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5(グロ注意)

「調子悪ぃ……」


 消え入るような声が鼓膜を刺激して、啓介は見るともなしに眺めていた雑誌から視線を上げた。部屋の主である佐々木直人が、やや前屈みになりながらベッドの方へ歩み寄っていっている。


 彼は煩わしそうに掛け布団の上に投げ出されている雑誌や漫画を床に放り投げると、そのまま突っ伏すように横になった。


「何だよ、直人。食あたりか?」


 からかうような声がかけられ、同時に笑い声が巻き上がる。テーブルにタンス、ベッドが置かれた狭い部屋は、石油ファンヒーターと六人の男女が発生させる二酸化炭素、そしてニコチンで随分と空気がこもっていた。


「大丈夫か?」


 青白い顔をしている直人を眺めつつ、啓介は一度換気でもしようかと立ち上がる。しかし、窓辺に到着するまでもなく派手な化粧の少女たちから「寒い」という抗議の声が上がり、啓介はあえなくその行動を断念させられてしまった。


「風邪でもひいたんか?」


「うるせえ。ちょっと寝る」


 啓介の言葉を適当にあしらって、直人は掛け布団の上でそのまま目を閉じてしまった。直人の口からはひっきりなしに渇いた咳が飛び出し、額には汗の粒が浮かんでいた。


 随分と顔色が悪く見えるのは、普段以上に肌が荒れているせいだ。本人の言葉通り、彼はまさしく病人そのものである。


 部屋の主である直人の体調が良くないと分かれば早々に引き上げるべきだ。だが、ここに集まっている連中にそんな常識は通用しない。直人は母親と二人でこのアパートに住んでいる。


 だが、夜の仕事で忙しい彼の母はめったに帰宅することがないため、いつしかこの部屋には行き場のない若者たちが集まるようになっていた。中学を卒業後、高校に進学することなくバイトで家計を助けるという進路を選択した直人が、仕事で部屋にいない時でさえ、勝手に上がりこんでいる連中もいる。


五人の馬鹿笑いに混じって直人の苦しげな咳が空気を振動させる。中身のない会話に加わる気になれず、啓介はベッドに背を預けて再び雑誌を手に取った。しかし、どうしても背後が気になって雑誌の内容に集中できない。


「病院行くか?」


 たまりかねて声をかけると、直人が鬱陶しげに首を振った。自分が彼の立場でもおそらく拒否する。予想通りの反応に溜め息をつきつつ、啓介は軽く頷いて視線を手元に移した。


「背中が痛え」


 咳の合間に、直人がそんなことを言い出して啓介は顔を上げる。


「咳するからじゃねえの?」


 もっともなことを言えば、直人は眉を寄せたまま軽く首を振って応えた。何となく、直人との付き合いが長い啓介は、彼が言わんとしていることを察した。


「ちょっと見せろよ」


 軽く声をかけて立ち上がると、直人が無言で頷いた。セーターの裾を掴んで、ランニング・シャツと一緒に捲りあげる。直人が体を浮かせて協力してくれたので、簡単に皮膚が露出した。


 そして、啓介は僅かに顔色を変えた。


「何だよ、どうしたんだ? 啓介の苦手なGでも出たか?」


 もともと退屈していたのか、好奇心を刺激されたらしいひとりがニヤニヤとしまりのない顔をしながら歩み寄ってくる。しかし、彼は直人の背中を見るなり、素っ頓狂な声を上げながら物凄い勢いで後ずさった。


 途端にそれまで談笑していた者たちが何事かと顔色を変える。そして我先にと直人の方へと近寄ってきて、最初のひとりと同じ反応をまるで申し合わせたように繰り返した。


「どうなってんだよ」


 周囲の反応に不安を掻き立てたられたらしい直人が体を起こしながら聞いてくる。その声音には、強がってはいるものの、隠し切れない不安が入り混じっていた。


「お前の家、ピンセットあったっけ?」


 背中の状態のことは触れないまま、啓介は静かな声音で直人に問いかけた。


「知らねえ……。何だよ、どうなってんだ」


「気にすんな。すぐ取ってやるからさ」


 啓介はセーターとシャツを下ろして彼の皮膚を周囲の視線から覆い隠すと、勝手に家捜しを始めた。部屋の隅では、五人の男女が顔色を変えて直人と啓介を交互に見やっていた。


「帰れよ。見てても楽しくなんかねえぞ」


 タンスの引き出しを漁りながら言ってやれば、彼らはそれぞれ顔を見合わせる。そしてそそくさと靴を履き始めた。


「一応、聞く。お前、最近アフリカとか行ってねえよな?」


「はあ……?」


 啓介の質問に、直人はわけが分からないという顔をした。幼馴染でもある直人が日本から出たことがないのは聞くまでもなく知っている。それにもかかわらず、そんな問いかけをしてしまったのは、直人の背中にいる生物が日本には生息していないはずのものだったからだ。


