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 最近の病院は、順番待ちをしている患者へのサービスとして、待合室にテレビを置くのが当たり前のようになっている。


 音量を抑えた大型のプラズマテレビの画面の中では、矢沢が青春時代に憧れを抱いたアイドルが司会者から振られた話題に笑顔で受け答えをしていた。同年代にしては綺麗なほうだ、と思う。


 しかしながら、整形と化粧では誤魔化しきれない顔のシワやタルミがどうしても目についてしまう。自分の脳内メモリーに刻まれているアイドル時代の面影と今現在のその姿を否応なしに比べ、その後、矢沢は自分自身もまた年を重ねたことを実感した。


 こんな時、身勝手だとは知りつつも芸能人はいつまでも若々しくあってもらいたいものだと思う自分がいる。自分自身の加齢というどうしようもない現実を突きつけられるのは、避けられないと分かってはいても決して気分の良いものではない。


「矢沢さん、お待たせいたしました」


 軽くため息を落とした時、診察室から白衣を着た三十代の男が顔を覗かせた。柔和な笑顔、穏やかな物腰、出会ったのは十年も前のことだが、薬王木医院の副院長を勤める医者はいつも変わらぬ態度で矢沢を出迎える。


「いつも悪いね、先生」


 磨きこまれたガラスの向こうは真っ暗で、患者のいなくなった待合室を鏡のようにはっきりと映し出していた。そこに、目の下にクマが浮かべ、中年太りしながらもどこかゲッソリして、見るからに不健康そうな男が愛想笑いを浮かべているのが見える。それが自分だと思うと、どこかやるせない思いに襲われる。


 一方、薬王木はさすがは医者と言うべきか、顔色もよく余計な脂肪が付いている様子もない。


「どうぞ奥へ」


 薬王木は笑顔のまま、矢沢を奥にある応接室へと促した。気を取り直すように深く息をして、彼はその背に従った。


「誰もいない病院ってのは、どうも不気味で好かんですわ。この雰囲気には何度来ても慣れそうにないなあ」


 勧められるままソファに腰を下ろすと、自らコーヒーを淹れに立った薬王木が声を上げて笑った。


「ここはまだマシですよ。勤務医をしていたころには、怪談話には事欠かなかったですけど」


「無人のベッドからピンポンが鳴るとか、夜中に見回りしてると追いかけてくる足音がするとか、そういうヤツですか」


「そうそう。看護婦の間では定番ですよ。死亡退院された患者さんの姿を見たとかいう話もありましたね」


 矢沢は軽く笑い、薬王木が淹れたコーヒーを受け取った。お茶菓子として出されたのは、矢沢が手土産としてここへ来る途中に買ってきた和菓子だ。


「それで……」


 餅入り最中の小豆に束の間の安らぎを与えられた後、矢沢は会話の合間に生まれた一瞬の空白を境目に、僅かながら居住まいを正した。


「こちらの患者さんにですね、田中邦彦という名前の人がいたはずなんですよ」


「田中邦彦さん」


 矢沢の口から出た名を反芻し、彼は小さく断りを入れてから席を立った。薬王木は矢沢を一人応接室へと残したまま、隣の診察室へと向かった。


 なんとなく、矢沢は部屋を見渡した。豪華に生けられた花と、それを飾る上品な花瓶。壁にかけられた風景画、重厚だが嫌味のないテーブル。何もかもが、自分の家とは縁遠いものばかりである。


 オークのコーヒーテーブルに置かれたガラスの灰皿をちらりと見やり、彼は胸ポケットからタバコを取り出し火をつけた。吸殻がたまっていない灰皿というものを最後に見たのがいつだったのか、思い出すことができなかった。


「お待たせしました。田中邦彦さんですが、最後に診察に来られたのは半年前です。風邪をひいて咳がとまらないとのことで」


「風邪、ですか」


 戻ってきた薬王木は、元通り矢沢の前に腰をおろし、湯気が薄くなったコーヒーを手に取った。


「それ以前となると、二年近く前のことになります。その時はインフルエンザに感染されていました」


「そうですか」


 薬王木が告げた言葉に、矢沢は複雑な気分を味わった。田中邦彦は一週間前には元気な姿を確認されている。半年前に風邪をひいていたという事実が、今回の死因に影響しているとはとても考えられない。矢沢は、意図的に組んだ指先から力を抜いた。


「ついでということでお伺いしたいんですがね」


「何でしょう」


 矢沢は軽く息をつき、ほんの少し視線を宙に漂わせた。薬王木は何も言わない。こんな時間にもかかわらず、一日の疲れを感じさせない柔和な雰囲気を保ったままだ。


「何と言いますか、人間にしろ動物にしろ、死んだまま放置されりゃあ腐るでしょう? そんで、腐る時には、だいたい世間一般に言われている通りの腐り方をするもんじゃないですか。腐り方がいつもと違う場合は、どういう状況が考えられますか? 先生なりのお考えでけっこうなんで」


「いつもと違う腐り方、ですか」


 薬王木が表情を変えた。それまでずっと穏やかな表情を浮かべていた彼だったが、矢沢の質問を受けて、眉間に微かな皺を刻む。


「一概には何とも言えませんが、腐敗現象というのは、環境による影響が大きいということは記憶しています。実際に見ていないので、断言はできかねますが……」


「なるほど」


 矢沢は特に表情を変えることなく灰皿に灰を落とした。一瞬、すべての音が途切れたような空白が二人の間に生まれた。薬王木は視線を膝に落とす。


「すみません、僕は、法医学に詳しくないもので」


「いえいえ、大変参考になりました」


 慌てたように作り笑いを浮かべて、矢沢はその場を取り繕った。 


 薬王木医院の跡取りは、いつ来ても腰が低く、そして礼儀正しい。


 田中邦彦の死について、警察は事件性なしと判断した。そして彼の遺族は行政解剖を拒んだため、警察医は苦肉の策で急性肝不全という文字を死亡診断書に記載した。


 よって、かつてこの病院に通っていた田中邦彦という名のひとりの人間の死については、正確には不明ということになる。しかしながら、これ以上、薬王木の時間を拘束するのは無意味だ。


「わざわざ、ありがとうございました」


「いえ、お役に立てませんで」


 矢沢は短くなったタバコを灰皿に押し付け、身を起こす。つられて立ち上がった薬王木が深々と彼に向かって頭を下げる様を見て、彼はいつもながら感謝と、そしてささやかな罪悪感を覚えていた。


 医者には守秘義務がある。例え警察と言えど、裁判所が発行した令状もなく医者から患者の情報を聞き出すことはできない。今夜の会談は誰の目にも触れていないし、耳にも届いていない。


 そういうこと、だ。


 矢沢は、薬王木のこういったところには、非常に感謝していた。

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