赤き大地
くぅ疲れ
あらゆる暴虐を集めてもこうはならない、とルビは幼心にそう感じる。
黄土色の竜巻も、意志を持ったように押し寄せる海嘯ですらまだ慈悲があった。それが大地で起こることだから、それで死んだところで仕方のないと諦められた。
事前に察知ができることが多くはないが、まだそれが大地の巡りなのだと悟ることが出来た。海嘯の塩害で森が枯れれば狩りはしやすく、竜巻で家が壊れれば自分たちが獲物になってもおかしくはなかった。
ここでは大地がすべてだ、その日の生きるか死ぬかは巡りと大地に掛かっている。獲物を追って豹に会うこともあれば逸れて弱った獣を見つけることもある。
ただ、「この獣」から感じる恐れは何だろうか。たった一匹だと侮っている訳ではない、獣一匹だろうと人間にとっては命の脅威たりうる。
しかし、この獣とすら呼んでいいのか怪しいものは違った。
異形だ。
爪と牙で目の前にあるものを薙ぎ倒していくその獣は大地に生けるものでは決してあり得ない無い相貌。
蠍の尾、蝙蝠の翼、翁の顔、赤い獅子の四肢と胴を持った化け物。
慮外の怪物が狩りでなく仇討でも、怒りからでもなくただ壊す。何の目的もない破壊をしているだけだった。
ルビは何もできない。大人たちもなすすべも無く、村総出で拵えた住処も畑も荒らし尽くされる。牛や羊は赤々と血を流して嘶きを残して殺された。
そして怪物は勝ち誇るように叫んだ。動物の声とも人間の声ともつかない、耳に堪えない大きな悍ましい勝鬨。
ルビにはいっそ哄笑と表現した方が正しいほどに邪悪な鳴き声に聞こえた。
その日は茶赤の大地がさらに赤焼けて見える晴れだった。
アサファイ達牛飼いは牧草を求めて、牛たちを導いていた。今年は集落の周辺にとかく草が茂らなかった。というのも若草も若草というところで飛蝗の群れが食い尽くしてしまったからである。対策をしても村の畑の被害は軽くなかった。
蝗害の時期だったので予測が出来ないわけでは無かったが大移動にしても明らかに例年よりも数が多かった。
そのためアサファイはいつもよりも遠くに牛たちを連れて歩く。途中、別の、自分の群れと同じ規模の群れを見つけた。
「おい、アサファイ。向こうにも牛飼いがいるはずだ。挨拶してきてくれ。このままじゃ群れがぐしゃぐしゃになってしまう」
肌の浅黒さと皺が同化した様な老いた男――レンジオがアサファイに告げる。
「ああ、分かってるよ。レンジオ」
アサファイにとってレンジオは師匠に当たる、牛飼いとしての心構え、技術、何もかもがレンジオから教え込まれたものだった。
アサファイは首に下げた三つの内の一つ――白い石笛を吹く。
甲高い伸び伸びとした音があたりに響く、これは当たりの村々と決めた共通の合図である。
この笛の音は注意喚起を促すもので聞こえたら返す決まりになっている。
「飾りは、あるな。西の方か」
もう一度笛を吹く、しかし同じ音色は返って来ない。
人影を探してアサファイはあたりを見渡す、すると赤毛というには妙に赤黒い色をした牛が幾頭いるのを見つけた。
それを見ると何だか酷く胸がざわつき、既視感に苛まれる。
彼は群れに警戒しながらその牛に近づく。近づいても大して取り乱した様子が無い事から、アサファイは最近まで人に飼われていた群れだと確信した。
近づけば近づくほどに、嫌な予感は増し脳裏の記憶は強く主張してくる。
なにしろ色に染まった内の一頭には角から顔首にかけて、べったりと赤黒く塗られているのだ。記憶に違いがなければ、こういう血塗られ方をするのは牛飼いが「しくじったとき」だ。
おそらく興奮した牛を避けきれなくて突き上げられたのだろう。牛飼いには様々な危険が伴う、自分もこうならない様にとアサファイは気を引き締める。
アサファイがその赤黒い肌に触れると、乾ききっているのが分かった、
「大分時間が経っているのか」
