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矢沢がタバコ臭い署内に戻ってきた時、時計の針は午後十時を少し回ったところを指していた。まだ署内に残っていたらしい黒木が、気を利かせてお茶菓子とコーヒーを出してくれた。
最近は、こういった警察官のちょっとした息抜きに使われる経費が用途不明だという理由でマスコミに叩かれるようになってしまった。内勤の者やキャリアの出世組とは違い、矢沢のような現場の刑事は一日中、靴の底をアスファルトにこすり付けているのだ。こんなささやかな出費まで監視されれば息が詰まりそうになってしまう。
「どうでした?」
胸ポケットからタバコを取り出して火をつけていた。
「いや、なんつーか、オバサンの執念を改めて実感したっつーか」
矢沢は一連の出来事を思い起こしながら、口元を僅かに引きつらけたところで、黒木が流れるような優雅な仕草で彼の正面に腰をおろした。
「要は、もともといがみ合ってたんだよ。ヒョウ柄とトラ柄のオバサンが。そんで、ついに臨界点に達してだな、掴み合い、引っ掻きあい、罵り合い、呻き合いに発展した、と。で、どうしようもねえってんで、店主が警察に助けを求めたってワケさ」
歯切れの良くない口調で語る矢沢に視線を向けて、黒木は小さく溜め息を落とした。
「店主が警察に通報しようと思うくらいだから、よほど激しかったんでしょうね」
彼女に言われ、矢沢は苦笑いを浮かべてコーヒーを流し込む。
「事情聴取したんだが、三時間くらい一方的に喚かれちまってね。そんで、まだ喋りたりねえんだか知らんが、傷害事件で起訴するとか言い出して……。多分、おそ
らく、およそ……本人の企画倒れに終わると思う」
「それはまた大変でしたねえ」
白い肌に艶やかな黒い髪。そして淡い赤で飾られたその唇が優雅に微笑みを刷く様を目の当たりにして、矢沢は先ほどまで目の前で喚いていた中年の女性と黒木が同じ人間の「女」という種類で一括りにしていいものかと真剣に考えていた。
「そう言えば、白バイ警官が言ってましたよ。信号無視でおばちゃんを捕まえたら、逆に二時間ほど捕まったと」
黒木の話に、矢沢は小さく声を上げて笑った。
「喧嘩の原因は何だと思うよ。それぞれが愛飲してる健康食品があって、どっちが一番効果的かでバトルになったんだと」
「まあ、それだけじゃあないでしょうが」
繰り返されていく日常で積み重ねられたものは、些細なきっかけで爆発するものだ。黒木が言いたいことは分かるが、彼女らの独自論を延々と聞かされ続けた矢沢としては、愚痴のひとつも零したくなる気分なのだ。
「最近は、どのチャンネルでも一日一度は、健康食品を宣伝してる気がするな」
コーヒーを口に運び、矢沢は溜め息交じりに呟いた。
「町のドラッグ・ストアも店をあげてサプリを売ってるし、勧誘の類も凄まじい。もともと極端から極端に走る性質があるせいかなあ。最近じゃあ健康のためなら死んでもいいなんて本気で言い出す連中までいるときてる。何だか、妙な気分だ」
「日本人はマジメなだけです。積極的に健康食品や健康器具を日常生活の中に取り入れて予防医療に努め、その結果、医療費を抑制したくて仕方ない厚生労働省に貢献しているんですよ」
矢沢は何ともいえない顔で黒木を見やる。彼女はさも当然とばかりに頷いて見せた。そこへ、矢沢と一緒に鎮圧に赴いた早乙女が、彼と同じく疲れた表情でやって来た。
「この先、何があってもおばちゃんだけは敵に回したくないですわ」
自分で買ってきたらしい缶コーヒーのプルタブを引きながら、早乙女は魂が抜けたような顔で空中を睨む。
早乙女は子供のころ、バイクに乗って悪を成敗する仮面のヒーローに憧れた。その影響で、彼は二輪車に特別な感情を持つようになった、と語ったことがあった。
そしてリーゼント全盛時代、盗んだバイクで走り出したい欲望を必死に抑え、ヒーローの面影を白バイに重ねた彼は、身内の勧めもあって警察官への道を選んだ。
日々の任務を血眼でこなしていた彼の噂は矢沢の耳にも届いていたのだが、ふと気が付いたとき、早乙女は交通課を離れて捜査一課へと転属してきていた。どうやら推薦状が取れなかったらしい。世にも不思議で珍妙な刑事である。
「それはともかく、無駄足に終わっちまったな」
矢沢の呟きに、早乙女の顔色が一層悪くなってしまった。自分が愚痴を零せば部下の士気に影響する。言ってしまった後で、はっとした。矢沢は折り曲げた人差し指の背で眉間を押さえていた。どうしようもない現実の壁に直面する時、矢沢が無意識にしてしまう癖だった。
「田中邦彦さんの件は、やはり何も出てこなかったんですね」
気遣うような声がかけられる。娘ほども歳の離れた異性に心配されていると思うと、何ともやるせない気持ちになる。彼は無理やり笑顔を作った。
「分かったことと言えば、田中邦彦って名前の七一歳のじいさんが、半年前に風邪ひいて薬王木医院に行ったらしいってことだけだ」
