ほどしてダイレクトメールと電話の攻撃が始まった。脅されて金を払うたまではないので、そのままにしている。やつらもそのうちあきらめるだろう。
だがこうも金がないと心が折れそうになる。怪しくないところには借金をしているが、毎月返済してはまた借りると繰り返している。金利を考えれば、ばかばかしくて仕方ないが、残業も減り、給料も上がらない今では目先のことで精一杯なのだ。
昨日も一昨日も、その場所からちょっとも動かずに放置されたままの自転車が雨にぬれている。自転車操業という言葉が思い浮かぶ。
「自転車というより一輪車だな……」
ハンドルすらなく、ぐらぐらとしている自分の人生を自嘲する。
ぱーっと何か当たらないかな、と思う。毎週六億円当たるというくじを一口だけ買うが、一切当たる気配がない。競馬も付き合いでやったりするが、同僚のように詳しいわけではないから、さっぱり当たらない。パチンコなんて、
「この金がなくなったらどうしよう」と思うと怖くてできない。要するに、パーッと何かが当たる要素すらないのだ。
金もなく、将来の見通しもなく、とりえもない男に彼女がいるわけもなく、気晴らしになることも見当たらない。若いバイトが口癖にしている言葉をまねてみようかと、
「みんな死ねばいいのに」といってみるが、さらに胸が悪くなっただけで、事態は一向に好転しなかった。
「更なる上は犯罪か……」
自分にできそうな犯罪を考えてみる。強盗、まず無理。脅しに屈することはないが、脅すことにも自信がない。
「金をだせ」
なんて親にもいえないのに他人に言えるわけがない。
窃盗。人のいない家に忍び込むか。でもいつ帰ってくるかわからない。誰かに会ってしまえば強盗にはや代わりか。これも無理だろう。
横領。一体どこから?金を扱う現場でもなく、金を任されるほどのポジションでもない。もし万が一そんな立場にあったとして、横領したとしても、その後同じ場所で働けるほどの度胸はない。速攻ばれるだろう。
解決策も見つからないまま、駅に続く道への角を曲がると、ものものしくパトカーが停まっていた。黄色いテープが公園のトイレを中心にはりめぐらされている。
「強盗らしいわ」
野次馬の声で事件を知る。さっきまで犯罪について考えていたものだから、挙動が不審になる。
「まずい、まずい」
ここで職務質問なんてされていたら、仕事に遅れる。なるべく普通にしなくては。端っこに立っている警官が、こっちを見ているような気がしてならない。まっすぐ前を向いて歩くべきか。いや、それはそれで不審な気がする。それとなくトイレのほうを見やりながら、足早に過ぎようと努力する。
「三十代くらいの男が犯人だって」
野次馬の声にさらにびくびくする。
三十代、明らかに金がなさそう、まだ冬の装い、挙動不審。心臓がばくばくしている。まっすぐに前を見つめて立っている警官の目がぎらぎらと光って見える。
「俺はなにもしていない」
心の中でつぶやくが、果たして本当に何もしていないのだろうか、と疑問がわきあがる。昼寝していた間に、そんな夢を見た気がしてくる。もしかして無意識に犯罪を犯し、それで強盗やらなんやらのことを考え始めたのではないか。
天気が悪くなりそうだな、と思いながらカーテンを閉めた。最後に女優さんが歩いているコマーシャルを見て、テレビを消した。目覚まし時計が六時にセットされることを確認した。確かにそのあと、ベッドに寝転がった。癇に障るベルの音で、目を覚ました……
思い出そうとすればするほど、わからなくなってきた。夢は見たか?ベッドに入ってから、目覚まし時計に起こされるまで、一度もおきなかったのか?家を出るときに鍵をかけてきたか?
(鍵、かけたっけ?)
不安になってくる。風呂の種火は消してきたか。だめだ、思い出せない。泥棒にはいられてもとられて困るものはなにもない。あ、いや。パソコンを盗まれると困る。秘蔵の映像がたくさん入っている。きっとあれが一番のお宝だろう。種火の消し忘れで火事でもだしたらもっと困る。パソコンはもとより、誰か死んでしまうかもしれない。アパートの住人なんて、誰の顔も知らないけれど、俺の部屋の上には足音のうるさい小さな子供が住んでいる。故意ではないとしても、もしも子供でも死んでしまったら……腕時計を確かめる。走れば何とかぎりぎりの電車に間に合うだろう。
きびすを返し、早足で元来た道を行く。角を曲がって足をさらに速める。最後の大きな車道を過ぎてから、アパートまでランニングした。足元では薄くできた水溜りがパシャパシャと軽い音を立てる。芸能人の離婚記者会見のシャッター音のようだ。
アパートのドアノブを回す。鍵がかかっている。乱暴に鍵を開け、靴をはいたまま風呂場に行く。種火も消えている。
(なんだ。無意識にやっていたのか)ほっとすると呼び鈴がなる。
(ちっ。こんな時に。仕事に遅れるじゃないか)
「はい」
乱暴に答えて、ドアを開ける。二人の制服の警官が立っていた。彼らがそこで見たものは、汗をかいて怪しい格好をし、靴を履いたまま部屋の中にいる男の姿だった。
「そんな作り話、考えながら来たの?」
現場の上司は薄ら笑いを浮かべながら、右手に持ったボールペンで、自分の左の手のひらをたたいている。底意地の悪さが顔に出たいやみなやつだ。ちょうどパトロールをしていた警官に見られて、二人は部屋を訪ねてきた。俺が靴を履いたままだったものだから、その誤解を解くのに時間がかかった。警官との押し問答で、出てきた二階の奥さんが、俺のことを部屋の住人だと証言してくれてやっと解放された。が、ときすでに遅し。結局遅刻してしまったわけである。
「作り話じゃ……」
「まぁまぁ。じゃあそういう夢を見ていたってことで」
「明日の新聞でもみてもらえたら……」
「いいよ、もう。はやく仕事にいって」
目の前に飛んでいる虫でも追い払うかのように手のひらを顔の前でひらひらさせた。
俺は心に決めた。もし犯罪を犯すなら、暗闇でこいつを襲ってやろう。いや、ばれたら面倒だな。うん、こいつの近くか、職場の近くでなんかあったときに、こいつが怪しいと垂れ込んでやろう。それなら俺は痛くないし、きっといい考えだ。
(その前にまず母親に電話して「金をだせ」って言わなきゃな)
現場に向かいながら思った。結局俺は親不孝って罪をすでに犯しているのかもしれない。
「どうして大丈夫っていえないんだろう」
そうつぶやいて外を見た。雨はまだ降り続き、だんだんと粒を大きくして花冷えは深くなっていっていたが、俺の心は軽くなっている気がした。
作者はついつい大丈夫、といってしまうほうです。