「ハエの幼虫に寄生されてる」


「は!? ハエ!?」


 予想の範疇外という顔をした直人が咳き込みながら聞き返してくる様を横目で見つつ、啓介は次の引き出しを開ける。先ほどまでの騒がしさが嘘のように、彼が立てる物音がやたらと大きく反響した。


 目的のものは、引き出しの奥深くから使いかけの化粧品とともに発掘された。タンスの上にある置き薬の箱を開けると、市販の消毒薬もあった。


 啓介はついでにそれも手に取って、空き缶や食べかけのスナック菓子とともにテーブルの上に置かれているティッシュを数枚取り、その上でピンセットの先端を消毒する。


「ハエの幼虫ってウジのことだろ? なんでウジなんかいるんだよ。俺はまだ死んでねえぞ!」


 喚いている彼をうつ伏せになるよう指示し、直人の背中の皮膚を再び露出させた。その中心よりやや上部に、ハエの幼虫が集団で蠢いている箇所がある。


 びっしりと隙間なくウジで埋め尽くされた箇所の周囲は、一部の皮膚が盛り上がっていて、赤黒く化膿しているようにも見えた。


 微かにではあるが、化膿した傷口に独特の刺激臭もしている。皮膚に穴を開け、そこに集団で寄生し、蠢きあう幼虫。海外では幾度となく目にしたことがある症例だったが、日本で見たのは初めてだった。


「生きてる人間に卵を産みつけるハエって、熱帯地域じゃあけっこうメジャーだよ。それこそ、一昔前の戦場とかじゃあ当たり前だったって言うんかな。ロクに傷の手当ができねえから、傷が腐り始めて、その臭いを嗅ぎつけたハエが来て、タマゴ産んで、ウジが涌いて。だけどウジが涌いた方が傷が早く治ることもあるんだよ」


「あんだよ、それ……」


 ごく限られた種のクロバエあるいはキンバエに限定された話だが、ウジが分泌する酵素は金色ブドウ球菌や化膿連鎖球菌に強い感受性を示す。骨の化膿、特に骨髄炎には有効に作用し、組織の再生を促す効果があることは多くの研究機関で実証済みだ。


 そしてそんなハエの幼虫の特性を利用して、糖尿病などで壊疽した皮膚を治療しようとする試みが臨床段階で導入されている。世に言うマゴット・セラピーである。


 しかしながら、今現在、直人の背中で蠢いているウジを見ていると、ウジが分泌する消化酵素に侵されているようにしか見えなかった。


「お前さ、背中にニキビとかあったんじゃねえの? こういうハエって、ちょっとした傷口に一瞬で卵を産み付けるんだ。日本にいるハエだって、すっげー弱ってる動物がいたら普通に卵とか産み付けるんだぜ? ハエウジ症っていうんだけど、知らねえよな」


 言いながら、啓介は消毒したピンセットで、慎重に一匹目のウジの体に先端をかけた。力を入れすぎても、抜きすぎてもいけない。万が一ウジの体を傷つけてしまえば、その体液が原因で敗血症を起こしてしまう可能性がある。


「明日でいいから病院に行けよ。この病気は、とにかく傷口を念入りに消毒するのが一番効果的なんだ。あと、抗生剤もいる。脅すわけじゃないけど、最悪の事態も有り得る。とりあえず、取るだけは取ってやるから」


 直人は何も言わなかった。ピンセットの先端に頭を挟まれたウジが、啓介の力に逆らえずに体内から引きずり出される。激しく身をよじらせ、逃げ出そうと暴れ回るウジを数秒ほど見つめた後、啓介は洗ったペットボトルに幼虫を落とした。


 そして二匹目のウジを取り出すために、直人の背中に向き直る。ピンセットを向けると、彼の背中に寄生している数十匹のウジが一斉に皮膚に開いた穴から身を乗り出し、まるで威嚇するように頭部を揺らめかせ始めた。


 頭の一部だけが黒い、一匹一匹が二センチほどはあろうかという乳白色のウジが、鉤状の口腔を広げながらウゾウゾと動き回っている。


 やたらと秩序だったその行動を目の当たりにして、啓介は自分の肌が粟立っているのを感じた。どれほどグロテスクな姿をした寄生虫よりも、生きた人間の皮膚から頭を出し、集団で蠢くウジの方が何倍も気持ちが悪い。


 このハエウジ症だけは、何度見ても不思議と一向に慣れることがなく、目にする度に嫌悪感を覚える。しかし、ここで放り出す気にはならなかった。


 ピンセットで一匹を摘み出せば、その周囲にいたウジたちが血が滲み出ている剥き出しの肉の奥へと身を埋めてしまう。その際に相当の痛みが走るらしく、直人が僅かに体を震わせた。


「なあ、お前さあ、梨花って子と付き合ってだろ? 最近見かけねえけど、どうなったんだ? うまくいってんの?」


 啓介は、自分自身の悪寒を悟らせないために敢えて冗談めかした口調で聞いた。何でもないという態度を取っておいたほうが、直人を不安にさせなくていいと思ったせいもあるが、ウジの動きばかり目で追っていると、その生理的に嫌悪感を覚える動きに気分が悪くなってくるのだ。


