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「まったく、冗談じゃないぞ。どうして任意同行なんか求めた」
開け放たれたドアの向こうから、不機嫌そうな声音が響いてくる。顔を見なくとも、それが誰だか分かる。村迫に食ってかかっているのは、検察官の高森だ。
「しかも相手は未成年だって話じゃないか。脅しをかけてないだろうな。前から言っているだろう! 動かぬ証拠が無いなら検挙するんじゃない!」
視覚がその姿を捉えていなくとも、高森が苛立ってデスクの間をうろついているのが分かった。
「弁護士に何と食いつかれるか分かったものじゃない。どうしてくれるんだ、まったく……」
高森の相手を余儀なくされている村迫を少しばかり気の毒に思いつつ、矢沢は足早にその場を立ち去った。時計の針が十二時を回っている。
「どうだ?」
ちょうど取調室から出てきた早乙女に声をかければ、彼は難しい顔で首を振った。
「昼食には手をつけてさえくれないです。事件に関しては知らないの一点張り。こちらが調べた以上のことは何も話そうとはしません」
「そりゃあそうだろう。実際、知らねえんだろうから」
笑いながら言った矢沢に、早乙女は苦い顔で視線を逸らした。
「まったく困ったじいさんだ。いっそ半年前の女子高生行方不明事件の時みたいに、犯人は二十代から三十代。もしくは四十代から五十代とでも言ってくれればよかったものを」
「矢沢警部」
親子ほども年の離れた若者に窘められてしまった。矢沢は軽口を止めて、表情を引き締めた。
「世間に名の知れた敏腕刑事は誤認逮捕なんて初歩的なミスは絶対に犯しませんっていうのが、そもそもの間違いなんだよな。冤罪を吹っかけられた方にしてみりゃあ、たまったもんじゃねえ話だ」
ましてや、識者として幾度となくテレビ出演している刑事であったなら、なおさらだ。いろいろな意味で「間違いでした」の一言では済まされない。
「どうするんですか」
互いに難しい表情を浮かべて黙り込んだ矢沢と早乙女だったが、先に口を開いたのは早乙女の方だった。
睦月啓介はあくまで任意同行であって、強制逮捕ではない。よって、その身柄を署内に拘留する権利は今のところまだ警察には生じていない。
何としても彼を犯人にしたい連中は焦るはずだ。取調室の中で何が起きるのか知っているだけに、矢沢は憔悴した顔で目を伏せた。
「どうするもこうするも、文句があるなら真犯人をあげてみろって話になるだけさ。ただ、警務部の連中の目が一段と厳しくなるかもしれねえな。ああ、出世に響くねえ」
早乙女がチラリと矢沢を見やり、表情もなくポケットに手を突っ込んだ。昔に比べて随分と人格がしっかりしてきている早乙女だが、不機嫌な時にはやはり素顔が現れる。
「黒木はまだ帰ってこねえのか」
「黒木? いや、見てないですが」
そうか、と短く呟き、矢沢は踵を返した。
「どこ行くんですか」
「便所だよ、便所」
面倒臭そうに言って、矢沢は勘ぐるような早乙女の視線を吹っ切った。廊下を進み、便所の前を素通りして、そのまま階段を下りる。ロビーを抜けて、なんでもない顔をしながら駐車場へ向かった。
随分と暖かい。冬の最中にこんな暖かい日差しを浴びたのは久しぶりだった。
「こんなところで何してるんですか?」
国産の低燃費車か、古い型式の車ばかりが並ぶ中、一際目立つドイツ車に近付き、矢沢は胡散臭い笑顔を浮かべながら問いかけた。左側にある運転席から、一瞬、煮えたぎるような眼差しを向けられる。
矢沢は、笑顔を崩さず、窓を開けるように促した。
「なぜ、何の説明もしてもらえないんですか」
挨拶もせず、車から降りようともせずに、取調べを受けている少年の保護者は聞いてきた。矢沢は、小さく溜め息を零してみせる。
「分かっていただきたいんですがね、たとえ被疑者が未成年で保護者の監督下にあるとしても、捜査に関する情報までは漏らすわけにはいかないんですよ。万が一にも情報が漏れれば、捜査に支障をきたす。法律上では、親が子を思う感情より、捜査上の機密保持の方が優先されるんです。それが殺人事件であればなおさらに」
「殺人事件……」
矢沢が言った言葉を反芻した睦月は、目元に燃え上がるような怒りを湛えながら口元は嘲笑するように笑っていた。
「啓介が人を殺したと? あの子にそんなことができるわけないでしょう! あんただって会ったことがあるなら分かるはずだ!」
