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 窓の向こうに広がる青空を見止めて、薬王木はその眩しさに一瞬目を細めていた。


 陽光を受けて、目の前に立つ美貌の刑事の白い肌がいっそう際立って見える。その作り物のような手指が差し出して来たのは、殺人事件に関してカルテ開示を求める裁判所からの令状だった。


「直人くんのことは、とても残念でしたね」


 伏せられた視線のまま、引き結ばれた形の良い唇が紡ぎだした声音が、鼓膜を滑って溶けていく。薬王木は、悲しげに笑った。


「手は、尽くしました。医者として言えることは、それだけです」


 眠気のない疲労に、全身がバラバラになってしまいそうな錯覚を覚えていた。肉体は疲れきっているのに、精神が休息を取ることを拒絶している。


 極度の緊張感は、深い絶望へと姿を変えて薬王木の肉体を内側から蝕んでいこうとしていた。


 悲哀。言葉にすれば一言で済んでしまう胸の内の感情が、全身をあまつことなく侵していく。


「こういう時、思い切り声を上げて泣けたらラクになれるんじゃないかと、そんなことを思ったりします」


 無言で自分を見つめる黒木に向かって、薬王木はついそんな本音を漏らしてしまっていた。彼女を包む雰囲気が、微かに和らぐ。


「……涙というのは、心が流す血でしょう? とても深いのに血が流れない傷がついているというのは、まるで死体のように感じます」


 慰めるようなその言葉を聞いて、薬王木は小さく笑った。


「何と言っていいのか、すごく文学的ですね。僕のような無骨者は、涙は心が流す血だと聞けば、すぐに血液の赤い成分を濾したものが涙、という考えに直結してしまう」


「ひとつ勉強になりました」


 軽う笑う黒木の表情が、とても美しいと思った。そしてその直後、脳裏に蘇ってきたのは息子の死体に取りすがって泣きじゃくる佐々木敏子の姿だった。


「僕には、よく分からない」


 額を押さえつつ、薬王木は苦笑交じりに呟いていた。手の中で、裁判所からの令状を弄ぶ。紙切れ一枚が、妙に重かった。


「分からないんです。直人くんの病状は悪化の一途を辿っていた。いつ容態が急変するのかさえ分からないような状況だった。それなのに、治療方針を決めるための話し合いにさえ出てこない。見舞いにも来なかった。なのに、息子が亡くなったら我を忘れて泣きじゃくる。女性は男性に比べて感情的だという、それだけではどうしても納得ができない」


 意志の力を総動員して自分を押さえつけなければ、声を荒げてしまいそうだった。目元は少しも笑っていないということを自覚していた。


 けれど、長い年月貼り付け続けてきた口元の作り笑いだけは、こんな時にも剥がれることはない。そんな自分が皮肉だった。


「男性と女性では脳幹の造りからして違いますからね。先生が理解できないとおっしゃる気持ちを否定するつもりはありません」


 ひどく静かな声で、そんな言葉が返ってきた。薬王木は口元の笑顔を絶やさないまま、黒木に視線を向けた。


「あなたは、理解できると?」


 震える声音は嘲笑さえ含んでいたかもしれない。対する黒木は別段、表情を変えることはなかった。


「理解できるかどうかは不明です。私は佐々木敏子ではありませんから、あの人が何を思い、何を考えていたのか、本当のことは分かりません。ただ、推測はできるんです。同じ女性であり、同じ母親であるという立場から」


 無言で先を促せば、彼女は苦笑を浮かべた。


「否定したいんですよ、現実を」


「否定?」


「ええ。佐々木敏子は再婚が決まっていました。近い将来に、ささやかながらも幸せな未来が待っているという時に、自分の息子が抜き差しならない状況に追い込まれてしまった。自分が目を閉ざしている間に、直人くんの病状が回復してくれればいいというのが本音だったんじゃないでしょうか。母親なら誰だって、我が子が苦しんでいる姿を見たくないものですから。更に、直人くんの現状と向き合うということは、現実的な負担とも向き合うということになります。彼女はただ、幸せな結婚生活を夢見ていたかったんですよ」