 それに、多数のウジに貪り食われて見るからにグズグズになってしまった人間の筋組織を直視しているのは辛かった。見知らぬ他人ならなともかく、相手はよく知っている幼馴染ともなればなおさら、だ。


「梨花? あいつとは別れた」


「へえ。何でまた。けっこうマジになってたじゃん」


「別に……。別れる前に一発ヤッとけばよかった。そういう意味じゃあ後悔してる」


 どうでもいいと言いたげに語りながら、直人は再び咳き込んだ。呼吸に合わせて苦しげに背中が上下している。見れば、背中の皮膚も随分と荒れている印象を受けた。それだけではない。背中一面に、蕁麻疹にも似た赤い発疹のようなものが散っていた。


「見たことない種類のウジだな。アメリカオビキンバエに似てるような気もするけど、それにしては……。成長させてみないと特定できないか」


「何でもいいから、早く取ってくれ」


 ハエの幼虫が半分ほど背中から除去されると、ウジが潜んでいた皮膚の様子が鮮明に確認できるようになった。筋組織が食い荒らされて滅茶苦茶になっている。それぞれのウジが掘った穴が複雑に皮膚の下で絡み合い、ウジが食わなかった肉の一部があちこちで垂れ下がっている箇所さえあった。


 少量の血液と、血漿が滲み出る体の奥の方に、啓介はまだ潜んでいるウジの姿を見つけた。


「部屋の電気だけじゃ奥が見えねえ。なあ、ペンライトとか……あるわけないよなあ」

 勝手に納得した後で、啓介は何か照明の代わりになるものはないか、と周囲を見渡して、自分のスマートフォンが目に入った。ライトを起動させて直人の背中を照らせば、やはり肉の中に身を埋めているウジを見つけた。


 啓介が似ていると思ったアメリカオビキンバエの寄生例では、数十匹の幼虫が十センチ以上も皮膚に穴を開けて組織を食らっていたという報告がザラにある。


 体長二センチほどのウジが無数に皮膚の下を這い回り、生きたまま肉を食われていたのだから、寄生された人間、あるいは家畜の苦痛は筆舌に尽くせぬものがある。


 直人を気の毒に思いつつ、啓介はスマートフォン片手に残りのウジを除去する作業に集中した。


「ちょっと痛いけど、我慢しろ」


 一言断ってから、啓介は背中の肉に力を入れて、奥に潜んでいるウジを搾り出す。生きたまま体を食らうウジを残すよりも、短時間の激痛の方がマシだと勝手に判断させてもらった。


 直人が呻いて身をよじるが、無視を決め込んで手早くウジを引きずり出す。ふと親友を見れば、涙目になっていた。


「もうちょっとで全部取れるから」


 言いながら、啓介はウジの動きに合わせてピンセットを僅かに揺らした。摘み出されまいとウジも必死に頭を揺らして抵抗してくる。タイミングよく頭にピンセットの先端を引っ掛けて、手早くウジを除去していく。


 直人の呼吸や、筋肉の動きに合わせて動く赤い肉の上で、まだまだウジが頭部を揺らめかせている。見たところ、寄生しているウジは一種類だけのようだ。不幸中の幸い、とばかりに、啓介は小さく息をついた。


 皮膚や脂肪に守られていない剥き出しの赤い肉は、ピンセットの先端が僅かに当たっただけで傷つき、血を流してしまった。痛いと切れ切れに訴える直人に、啓介は素直に謝った。


「だけど、我慢しろよ。まだ背中だから良かったじゃないか。中には鼻の穴の奥にウジが涌くヤツもいるんだぜ? 想像してみろよ。鼻の穴の奥の奥にピンセット突っ込まれて引っ掻き回されるんだ。ウジが涌いたままなのも辛いけど、治療の方も死ぬほど辛いぞ」


「想像したくねえよ、そんなの……」


 消え入りそうな直人の言葉に、啓介は無理やり笑い声を上げて答えた。


 最後の一匹を摘み出し、穴が開けられた背中の皮膚を市販の消毒薬で念入りに消毒してガーゼで覆う。とりあえず応急処置はこれで終わりということにしておいた。


「終わったぜ」


 せっかくだから、ということで摘出したウジが蠢いているペットボトルを見せてやると、直人は明らかに顔色を変えた。


「こいつらがお前の背中にいたんだよ」


 からかうように言えば、咳き込んだ直人が勘弁してくれとばかりにペットボトルを押しやった。彼は疲れきったような顔で、掛け布団の中にもぐりこんでしまう。


「人間って、予想以上に分かりやすいよな」


 しん、と静まり返った部屋を見渡して、直人はボソリと呟くように言った。どう答えていいか分からず、啓介はただ黙りこくってペットボトルを手の中で弄んでいた。

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