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9(グロ注意)

 診療所の裏に建っている自宅のリビングで、薬王木はのんびりとテレビを眺めていた。大型の液晶テレビの画面では、日本人の抗不安薬の使用が節度を無くしているという事実が、無表情なキャスターの口から流れるように伝えられていた。


 抗不安薬とは、主に精神科で処方される薬剤だ。極度のストレスに曝され、不眠や強い不安傷害を抱える患者へ主に投薬される、ということを薬王木は記憶の彼方から引っ張り出した。


 テレビによれば、抗不安薬を慢性的に使用すると効力が弱まるという点、唐突に薬の使用を中止すれば禁断症状に似た症状に襲われる点、また、医師による無配慮な診察と投薬に対する批判が取り上げられていた。


 精神科の医師の苦労が分からないでもないため、医者を一方的に攻めているニュースの内容には、手放しで納得できないものはある。だが、ここで声を上げたところで何がどうなるわけでもない。薬王木は目を閉じ、軽く頭を振った。


 ビールでも飲もうかとソファから立ち上がったところで、怒涛の勢いで鳴らされるインターホンに気付いた。時計を見れば午後十一時前をさしている。こんな時間に小学生の悪戯ではないだろうと判断し、薬王木は普段着の上に白衣を引っ掛け、足早に診療所の方へと向かった。 


「今、あけます」


 まだ問診どころか、患者の顔さえ見ていないというのに、ガラス扉の向こうにいる患者の焦りが伝わってくる気がした。薬王木は素早く施錠された正面玄関の扉を開き、ブラインドを上げた。


「助けてくれ! なんかおかしいんだ! 診察してくれ!」


 真っ先に視界に飛び込んできたのは、夜目にも明るい金髪の少年の姿だった。一瞬、女性かと見紛うような綺麗な顔立ちを蒼白にして、彼は同じ年頃の少年に肩をかしている。


「とりあえず中に入ってください。手伝います」


 扉を全開にし、薬王木は少年の反対側から患者の肩に腕を入れた。激しい呼吸音の中に、肺から漏れるぜい鳴が混じっている。高熱もあるようだ。真っ先に頭に浮かんだのは肺炎の可能性だった。


 金髪の少年と二人で患者を引きずるようにしながら診療室へ運び、診察台に寝かせようとしたところで、少年が患者をうつ伏せにするように言って来た。


「見たこともないハエに寄生されてる! 昨日、四十匹くらい俺が摘出したんだけど、今日になってまたハエが寄生した! とりあえず除去はしたけど、敗血症の疑いが強くなってきてる! いろいろ聞かなくていいから、とりあえずカルバペネム系の抗生物質を用意してくれ! メロペンか、カルベニンあるだろ!?」


 薬王木は一瞬、目を見開いた。少年の見た目と、たった今彼が口にした言葉の内容がすぐには結びつかなかったせいで、思わず硬直してしまったいた。しかし、金髪の少年の方はそんな薬王木の反応には気付いていない様子で、手早く患者のシャツを捲りあげる。そこに現れた傷跡を見て、彼は言葉を失った。


「涌いてたウジは俺が全部、除去した。だけど、今日の昼くらいから三十九度の熱が続いてるんだ。脈も一分間に九十以上だし、顔色も普通じゃない! 敗血症はスピードが決め手だろ!?」


 運ばれてきた患者の背中には、背中の上部にひとつ、そこから左下にひとつ、更にそこからやや右寄りに十五センチほど下がったところにひとつ……皮膚が食い荒らされた痕跡があった。


 直径五ミリにも満たないながらも、びっしりと隙間無く開けられた穿孔が並ぶ様には、思わず嫌悪感を呼び起こされる。だが、医者がここで怯むわけにはいかない。


 傷口をライトで照らして観察すれば、かなり深くまで筋組織を失っているのが分かった。そこに、肉眼で捉えることができる生物の姿を確認することはできなかったが、似たような症例の写真は、幾度か研修医時代に見たことがある。金髪の少年の説明を疑う余地は無かった。


 薬王木は患者が着ていたコートを脱がせて、その腕に血圧計をセットした。そして、まさしく金髪の少年が口にした薬剤を取りに保管室へと足早に向かって行った。


 カルバペネム系の抗生物質は、コアグラーゼ陰性ブドウ球菌やメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)など一部の細菌を除く、多くの細菌に対して効果が認められる抗生物質である。


 最近は、その広域な効果が裏目に出て、日本中どこの病院でもまずはカルバペネム系の抗生剤を、という治療が蔓延してしまっている。結果、緑膿菌を始め、一部カルバペネム系に耐性のある細菌が出現するという事態に至ったという事実があった。


 一介の医者として、薬王木は耐性菌の出現をなるべく抑えたいという思いから、まずは血液培養などの検査を行い、その結果に応じた抗生剤の投与を行うようにしている。しかしながら、敗血症ともなれば話は違ってくる。


 重症の敗血症では抗生物質の投与が一時間遅れることがそのまま生死の分かれ目となりかねない。当然、血液培養の結果を待つ余裕などない。カルバペネム系は敗血症だけではなく、肺炎にも効果がある。迷うことなくカルベニンを用意し、患者のもとへと戻った。