暫く雨も降っていないし水浴びをした様子も無い。少なくとも数時間は経っていることが分かった。
その化け物が現れたのはその時である。
牛飼いの男、アサファイは勇敢な男である。牛は一族や村にとって金であり、食糧であり、命である。その全てが荒涼とした大地に生きるために必要なものだ。
牛飼いは家族、ひいては村の中でも一等勇敢な男が選ばれる。それは名誉な事であり、しかし重い責任を担うという事でもあった。牛を一頭でも失おうものならば、叱責は免れない。
そして、今、アサファイが村から追放されようとしているのは確実にそれが遠因である。
アサファイは牛を守れなかったのだ。
羽飾りを頭に付けた司祭が色の付いた薪を焚火に放り込んだ。
燃え盛る炎を村の人間は平伏して囲んでいる。この村にとって炎は神聖なものだ。
「大いなる大地よ、大地の子たる彼、アサファイを量りたまえ。量りていかなる禊望みしか」
捧げる祝詞は、村の誰もが知っているものである。
今度は自分の番かとアサファイは儀式を何処か冷静に見ている。おそらく放逐をされることはないだろうが村での暮らしが厳しくなるのは決まったようなものだ。
アサファイは牛を守れなかった。
だが、あの化物のだした被害は決して少ないものではなく隣村にも被害が出ていた。
村は共同体だ。この厳しい大地で一人では生きていけない、互助とそれぞれに責任が必要だ。牛飼いの帰るべき場所を守るのも、村に残る人間の役目だ。それは牛飼いが牛を守りその利益を村に還元するから成り立つ互助だ。
しかし、この件にはお互いとりきれない責任がある。むしろ責任を取れる人間など居ない事は皆承知の上だ。それでも鬱憤を残してはいけない、そうでないと遺恨が残りかねない。それほどの被害には禊が必要だ。
村には道理がある。村の長は信用が命だ、いかな知者であっても信頼をかけてくれる人間が居なくても持ち腐れにしかならない。責任を曖昧にすると小さなところから人間関係が崩壊を始めるから、どんな小さな瑕疵でも対処しなくてはいけない。
村の大事は長の責任ではあるが、この天災ともいうべき禍はそうではない。
だから司祭が必要になった。彼らは大地と交感するシャーマンだ。
母なる大地という祈りは、ここではいつ、どこでも耳にする言葉だ。みな大地に祝福されて生まれてくる。赤子の時には虫を食み、子供の時には鳥をしめる。大人になれば病を恐れ体に泥を塗りたくる。老人になって子孫に話を聞かせる。
そんな営みの中にはいつでも大地に祈る言葉がある。
「母なる大地、大地の子たる我を守りたまえ」
そんな祝詞を唱えつつ死んでいく大人をアサファイは多く見ている。
大地に生まれ、還る。
過酷な環境の中で誰もが大地を常に思っている。そうでなくてはとてもここでは暮らしていけない。
司祭は大地の代弁者だ。
だから、呵責の一切を大地の名前で洗い流す。
アサファイは牛飼いで若いというのに珍しく、まだ子をなしていない。アサファイには責任を取らせる事が出来る大義があり、身寄りがないため後腐れも無い、つまるところ絶好の生贄だ。
自分が辿るだろう結末にアサファイは憤りを覚えたがすぐに、あの化け物を思い出して怒りは萎える。
――理不尽というならば、あの化け物ほどその名が似合うものがいるものか。
内心で独りごちて、アサファイは揺らめく焚火を見つめる。
いつでも炎は赤々と燃えている。ここでは神聖を象徴するそれはいつでも村の篝火として焚かれていた。
ある時、獣の蔓延る夜闇の中で恐怖に震えながら彷徨った。月夜であっても暗がりでの獣に人間はなすすべがない、見つかれば即死につながる。
その日は雲も厚く星も頼りにならなかった、昼間のうちに記憶にとどめた朧げな記憶だけがはかない道標だ。それもどこまでも同じような景色の広がる大地でどこまで役に立つか知れない。
