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「なんだか、妙な世の中ですね」

 入院患者も、容態が安定している中島だけとなった。ここ三日間の激務から開放されたせいか、薬王木は特に理由もなく彼の回診に時間をかけていた。


 世間話をしていた際、相変わらず消される気配もないテレビから、寄生虫事件の特集が流れてきて、薬王木は無意識に口をつぐんでいた。


 釣られたように、中島も無言になる。コマーシャルの明るい音楽が流れ始めたころ、中島の重い口調が鼓膜を振るわせた。


「妙な世の中と、言うんでしょうか」


 困ったように呟く薬王木をチラリと見やり、中島は苦笑いを浮かべてみせた。


「そう言わずして、どう言えばいいんですか。私たちの年代の連中は、子供のころ虫にかかってるのが普通だったんですよ。虫だって立派な生き物です。もともと人を殺す生き物ではないものを、わざわざそういう使い方をするのかと思うとね。なんだかやりきれないと言いますか」


 言いながら、中島はチャンネルを変えた。今が旬のお笑い芸人が多数出演しているバラエティ番組。スピーカーから流れてくる笑い声が、白々しくさえ感じられた。


「判断の基準は、何なんでしょう」


 笑い声の合間に、中島がそう聞いてきた。質問の意図がいまいち掴めず、どう答えたらいいものか逡巡していると、彼は小さく笑った。


「やはり、虫を殺人事件の凶器に使うような人間だから、他人を判断する基準は、自分の役に立つかどうか、なんでしょうか。なんだか、それは考え方の幅が狭いように思いますね」


「そう、なんでしょうか」


「断言はできませんがね。ただ、自分が思っているよりずっと世界は広いし、人も多い。自分を中心に据えた考え方では、世界の一握りさえ理解できないものだと、私はそう思います」


 笑いながら、中島は頭をかいた。


「入院してると暇になっているせいでしょうかね。そんな当たり前のことを思い出してばかりいるんです」


「よく、分かりません」


 素直に疑問を口にした彼を、中島は不思議そうに見上げる。


「人間にとって自分というのは、世界の中心じゃないんでしょうか。自分が死ぬということは、その人にとっては世界が消滅してしまうのと同じ意味でさえ有り得るような気がするんです。だからこそ、死というものが何より重い、というか。結局、自分を中心に据えていないと何も見えないと、僕はそんな風に考えています」


 薬王木のささやかな反論を、中島は穏やかに笑って受け止めた。


「そんな難しいことじゃあないんです。相手の立場になってものを考える。それだけの話ですよ」


 中島の言葉がストンと音を立てて胸の中に落ちていった。呆けたような顔をしていた薬王木を見やり、中島は布団の上で両手の指を組んだ。


「簡単なようで、意外と難しいものですよ。特に、疲れていたり、切羽詰っていたりする時は。現代人は現実を生きることが精一杯すぎるようですから、余計に人と人との距離が開いてしまうのかもしれませんね」


「人と人との距離、ですか。近すぎればトラブルになる。遠すぎれば孤独になる。僕は未だに、ちょうどいい距離というものを計りかねています」


 苦笑しながら言えば、中島は最もだと頷いた。


「この世で最も人付き合いがうまいのは、詐欺師ですよ。きっとね」


 薬王木は得心したように笑う。そして一言告げて、その場を後にした。


 暗い廊下が横たわっている。非常口の赤が、妙に目に痛かった。赤い色は、血を連想させる。


 真夏のある日、薬王木医院を訪ねてきた老齢の女性は全身のいたるところにひどい内出血を起こしていた。特に顔面は、骨折していてもおかしくないほどの有様だった。


「死にたい」


 彼女は切実に訴えた。


 長年にわたる夫からの暴力。貯金が無くなると同時に足が遠のき始めた子供たち。常軌を逸した言動を繰り返す親戚。毎日のように、保険料の取立てにくる役場の人間。少ない年金。病院にかかれない。


 彼女の言葉は、涙に溢れていた。


 同じころ、母親に付き添われて三十代の男がやってきた。無職。風邪をひいたとのことだが、咽喉部の炎症からくる発熱。


 所見はそれだけで、特に重症化しているようには見えなかった。むしろ、母親の方が重症に見えた。聴診器を当てていなくとも、肺から風が吹くような音が聞こえてくるのが分かる。