「検査のために血液をとらせてください」


 血圧を確認する。収縮期で九十五。一刻を争うとまではいかないが、それでも危険な状態であることには違いない。慣れた動作で患者の腕に針を刺し、ひとこと断ってから血液を採取する。そして、針はそのままに、カルベニンのパックから伸びたカテーテルを繋いだ。


「口の中を見せてください」


 荒い呼吸を繰り返している患者に向かって声をかけると、鬱陶しげな視線が向けられた。目に見える患部は彼に付き添いとして来ている金髪の少年によって既に処置済みとのことだ。


 しかしながら、ぜい鳴の混じった咳、高熱など、彼の体調不良はハエの幼虫を取り除いただけでは回復していないように見える。とりあえず身を反転させ、ライトをあて口腔を診る。


 咽喉部の炎症のほかに、舌に特徴的な白いコケのような、あるいはヨーグルトのようなものが付着しているのが見えた。ライトを消して患者の顔を正面から観察する。額から頭皮にかけて、黄色い瘡蓋のようになった皮膚が見て取れた。


「カンジタ口腔炎、脂蝋性皮膚炎……」


 口の中で、薬王木はそれらの症状を呟いた。当然、患者と付き添いでやって来た少年には聞こえていない。説明は後にすることにして、彼は聴診器を取り出して患者の胸にあてた。


 予想通り、呼吸に混じって肺、あるいは気管支の中から風が吹くような音がしている。


「背中にウジが涌いたのはいつですか?」


 再び診察台の上に転がった少年に問いかければ、少し考えるような素振りの後で、軽く頭を振って答えた。薬王木は、その反応を分からない、という意味に解釈することにした。


「頭痛はしますか?」


 この質問には、患者は頷いて答える。


「背中の患部のほかに、痛む場所はありますか? 例えば、咳をする度に胸のあた

りが苦しくなるとか」


 再び首を縦方向に動かした少年を見て、薬王木はひとり得心がいったように幾度か頷いていた。患者に何と言おうかと逡巡した時、付き添いで来ていた金髪の少年と目が合ってしまった。


 こういう時、咄嗟に気の利いた一言が出てこない。薬王木に課された医大生時代からの宿題は、未だに答えが見つからないまま保留にされている。


「あとで、レントゲンを撮らせてください」


 確認するように言えば、付き添いの少年の方が何度も首を縦に振ってみせる。そして思い出したように、ベッドに寝ている少年に確認し始めた。どうとでもしてくれと言わんばかりの態度で呻いている少年を見ながら、彼はネブライザーの用意を始める。


 処置室の隅に片付けられているこの機械は、患者の気管支や肺に霧状にした薬液を届けることができるというものだ。耳鼻咽喉科では御馴染みの装置であり、小児喘息などでは患者の狭くなった気管支を拡張する目的でも使用される。


 ネブライザーの用意ができれば、今度はそこに気化させる薬液を注入しなければならない。しかし、普段こういった準備は看護婦に任せきりである上に、なかなか使う機会がない薬剤であるため、ところ狭しと同じようなパッケージの薬剤が並ぶ棚の中からベナンバックスを探し出すのに余計な時間を取られてしまった。


 点滴に使うごく一般的な電解質輸液ソルデムが並べられた棚の一角をチラリと見やった後、薬王木はようやく見つけ出したベナンバックスを、日局注射用水と一緒に持ち出し、セットした。


「敗血症かどうかは、検査結果を見なければ何とも言えません。ただ、背中にウジが涌くというのは、それだけで普通ではないです。それに、目に見えるからと言って簡単にウジを取り出したりしたら、それが原因で……」


「敗血症になるっていうんだろ? 知ってるよ。できるからやったんだ。それに……」


 何かを言いかけた少年は複雑そうな表情で唇を噛むと、そのまま黙り込んでしまった。ネブライザーを起動させれば、ホースの先から霧状になった薬液が噴射され始める。咳の合間に吸入を始めた患者を見やり、薬王木はまだ患者の名前すら聞いていなかったことを思い出した。


「佐々木直人。家はこの近く」


 ネブライザーで吸入中の患者の代わりに答えたのは付き添いの少年の方だった。


「保護者の方に、連絡は付けられますか」


 聞けば、今度は患者本人が深刻な眼差しで首を振る。事情がありそうだというのはすぐに分かった。今すぐにどうこうという問題ではないため、薬王木はそれ以上、込み入ったことを聞くのはやめて置いた。


 ネブライザーが終了するまで十分近くある。もしも再診であれば、パソコンの中にデータが残されているはずだ。薬王木は既往歴などを調べてみることを思い立ち、席を立った。


「診察室にいます。何かあったら呼んでください」


 そう言った後で、患者と同じくらい疲れきった顔をした金髪の少年の姿が視界に映った。


「付き添いの方、よかったら隣のベッド使ってください」


 意外そうな顔でこちらを見たその表情が歳相応で、薬王木は意図的に笑顔を作った。


「他に誰もいませんから。気にせずに」

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