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 窓の向こう、立ち並ぶ家々の屋根の上に、今にも泣き出しそうな空が見える。厚く垂れ込めた雲に覆われた空は低く、高い場所に上れば手に取ることができるのではないかという錯覚を未だに覚える。


 薬王木秀俊は、そんな自らの子供じみた思いつきを軽く笑って、窓を背に伸びをした。時刻は午前八時前。そろそろ本日最初の患者を診察する時間だ。


「晴れていると、気持ちよく一日が始められるんだけどなあ」


 自分自身の力が決して及ばない天気というものに愚痴を零してみつつ、彼は座りなれた革張りの椅子に腰をおろす。さっそく、看護婦から一人目の患者の名前が告げられた。スリープ・モードになっているパソコンを起こし、名前が挙げられた患者のカルテを呼び出した。


 ざっと目を通す。患者は顔なじみの六七歳の男性だ。高血圧の治療のために、慢性的にARBを処方している。


 このARB、正式名称は「アンギオテンシンll受容体拮抗薬」と言い、血管収縮や体液の貯留、または交換神経活性亢進を抑制することによって降圧作用を生じる。この薬には、心臓と腎臓を保護する作用も含まれていて、利尿剤と併用することにより相乗効果を臨める。そのため、しばしば二つを処方していた。


「先生、もうそろそろ薬を止めたいんですけどね」


 挨拶もそこそこに、やって来た患者はそんなことを言い出した。薬王木はこんな時、いつも思う。目は口より雄弁に語る。彼の後ろに控えている看護婦が一瞬、またか、という顔をする。


「今の薬を飲み始めてもう三年になりますよ。だけど、一向に血圧は下がらんと来ている。薬代だってタダじゃないんだ。それに、民主党がジジババいじめの制度を作ってくれたおかげで、こっちとしては毎月毎月、食っていくのもやっとの状況なんですよ。まあ、先生に言っても分かってもらえんと思いますがね」


 後期高齢者医療制度を導入したのは民主党ではなく自民党だ。民主党はそのマニュフェストの中で制度を撤廃すると公約していたのだが、政権奪取後、早々に撤廃をあきらめた。


 しかしながら、薬王木としてはこのあたりを訂正する気にはなれなかった。患者にとっては、誰が作った制度であるのか、ということはあまり関係ない。


「お気持ちは分かりますが、高血圧という症状は様々な原因が絡んで起きる病気です。お出ししている薬は、高くなった血圧を下げる効果はありますが、血圧が高くなる原因そのものを治療するものではないんです」


 患者と言い合う気はない。だが、医師として「はい、そうですか」と投げ出すわけにもいかない。しかしながら、患者が次に言うセリフは百パーセントに近い確立で決まっている。


「そんなことは分かってますよ。要は、先生じゃあどうしようもないってことでしょう? だったら、治せる医者がいる病院に紹介状を書いてくださいよ」


 薬王木は溜め息を隠せずにいた。一進一退ならぬ半進一退の持病を抱える患者。その意識の根底に存在しているのはなかなか治らない病気への苛立ち、あるいは恐怖に他ならない。


 ついでに、決して満足いくものではない日々の暮らしや人間関係への不満が渦巻いているものだ。そういった感情が矛先を変えて、自分が望む形で病を完治させることができない医療従事者へ向けられる。最近では、どこの病院でもありふれた話だった。


「では、県立の総合医療センターに紹介状を書きましょう」


 県下の大病院の名を上げれば、患者は見るからに満足そうな顔で頷いた。彼のような患者は大抵、大病院への紹介状という形でそれ以上の文句を引っ込める。


 今更、何かを言うつもりにはなれない。患者を減らせば、父である院長にいい顔をされないことは間違いないだろう。


 しかし、最初から自分の望む答え以外を受け入れるつもりがない患者相手に言葉を尽くせる気力は、持ち合わせてはいなかった。


 これから彼は、高血圧の治療薬を受け取るためだけに、五時間待ちの三分診療を月に一回のペースで受けることになるだろう。だが、それを本人が望んでいるのだから、薬王木が口出しするようなことでもない。そう割り切るしかない。


「では、お大事に」


 形ばかりの礼を言い、足取り軽く診察室を出て行く患者の後姿を見送り、彼は電子カルテに総合医療センターへ紹介したという旨を短く書き込んだ。


「何を勘違いされているんでしょうね」


 患者の気配が遠ざかった後で、控えていた年配の看護婦が呟くように言って来た。薬王木は困ったような笑顔を浮かべてみせる。彼なりに言いたいことや、考えていることが無いわけではないのだが、下手に反論するといろいろ面倒だと経験上、知っている。看護婦を敵に回して勝利した医者など存在しない。


「個人病院を経営している医者は信用できなくて、大病院の医者は信用できるっていう根拠は何なんでしょうねえ。ころころ病院を変えても初診料が高くつくだけだと思いますけど」


「患者さんなりに根拠は持っているんだと思いますよ。たとえそれが、医療従事者から見れば呆れ返るような理由であっても」


「だからって、病院を変えたくらいで高血圧が劇的に治るなんてことはありませんよ」


「まあ、そうですけどね」


 病院勤務医が殺到する外来患者の診療に忙殺されることを防ぐため。または重症患者のふるいわけをするためという理由で、大病院と個人病院の役割分担は明瞭だ。そのため大病院の初診料は個人病院からの紹介状がない場合、割高になるよう設定されている。


 政府としてはイギリスのように「家庭医」という制度を導入し、毎年拡大する医療費を抑制したいという狙いがあるのかもしれない。日本では馴染みのない「家庭医」という言葉の代わりに「かかりつけ医」という言葉を持ち出してきたとしても、実際に診療を受ける患者の意識が大病院思考であれば、あまり意味がない。


「民主党が政権を取ったときに、仕分け、仕分けってかなり持て囃された時期があったじゃないですか」


「ああ、ありましたね」


「それで、個人病院の医師が勤務医よりも所得が多いのはおかしいとか、そんな話になって」


「そう言えば、診療科目によっても所得の差があるのはおかしいとかそんな話になってましたね」


「私ね、そのニュースを近所の大谷の奥さんと一緒に見てたんですよ。で、勤務医と個人病院の医師が同じ給料だったら、個人病院が潰れてしまうって言ったんです。そしたら大谷の奥さん、個人商店が無くなったらショッピングモールに行くから別に困らないって。そんな風に言ってのけたんですよ。笑いながら」


 言葉に熱がこもる看護婦を見やり、薬王木は声をあげて笑う。憤慨した顔で更に何か言い募ろうとする彼女を軽く宥めて、次の患者の診療を始める準備を始めた。


 ひとりの患者を失ってしまった薬王木医院だが、待合室の置かれたソファは大半が温まっているのだ。無駄話をしていれば昼休憩時間が無くなってしまいかねないのである。薬王木は気持ちを切り替えて、次の患者の名をコールした。


「さっきの患者さんは、まだマシですよ」


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