「お母さんも一緒に診察しましょう」


 薬王木の言葉を遮ったのは息子だった。


「金がねえんだとよ。ほっとけ」


 愕然とする薬王木の横で、母親が小さく呟いた。


「産まなければよかった」


 テレビをつければ、華やかな世界が幕を開ける。街に出れば、あらゆる物が溢れている。よほどの田舎でもない限り、周囲には人間がたくさん生きている。


 言葉を交わし、体を触れ合う。世界でも有数の豊かな国、日本。


 街路樹が色づく季節、風邪をこじらせた老人がやってきた。高度成長期を支えた世代。仕事に命をかけてきた、その人生。退職と同時に用済みとなった。


 海外では優遇されている技術者。この国ではどこまでも冷遇され、そのくせ高い理想を押し付けられる。


 技術の流出を防ぐ手段が忠誠の押し付けとは、いったいいつの時代の考えか。居場所を失くした老人は、ひたすら安らぎの死を求めていた。


 彼の人生に、自分を重ねた。マスコミで取り上げられてから、世間の関心は激務に悲鳴を上げている医療関係者に向けられた。


 声高に医療崩壊が叫ばれてから、出版された書籍も多い。誰もが、政府の無為無策ぶり、愚策を攻める。


 けれど、現実は何も変わらない。すべてが茶番劇だ。八百長だ。国会議事堂の討論も、最初からシナリオが書かれているのだ。それを真剣に眺めることに、何の意味があるというのか。薬王木は軽く手の平に爪をたてた。


 無人の診察室に入り、イスに座って項垂れる。国際化とやらの影響で、彼の前に座る者たちの権利意識は高まった。悪いことではない。結果、患者の前で医者は食い荒らされる立場になった。


 病状を説明しても分かってくれない。分かろうともしない。約束は守らない。守ろうともしない。薬を正しく服用してくれない。そのくせ病状が回復しないと訴えてくる。


 素人同士で勝手に薬を回し、副作用に襲われて駆け込んでくるという例もあった。そして薬王木を攻めるのだ。


「どうしてこんなに危険な薬を出したのか」


 飲み合わせ、個人の病状。そういったことを説明しても無駄だった。患者とその家族は烈火のごとく怒り狂い、その結果、薬王木は総合病院を去ることになった。


 弱者の権利意識ほど恐ろしいものはない。医療という専門分野を前に、患者は否応なく弱者となる。医者と患者。相反するふたつの立場を正常に機能させるのは、信頼関係という目に見えないあやふやな感情でしかない。


 治療はいつだって無痛ではない。薬は必ずしも美味ではない。当たり前のことが、理解してもらえない。


 医者には患者の痛みを理解することはできない。同時に、患者もまた医者の苦悩を理解することはできない。縮めるべき距離が、縮まらない。        


 問答無用で強者の立場に置かれた医者。強者である以上、求められる理念は崇高で、非人間的でさえある。それに少しでもそぐわない者は途端に冷遇されてしまう。


 薬王木は頭を抱えた。そこへ、背後から看護婦が声をかけてきて我に返った。


「先生、お客様です」


 何となく誰が来たのか察しがついた。苦笑を浮かべた後、薬王木はゆっくりと立ち上がった。


 照明の落とされた廊下を進み、看護婦に言われた通り一階にある応接室へと足を向ける。時計の針は九時を回ろうとしていた。


 普通の子供が親から寝なさいと言われるこの時間、薬王木はまだ九時だからもっと勉強しろ、と言われていたことを思い出していた。


 応接室の前に立つ。いつも以上に、その扉が重厚に感じた。そんな自分に苦笑して、薬王木はノックしてからノブを回す。ソファに腰掛けて自分を待っていたのは、思っていた通り矢沢だった。


 彼の横には啓介の姿があり、その後ろには、黒木とそして面識のない刑事が二人控えていた。


「こんばんは。こんな時間にすみません。ちょっと窺いたいことがありましてね」


「矢沢さんが来るのは、いつだって“こんな時間”じゃないですか」


 笑いながら言えば、矢沢は違いない、と笑顔を返してきた。そして、薬王木は啓介を見やって安堵の表情を浮かべた。


 そんな薬王木にチラリと一瞥をくれて、矢沢は胸ポケットから一枚の紙を取り出し薬王木に見えるように翳してみせた。パソコンからプリントアウトしたらしい画像は、拡大されたらしくやたら解明度が荒い。


 だが、映っているものははきりと分かる。薬王木は、表情もなくそれを受け止めた。


「そもそも、今回の事件は睦月教授が作った遺伝子操作されたハエの幼虫が凶器として使われていたんです。問題は、被疑者がどうやってその幼虫を手に入れたのかってことでしょうかね」


 見せ付けられた画像には、バンを運転する作業着姿の男が映りこんでいた。その作業着とバンに書かれているのは、実験動物の死体処理を専門に扱う業者のロゴだ。


「大学の近くにコンビニがあるでしょう。そこの監視カメラが捕らえた映像ですよ。信号待ちをしてたんですね」


 薬王木は何も言わず、紙を矢沢に返却した。


「業者の方にも問い合わせてみましたよ。確かに、この時期に二日ほどで辞めた男がいたそうです。履歴書もちゃんと残っていましたよ。その写真がこれです」


 言いながら、矢沢はまた別の写真を見せ付けてきた。


「日本警察の強みは、科学捜査でも敏腕刑事の推理でも何でもない。捜査員たちの足です。能無しの人海戦術だとか、非科学的だとか、世間ではいろいろ言われたりしますがね。それでも私は、靴底をすり減らして歩き回り、目を真っ赤にしながら監視カメラの映像をチェックする捜査員たちの、そういう姿勢を評価したいんですよ」


