32
やけに小さい窓だと思った。蛍光灯がついていても、灰色の部屋はどういうわけか薄暗い。
久しぶりに見た青空を懐かしく思いながら、啓介はただ視線を落とした。スチール製のデスクの上には白い紙が一枚と、灰皿が置かれている。
次から次にやってくる刑事たちがひっきりなしにタバコを吸うせいで、ガラスの灰皿はあっという間に一杯になっていった。
自分の衣服に染み付いたその臭いに気付き、彼は余計に気分が落ち込んでいくのを感じた。
「知っていることを話してくれないか」
幾度目とも知れない質問を、刑事はまた繰り返す。
「君のおじいさんは、認めたぞ」
「認めた? 認めたって何を」
ふいに刑事が口にした祖父の名を耳にして、啓介は顔を上げて聞き返す。刑事と目が合った。学校の教師の数倍はたちが悪そうだと、そんなことを思った。
「人間に感染力のあるハエを作ったことを、だ」
「そんなの今更だ。だいたいハエの遺伝子操作は別に犯罪でも何でもねえよ! じいちゃんまで逮捕されたのかよ」
質問には、無言が返された。そうだ、とも、違う、とも受け取れる。啓介は苛立たしげに溜め息を落とした。
「もういい加減にしてくれよ。知らないことは知らないんだ。知ってることは話したし、俺がわざわざ話さなくてもあんたたちはとっくに知ってんだろ。俺は知らない。本当に知らないんだ」
「嘘をつくんじゃねえ!」
項垂れた啓介に、突然、罵声が浴びせかけられた。最初のうちはその大声と迫力にびっくりしていたが、さすがに十回目ともなれば耐性もできる。
だが話に聞いていた以上に、取調べというのは精神を消耗させられるらしい。狭い部屋。閉ざされた空間。そこから生み出される圧迫感、孤独。執拗な刑事。浴びせかけられる罵声。怒号。圧し掛かる恐怖、不安。
この状態が何日も続くと思うと、それだけで陰鬱な気分に襲われた。
「佐々木直人とはどういう関係だった?」
刑事が質問の方向性を変えてきた。啓介は、思わず額を押さえていた。
「だから、普通の友達だって」
最初のうちは突っぱねていた質問も、執拗に陰惨に繰り返されると疲労が蓄積してきて本当のことをさっさと口にしてしまう。何より、早く開放されたかった。
「金銭の貸し借り、異性関係のトラブルがあったんじゃないのか」
「ない」
「だが喧嘩くらいはしたことがあるだろう」
言われて、啓介は項垂れながら拳を握り締めていた。直人の死を悼む間もなく、その死を引き起こした原因にされそうになっている今の自分のこの状況。
何度知らないと言っても刑事は聞く耳を持たない。まるで犯人であるというその言葉以外、認めないと言わんばかりの態度だ。
「喧嘩したことがあるかと聞いているんだ! 答えろ!」
「あるさ! 何度も! くだらねえことだよ! 直人がセーブしてたゲームの続きを俺が勝手にやったとか、俺が買い置きしてたカップヌードル、気が付いたら直人が全部食ってたとか、そんなことばっかりだ! そんな理由で殺したってのか!? ふざけんなよ! あんたらが思ってるような人間ばっかりじゃねえんだ! そんなくだらねえ理由で友達を殺してたまるか!」
「生意気な口をきくんじゃねえ! 知ってることを吐け!!」
声が裏返るほど叫んだその思いは、あっさりと怒鳴り声にかき消されてしまった。刑事の両手が叩き付けられたデスクの上で、ボールペンが跳ねて床に落ちる。
警察は一般人の味方で、法律は悪人を裁くものだと、そんな風に思っていた。警察が捜査をすれば、事件は必ず明るみに出る。
迷宮入りになる事件に、犯人はいない。たとえ警察が間違っても、誰かが必ずその間違いを正してくれる。思い込みとは、恐ろしい。
世界は、意外にも悪意に満ちていた。自分の足元は、気付かないうちに真綿のようなものにすり返られていたらしい。
ようやく知った。思い知らされた。自分の小ささ、集団の巨大さを。何度目とも知れない罵声を浴びせかけられながら、啓介は唇をかみ締めた。
「では佐々木敏子とはどういう関係だった」
「佐々木としこ? 誰だよ、それ」
「佐々木直人の母親だ」
ほんの僅かだが、啓介は自分の顔色が変わるのを自覚した。目ざとい刑事は一瞬の表情の変化を決して見逃さない。正面に座っている刑事が心持ち身を乗り出してきた。
「お疲れさん。進んでるか?」
取調室のドアがノックされたかと思えば、聞き覚えのあるダミ声が聞こえてきた。今朝方その声に誘導されるようにしてここに来たはずなのに、閉塞空間に押し込められているせいか、やけに時間が経過したように感じる。
何より、彼の登場によって質問の流れが遮られたのがありがたい。啓介は微かに肩の力を抜いていた。
「矢沢警部、お疲れ様です」
その顔を見ると同時に、取調室にいた二人の刑事は同時に立ち上がって敬礼した。啓介は、矢沢に向かってどういう顔をしていいか分からず、無表情のまま視線だけを向けた。
すると彼は小さく溜め息を落とした。
「そう睨むな。お前さんを任意同行すると決めたのは俺じゃねえんだから」
ずかずかと取調室の中を横切ってくる矢沢を見て、啓介の目の前に座っていた刑事がその場を譲った。
当たり前の顔をして、矢沢は体温が残ったスチールのイスに腰掛ける。刑事とは言え、顔見知りの人間が現れたことに、心のどこかで安堵を覚えている自分がいた。
啓介はそんな自分を軽く叱責するように、デスクの下で拳を握り締める。