風の嘶きに身を竦め、自身の足音を獣のものかと疑い始めるほどに彼は追いつめられていた。彼の間近にある夜闇と孤独は死への恐怖に驚くほど近い。
道を違えればそれだけ彷徨う時間は増え死に近づく。よしんば正しく歩けても獣がいればそれで終わりだ。
アサファイは震える口を懸命に縫い合わせて言葉を紡ぐ。
「母なる大地、大地の子たる我を守りたまえ」
自然と言葉が出た、恐怖に頭が痺れていても信仰だけは揺るがずにアサファイの心を支える。
そんな恐れで濾過された純真な祈りを囁く言葉に応えるように、橙の色が大地にはためいて見えた。
それが篝火の明かりだと分かったとき心の底から火を喜んだ。それからアサファイは火を見ると村のつながりを感じたような気になったて心が温まった。
そんな彼の誰にも言うことのないささやかな祈りの真摯さの理由もその奇跡も、焚火が消えれば本当にもう誰にも知られることはなくなるだろう。
音を立てて木が崩れると火の勢いがひどく頼りなくなった。炎に消えないでくれと祈っても火は薪木を灰にしながら燃えて、そしていつか消える。
いつか彼を導き生きながらえさせた、ほかでもない炎が今彼の未来を伴って消え行く。
彼が見る火はきっと、自身の命脈だ。
その日もいつもと同じように赤焼けた大地が広がっていた。
「あの化物を殺めぬ限りはこの地踏むべからず」
司祭は荘厳な声音でアサファイに告げる。
アサファイの耳朶には明瞭な死刑宣告となって届いた。
あの化物を誰が仕留められるだろうか、ああ確かにアサファイは勇敢な牛飼いではある、が稀代の狩人では無い。いかなる狩りの名手だとしてもあんな化け物と退治するのは絶対に不可能だろう。
むしろ人間などは狩られる側の動物に過ぎない。諦念からアサファイの心に夜闇がにじむ。
あの、明かりのないなか彷徨った気持ちがアサファイを蝕む。
自身が勇敢な牛飼いであるという自負も誰もが自分に向けた期待の眼差しも全てが彼から引き剥がされた。
あまりにも突発的な不運で自分が本当に何もかも失ったのだと、そこでようやく気が付いた。
あの化け物に牛を鏖殺されてから二日ほど過ぎていた。短い時間にあまりに目まぐるしく零落する自分に嘆かずにはいられなかった。
怪物はあの場でアサファイの命こそ奪わなかった。けれど今彼は命をつないでいくうえで必要な大切ななにかを削ぎ落とされて、寂寞とした大地へ一人転がろうとしていた。
行き馴染んだ家路は死出の船旅への始めの一片だ。
アサファイはおそらくもう帰ることのできない家に戻っていく。
途方に暮れて彼の見上げる空はそれでも青い。
十五の頃、彼は自分の家を持った。
それは牛飼いとしての牛舎を兼ねたものだったが確かに自身の場所だと思えた。
育ての親であるレンジオに良くしてもらってはいた。拾われた事を考えれば感謝してもしきれないほどの恩だろう。それでも、感謝も親愛もアサファイの孤独を埋めることはなかった。
元々天涯孤独の身であるアサファイはレンジオに家族同然に育てられ、彼の後を継いで牛飼いになった。
レンジオの子供は別の仕事を継いだ、それについてアサファイは決して口にせずにいる。
牛飼いは決して楽な仕事ではない。当然のように死がちらつくし、牛を守るために時に村を疑うことすらある。レンジオの子にはあまり似合わない仕事だと村の誰もが思った。だから役割について口にしなかったというわけではなかったが。
ここではあまり血統が重視されない。子供は村の皆々が共同で育てるものでねぐらだけがきっちり決まっていた。
母なる大地の下ではみな平等に子だ。
それでもアサファイに血の繋がりはない。レンジオとの繋がりも罪人である彼にはもはやない、よしんば話したとしてもレンジオの立場を悪くするだけだ。
自己満足でも相手を大切にしたいという思いが繋がりなのだとしたら、孤独に耐えることが逆に孤独を忘れさせた。