 最後に、矢沢はもう一枚の書類を差し出してきた。白い紙に、無機質な機械文字。そこにただ一点、朱色の印がやけに印象的な書類だった。


「令状です、薬王木先生。署までご同行願います」


 静寂の湖面を揺らす風のように、矢沢の心が精神を通り抜けていった。波立った水面を落ち着かせるように、薬王木は一瞬、目を閉じた。


「一応、聞いてもいいでしょうか。どうして私だと?」


 矢沢の後ろに控えていた若い刑事が手錠を取り出している。その光景が、まるで別世界のように感じられた。


「それは、どっかの純粋無垢な不良少年に聞いてください」


 矢沢に言われて、彼の隣に座っていた啓介が苦い顔をした。薬王木は特に感情を波立たせることなく、少年を見る。複雑な顔で、啓介は俯いた。


「直人の、死因。多臓器不全なんかじゃない」


 ぶっきらぼうに、彼は口にした。


「それから、投薬。じいちゃんから聞いたはずだろ? 感染初期ならともかく、末期にプラジカンテルは危険だって。直人の病状、癲癇様の症状、譫妄、幻覚。そんなのが出てるときに、あんたはCT検査もせずにプラジカンテルを投薬してる」


 矢沢を見れば、彼は複雑そうな顔で自分を凝視していた。薬王木は黙って頷いていた。


「素朴な疑問なんですがね、なんで佐々木直人を殺したんですか。ついでに、あんたは入院した彼を必死で治療してる。その理由が分からない」


 沈黙の後、矢沢が溜め息をつきながら聞いてきた。啓介の表情に怒りが込み上げる。確かに、他人の彼にしてみれば素朴な疑問に違いないと薬王木は小さく笑った。


「彼を殺すつもりはなかったんです」


 事も無げに言って見せると、啓介が身を乗り出してきた。それを無言で制止したのは、黒木だった。


「私が殺したかったのは、直人くんの母親の方です」


 矢沢の表情が微かに動いた。周囲にいる刑事たちもみなそれぞれに、反応している。薬王木は自嘲した。


「死んでしまえばいいと思ったんです。けれど、あの人に渡したはずの飲料を直人くんが口にしてしまった。美容にいいから、と言い含めていたので、間違いなく彼女が飲むと思っていたんですけどね。直人くんの場合は、最後はもう手の施しようがなかった。だから、敢えて投薬したんです」


 躊躇いもなく口にした後で、薬王木は自分の手を見つめていた。目的を果たすために、自分の手が血に汚れることはなかった。


 自分はただ、ハエの幼虫が混入したペットボトルを手渡しただけだ。罪の意識があるかと聞かれれば、あまりないかもしれない。死体を見たのは直人だけだ。自分のせいで人間が死んだという実感はない。


「婚約者がありながら、若い男とみれば誰彼構わず色目を使う。佐々木敏子のそういうところが鬱陶しかった。老人たちには安らかな死を与えてやっただけの話です。世を嘆き、自分の体を恨み、周囲を憎み、他人を貶め、死を恐怖しながらただ生きる。そんな彼らは、健康にいいからと言えばすぐに口にしましたよ。そして病死というレッテルを与えてやったんです。残された家族は保険金が入って感謝してますよ、きっとね」


 誰も何も言わなかった。矢沢はきっとこういう時、説教じみたことを言い始めそうな気がしたのだが、予想に反して彼は黙り込んだままだった。


「この国に暮らす人間の頭の中は、他のどんな国の民より貧しい。意識がどん底まで突き落とされた人間のせいで、どれほどの人間が苦渋を飲み、辛酸を舐めさせられているのか。二十一世紀の世の中、テレビから押し付けられる考えは未だに封建時代のまま、変わっていない。疲れましたよ。本当に」


 吐き捨てるように言った薬王木に向かって、矢沢は一歩を踏み出した。


「俺は自分が日本人であることを誇りに思うことはないし、恥に思うこともない。俺は俺。国籍は日本。それだけだ」


 手首に感じた金属に頭の中が冷えていく感覚がした。薬王木はふと笑みを浮かべる。


「矢沢さん、あなたもそろそろですよ」


 顔色を変えたのは周囲の人間だけで、余命宣告を受けたに等しい張本人は、眉ひとつ動かすことはなかった。

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