投げやりとも取れるそんな言葉を聞いて、早乙女は小さく笑い声を上げた。
「大した情報は得られないだろうと知ってて、敢えて聞きに行ったんじゃなんですか? 捜査の基本は足。矢沢さん、いつも言ってるじゃないですか」
紫煙を吐き出し、吸殻を灰皿に押し付けながら、空中をじっと睨んだまま矢沢は無言で首を振る。アメリカの刑事たちはストレス発散のために押収した大麻などの麻薬を嗜むのだという。日本の警察が同じことをすれば懲戒免職では済まないだろう。
だが、どうにも溜め込みすぎたストレスの発散場所が必要だ。彼の場合はタバコ。早乙女の場合はツーリングだった。
「せめて、チラッとでもいいから中が見えりゃあなあ」
「CT検査とか、MRI検査のことですか? 誰が金を出すって言うんですか。無理っすよ」
矢沢のぼやきを、早乙女が笑いながら一蹴してしまった。
「本庁のお偉いさんたちは日本警察は優秀だから事件性のあるなしの判断をミスることなんかないと断言してらっしゃいますしね」
黒木まで早乙女に加勢した。矢沢は苦笑いを浮かべる。
腐敗がかなり進行した遺体を前にして、事件性のあるなしを体表面から判断しなければならない、というこの現実。更に、打撲傷などにより死亡した場合、死亡直後の体表には痕跡が現れないことは実によくあることだ。
被害者がどこの誰かさえ分からない状況で、さしたる傷跡も見当たらない遺体を前に、警察官は事件性の有無、その判断を迫られる。刑事ドラマでよくあるように、遺体そのものや現場にささやかでも事件性が示されていればいいが、現実はそうそう都合がよろしくはない。
事件性がなしと判断されれば遺体は警察医の判断に委ねられる。そこで遺族に行政解剖の承諾をお願いする場合もあるが、たいていは拒否される。
そして警察医は適当な病名を、死亡診断書という文字を五字抹消した遺体検案書に書き入れざるを得ない。
ちなみに、現在の日本では事件性があると判断されて、司法解剖に回される遺体は年間五千体前後となっている。おそらく、今年度もまた五千体前後で処理されるだろう。
「たまに思うよ。日本ってのは、犯罪が少ないんじゃなくて、犯罪が見逃されてるだけなんじゃないかってね」
嘲笑を含んだ声で言えば、早乙女が釣られたようにニヒルな笑みを浮かべてみせた。
「ついでに言うなら法医学者の数も少ないですからね」
「お二人とも、お願いですからそういうことを美人キャスターに喋らないでくださいね。たとえ魅惑的な穴をチラつかされたとしても」
言いながら、黒木は何でもない顔をして両手で持った湯のみを傾けていた。男二人が微妙な笑いを浮かべる中、彼女はふいに表情を引き締めた。
「死の労働者が、掟を破っていた……」
現場で矢沢が口にした言葉を反芻し、彼女の視線が自分に止まる。矢沢は取り出したタバコに火をつけた。
人が死ねば、まず最初に筋肉が弛緩する。肛門括約筋や膀胱括約筋が働かなくなったせいで、そこに溜め込まれていた液体や固体が体外に排出されてしまう。その臭いを嗅ぎつけて、クロバエやイエバエなどがまずやってくる。
連中は自分が腹いっぱい食らった後、残された汚物にしっかりと産卵して去っていく。
次に体内の細菌が暴走をはじめ、死斑が顕著になったころ、その死臭を嗅ぎつけてニクバエたちがやってくる。そこにある死体を完全に骨にしてしまうまで、ハエたちは数学的と言っていいほどの正確さで死体に集まり、産卵していく。
そこにある死体を大地に返すハエ、そしてその幼虫であるウジたちは、その役割と習性から「死の労働者」と呼ばれている。
そして彼らが繰り広げる正確な晩餐を「死の労働者の掟」と呼び、集まっているハエの種類や、幼虫、蛹を分析することで、死亡時期を逆算することができる。
田中邦彦の死体には、大量のウジが涌いていた。
ところが、そこにいたのは種類不明のウジだけで、まず最初にやってくるはずのクロバエやイエバエの蛹が全く見当たらなかった。死体の周囲を飛んでいたのは赤い目に緑色の体が特徴的なキンバエで、彼らはどこか申し訳なさそうに、お零れとも言うべき床のシミを舐めていた。
室内は密閉されていた。加えて今は冬。どんなに暖かい日でも気温が十五度を超えることはない。ウジの活動が最もさかんになるのは二十度以上が必要だ。それにも関わらず、遺体はまるで真夏の山中に数日放置されたかのような、そんな有り様だった。
「だが、この件についてはこれで終わりだ」
できることが少ない中で、やるべきことはやった。矢沢は今回のことを脳内メモリーの大半を食っている「未解決事件ファイル」に仕舞い込み、気分を変えるために盛大な音をたててコーヒーをすすった。
そんな彼を黒木と早乙女が何ともいえない顔で眺めていたが、二人ともやがて諦めたように視線を逸らした。
「それにしても、最近は孤独死が増えてるなあ。これも時代の流れってヤツかね」
「少子・超高齢社会だから、ですよ。そんな風に感じるのは矢沢警部が加齢を実感しているからでは?」
黒木に当然のように言い放たれて、矢沢はただ苦い顔をした。