「別に、睨んでないけど」
ぶっきらぼうに言えば、そうか、と一言返された。身振りだけで、二人の刑事に退出を促すと、矢沢はあらためて啓介と向き合った。
「さっき駐車場でお前の親父さんと会ったぞ。弁護士を雇ったと言ってた」
矢沢の言葉を聞いて、啓介は目を見開いた。
「と、いうことで、夕方にはここを出て家に戻れる。まあ、もともと任意同行だから無理やり拘束するワケにはいかないんだがな。それはともかく、警察としては時間が無くなっちまったワケさ。今のうちに聞けることを聞いておきたい」
自分でもはっきり分かるくらい、強張っていた体から力が抜けていった。意識して腹に力を込めていなければ、その場に崩れ落ちていたかもしれない。
自分の家に帰れる、という当たり前の事実が、こんなにありがたいことだとは思わなかった。
「まったく分かりやすいヤツだな。忘れるな。家には帰れる。だが、お前にかけられた嫌疑が晴れたわけじゃあねえんだぞ」
釘を刺すように言われて、啓介は気まずげに表情を引き締めた。
「聞きたいことって何? もう話すことなんかないと思うけど」
敢えてぶっきらぼうに言ってみると、矢沢はスーツの内ポケットから数枚の書類を取り出した。
「携帯電話の通信記録だ。佐々木直人の」
矢沢が寄越した書類を受け取り、視線を向けた。なぜ直人の携帯電話の通信記録を自分が、という素朴な疑問は、二枚目の書類を捲ったときに吹き飛んでいた。
啓介にとっても馴染み深い名前が並ぶ書類の下から出てきたのは、直人の治療記録だった。
「お得意のムズカシーことは言わんでいい。おかしな項目があればそこを指差してくれ。それで充分だ」
啓介は無言で渡された書類に目を通した。真剣な表情で文字を追う自分を、矢沢の刺すような眼差しが見つめていた。
無言の時が流れる。
夕方には帰れるという安堵が前提にあるせいか、こんな場所でも妙に集中できた。
順に項目を追っていく。啓介は死因の欄を指差した。
「なるほど。分かった」
直人の死は多臓器不全、と書かれている。だが、末期の段階で癲癇に似た発作が確認されていること、カリニ肺炎を引き起こしていたことからして、多臓器不全とは思えなかった。
「あとで、薬王木先生に会わせて」
啓介は書類を突っ返しながら、はっきりと告げた。矢沢は特に反応を見せない。彼は書類を元通り胸ポケットにしまいこみ、タバコに火をつけた。
「お前のじいさんがハエウジ症の治療薬を開発するとか言ってたろ。その話はどうなった」
「知るわけない。じいちゃんに聞いてくれ。どこまで進んでるのか、むしろ俺が聞いてみたい」
矢沢は、自分が吸っているタバコの煙を煩わしそうにしながら話している。なぜそこまでしてタバコを吸いたいと思うのか、啓介には分からなかった。
「なあ、じいちゃんは逮捕されたのか? じいちゃんがいなかったら、治療薬の開発が遅れるんじゃねえの」
「余計なことは心配せんでいい」
やはり、矢沢も警察官だ。こちらから情報を引き出そうとするばかりで、啓介が知りたいと思っていることには何一つ答えてくれない。少しばかり、期待を裏切られた気分だった。
「お前、治療薬っつーか、薬剤関係についても詳しいんか?」
「寄生虫の治療薬だけなら」
答える声も、どこか剣呑になる。だが、もともとこちらの顔色を窺う気などないらしい矢沢は、まるで気にした風も見せなかった。
「それで、もうひとつ。大木和成って知ってるか?」
「誰だよ、それ」
答えると、矢沢は僅かに目を細めた。
「佐々木敏子、お前のお友達の母ちゃんが愛人やってた男だ。有り体に言えばヤクザだな」
そして矢沢は、啓介に訝しげな視線を向けた。
「ついさっきもそうだったが、お前、どうも佐々木敏子のこととなると顔色が変わるよな」
表情が強張るのが自分でも分かる。当然、目の前の刑事はそれを見逃すことなどない。
「何かあるのか」
聞かれたことに正直に答えることが、自分を守る最大限の武器となる。矢沢に言われた言葉が、脳内を反芻していた。啓介は頬を冷や汗が伝うのを自覚した。
足の先から力が抜けていくような、そんな感覚に襲われる。冷たくなった手指の先が、震えていた。
「小学生のころに……」
黙ったまま自分を見つめていた矢沢に促されるようにして、啓介は消え入るような声を搾り出した。
「直人が、学校を休んで……連絡帳……」
オレンジ色の光が狭いアパートを包んでいた。ゴミだらけの散らかった部屋。テーブルの周囲に転がった酒の瓶。胸が詰まりそうになるほどの、アルコール臭。
直人の母親が、半分脱げかけた衣服を纏って寝転んでいた。やって来た啓介を見止めて、彼女はどこか毒々しく微笑んだ。
「何を話したのかは、覚えてない。ズボン脱がされて……。怖くて、嫌で、おばさん突き飛ばして逃げて……」
「そうか」
顔を歪めながらその先を言い淀んだ啓介だったが、矢沢はそれ以上は聞かずにさっさと席を立ってしまった。どうやらもう自分に用はないらしい。唖然とした顔で、啓介は矢沢を見上げた。
「これも一種の社会勉強だ。弁護士が来るまで頑張れ。俺に言えるのはそれだけだ。じゃあな」
ニヤリと底意地の悪い笑みを浮かべ、矢沢は本当にさっさと出て行ってしまった。残された啓介は、無意識に自分を抱くように回していた両腕から力を抜く。
気分は、まさしく最悪だった。