「まさしく、虫も殺せぬ何とやらですね」
矢沢の軽い冗談は、火に油を注ぐ結果になったらしい。ハンドルを握り締めるその手が、真っ白になるほど強く握り締められ、震えていた。
「証拠はあるんですか? 何を根拠に啓介が犯人だと決め付けるんです!? 被害者は本当に殺されて死んだんですか!? 独居老人の孤独死だったって話じゃないですか! どうしてそれで殺人事件になるんですか!」
矢沢はタバコを取り出し、火をつけた。
「どうして、と言われましてもね、殺人事件を臭わせるものがあったから、そうなったとしか言いようがない。それから、証拠はこれから見つけるんですよ。本人が罪を認めてくれさえすれば、とりあえず二十三日間の拘留、逮捕、そして起訴が可能になる。事件の解明は、被告立会いのもとにゆっくりやればいい」
未成年者の場合は当然、その流れが違うのだが、睦月が特に指摘してこなかったので黙っておいた。今の状況で未成年者は優遇されることなど喋らない方がいい。指摘する代わりに、睦月は顔色を変えた。
「そんな馬鹿なことが……」
「馬鹿なこと?」
「馬鹿げてる! 殺人事件を臭わせるもの? そんなわけの分からない理由で息子を人殺し扱いするんですか!」
「そうですよ」
断言すると、睦月は目を見開いたまま硬直してしまった。
「あんただって、日本の刑事ドラマを見たことくらいあるでしょう? 死体を前に殺人だと決めているのは誰ですか? 警察官ですよ。そもそも現実に出てくる死体はいつもいつもドラマのように分かりやすくはない。殺人とも、自然死ともとれる死体の方が多いと言っても過言じゃあない」
「自分たちの無能を、国のせいにするんですか」
睦月の言葉を聞いて、矢沢は思わず噴き出していた。
「なるほど。そうとも言えますね。覚えておきます。けれど、現時点では、現実に事件性の有無を判断しているのは警察です。医者でも、法医学者でも、鑑識でもない。言わせてもらえば、どんなに有能な法医学者であっても、体表面に目立った傷など付いてない死体を前に、ただ見るだけで正確な死因を特定することなど不可能ですよ」
警察がやっているのは、そういうことだ。矢沢は意図的に唇の端をつりあげた。
「明らかな事件性があれば司法解剖に回されますがね、この国の法医学者。つまり専門家は一県につき数人、ひどい場所ではひとりか二人しかいないんです。この連続殺人事件で言うなら、最初のひとりはそのまま火葬されちまいましてね、立件が難しいんでよ。そして二人目。二人目は無理やり司法解剖に回したんだが、所見なしという答えが返ってきた。この意味、分かるでしょう?」
睦月は黙り込んだまま、見開いた目で矢沢を凝視していた。
「いい加減だと思いますか? でも、それが現実なんです。おまけに、警察には昔からミスを認めない連中が多い。誤認逮捕なんざ有り得ないってわけですよ。もし、そんなことをしようものなら、自分の評判に傷が付く。現場から離れれば離れるほど、その傾向が強くなるかもしれませんね」
畳み掛けるように言ってしまえば、睦月はハンドルを持ったまま項垂れてしまった。
「人の人生を……人の人生を左右する立場にあるのに、そんな……。どうして……」
「決まってるでしょう。金が無いからですよ」
にべもなく言ってやれば、睦月は愕然としたように固まってしまった。そんな彼を見やり、矢沢は表情を引き締める。
「だけど、あんたには金があるでしょう。息子さんの力になってやりたければ、すぐに弁護士を雇うことです。あんたは法律に関しては素人だ。専門家に任せた方がいい。弁護士が付くか付かないかで、息子さんがこのまま逮捕、拘留、起訴という流れに逆らえないか、それとも早い段階で身柄を釈放されるか決まってくる。こんなところで落ち込んでいるヒマがあるなら、まだ任意同行のうちに弁護士を雇うことです。そうすれば、今日の夕方には自宅に連れて帰れますから」
感情を押さえた声音で告げると、下から見上げてくる睦月の燃えるような双眸が小さく揺れた。
「すべては金次第……。貧しい者が署に連行されればギリギリまで弁護士も雇えず、警察に都合よく逮捕、起訴されてしまう。逆に……」
「それも今更です。地獄の沙汰も金次第とは、大昔からこの国にあることわざじゃあなかったですか」
一瞬の沈黙。そして睦月は、矢沢に一言も残すことなくアクセルを踏み込んだ。署の敷地内を出て行く外車と入れ違いに、黒木が運転する社用車が滑り込んでくるのが見えた。