それでも、耐えることができるだけだ。吹けば飛ぶような感傷だけが彼を繋ぎ止めている。
幼い日、親を亡くしたアサファイが顔をのぞかせる。
信仰も信頼も、すべてが正しい理に暴力的に根こそぎになった。司祭を激しく憎む気持ちが沸いてきても、すぐにしぼんだ。司祭は一番アサファイに良くしてくれた大恩人だ。司祭は他でもないレンジオの妻でもあった。
失望、絶望、悲嘆、憤怒、それらすべてが渦巻きアサファイを激しく苛む。
そうして、誰からの言葉もないままアサファイは村を出た。
アサファイは細身ながら引き締まった体にいくつもの物を身に付けていた。
弓、矢筒、鉈、外套、食糧――それは狩人の荷物だ。それも普段のそれとは違う質の高いもの、これを準備したものの罪悪感がしれるようだとアサファイの顔は歪む。
普段の狩りだったらこれは大げさすぎると彼は笑い飛ばしただろう。けれどこんな貧弱なものであの化け物を殺せというなら、彼はもっと別の意味で笑わなくてはやっていられない。
この大地を一人で生きていくことは難しい、それ程に厳しい環境だ。
けれど、アサファイは今一人きりだ。
恩人であるレンジオがいなければ、命を投げ出しても惜しくない牛達もいない。
いつも見る大地は妙に広く見え、孤独感に苛まれる。木が少なく、草も点々とした程しか茂らない寂莫とした風景はそれだけでアサファイの心を締め付ける。
それでもアサファイはやらなくてはいけない、彼の災禍を拭えるのは化物を殺すという目標を達成した時だけだ。
ああ、何たる理不尽だろう。
そう嘆いても、事態は一向に動かない。
過去、放逐される人々をアサファイは横目でとらえるだけだった。村の掟を守れない人間にそのような沙汰が下っても当然だと。
赤い大地に孤独に歩き出した先人たちはどうしたのだろうか、そんなことを考えただけで心臓が跳ね上がった。
ふと動物の死骸が放つ悪臭が風に乗ってアサファイの鼻腔をくすぐる。死肉に群がる蠅がアサファイに目を付けたように羽音を近づける。
骨と筋張った肉ばかりの残る、見るも無残な最期。結局は辿る道でも、彼に逃げ道はない。
風に巻き上げられた砂でアサファイの視界が滲む。
赤漠とした大地がどこまでも、どこまでも広がっている。
この広い何処かに理不尽の化身が潜んでいるのだ。
あの獣を殺さなくてはいけない。
諦めてしまいたかった、けれどこの大地で生きていくための心の支えをそれ以外に彼は見いだせない。
本当の孤独を感じてすべてが引き剥がされて、死にたくないとただ涙目で祈る。
アサファイは今ほど、死ぬということを身近に感じたことはなかった。アサファイの先はあの日の夜闇よりも遥かに濃密な黒さに閉ざされている。
「母なる大地、大地の子たる我を守りたまえ」
そんなアサファイの囁きしか、彼の耳に届く音はない。
祈りはどこにも届かない、帰る場所もない。そしてほかでもない司祭からは放逐を宣言され彼は大地から祝福を受けられない子だ。
ただ、彼には跳ね返った音と濃密な死のにおい、寂寞とした大地。
恐怖を歩むための支えはない。このまま死んでもアサファイの魂は大地に帰らない、彼の村では放逐された人間はそういう事になっていた。
震えた。なにも支えがない死が恐ろしくてただ、彼は震えた。
激しく押し寄せる孤独感に耐えきれなくて、膝から崩れ落ちる。
涙があふれるのを止められなかった、止めなければ体から水分が失われてしまうと、頭の隅で思った。アサファイはなにもかも失ってもそれでも死にたくなかいと切実に願う。
だから涙が止まるようにと、大声を上げる。
嗚咽の混じる深呼吸には土のにおいがする。込み上げる思いをありったけにして音が放たれた。
赤い大地に、乾いた叫びが響いた。
校正をちゃんとするべきだったのではないか、その一点に尽きる