「でも、直人くんは亡くなってしまった」


「そうです。だから、今まで逃げていた分の悲しみが一気に押し寄せたんですよ。母親として何もしなかった後悔も割り増しされているかもしれません」


 薬王木は表情を強張らせた。笑顔の仮面を貼り付けていない自分を第三者の前にさらしたのは、随分と久しぶりだった。


「身勝手すぎる……。そんなのは、身勝手過ぎますよ」


 握り締めた拳が震えていた。視線を合わせた黒木は、ひどく穏やかだった。


「そうです。同じ母親として憤りを覚えます」


 一瞬、薬王木はわけが分からないという顔をした。視線を逸らした黒木の目元には、それまでの凪いだ海のような雰囲気の中に微かな怒りを燃やしていた。


「病気で苦しんでいる子供の姿を見るのは辛いですよ。風邪をひいて熱を出しただけでも、心が引き裂かれそうになる。けれど、普通の母親は逃げたりはしません。逃げたいという気持ちは心のどこかにあったとしても、必ず子供と向き合います。自分の何を犠牲にしても、子供を助けようとします。そうしなかった佐々木敏子を、心の底から軽蔑します。理解できるだけに、余計に彼女が許せない。あくまで一個人として、ですが」


 黒木の言葉が終わるか終わらないかのうちに、看護婦が遠慮がちに診療室へと入ってきた。


「先生、回診のお時間ですが……」


 その言葉を受けて、黒木は丁寧に一礼する。


「やはり、女性は謎です」


 去り際の彼女にそう声をかければ、ただ笑顔を返された。そして、薬王木は気持ちを切り替えるように一度息をつき、不安気な眼差しを向けてくる看護婦に目配せして見せる。


「中島さん、あれからどうですか?」


 イスから立ち上がりながら問いかけると、看護婦はカルテを差し出しながら入院患者の症状を説明し始めた。怪我の影響で熱が出ているが、麻酔も効いていて今は調子が良さそうとのことだった。


 そんな報告を聞いて、薬王木は幾度か頷きながら病室のドアをノックした。ベッドが六つ並ぶ部屋の中、窓際のひとつだけが人の形に盛り上がっている。他の五つは、ここ最近ずっと使用された形跡がないままじっと患者を待っている。


「おはようございます、中島さん」


 もうひとりの入院患者が死亡退院したということは、決して悟られないように薬王木は明るい笑顔を浮かべて声をかけた。


 後ろに続く看護婦も、敢えて表情はいつも通りを取り繕っている。入院患者、特に高齢の者には、同じ病院に入院していた患者が死亡退院したという情報は病院関係者が考える以上に重く受け止められるものだ。


 緊迫した事態を悟られないように、大病院に勤務する看護婦でなくとも、よほどの緊急事態以外は廊下を走らないというのは常識であり、例え最悪の結果となってしまった場合でも、他の患者の前に立つ時は、いつも通りを装っていなければならない。


 ベッドに背を預けて窓の外を見つめていた中島は、薬王木が顔を見せると、はっとしたように笑顔を浮かべてみせた。


「今は痛くないので、とても楽に感じます」


 病状を聞いた薬王木の質問に対して、彼ははっきりした口調で答えた。その視線にも揺らぎがなく、心なしか背筋も伸びているように感じる。


 麻酔が効いているというだけではなさそうだ。昨日までとは一変した雰囲気を、薬王木は少なからず不思議に思った。


「先生、いつごろ退院できますか」


 力強ささえ感じさせる声音で、中島はそんな風に問いかけてきた。曖昧に答えを濁せば、中島はどこか残念そうな顔をする。


「早く元気になって、働きに出たいんですわ。何とか早く治るように、先生そこのところお願いします」


「善処します」


 苦笑いを浮かべた後、薬王木はほんの少し逡巡する気配を見せながら遠慮がちに疑問を口にした。


「特にこれということはないんですが、こんな年寄りがね、もう一度頑張ってみようかという気になったんですよ」


 照れ笑いを浮かべ、彼は薄くなった頭髪をぽりぽりと掻いてみせながらそう答えてきた。彼の視線が一瞬、突き抜けるような青空へと向けられる。


「もう少しだけ、人生の価値を磨いてみてもいいんじゃないかとね、そんな風に思ったんですよ。社会の中に戻って、もうひと踏ん張りするのもいいかと、そんな風に思ったんです」


 人生の価値、と薬王木は口の中で繰り返していた。なぜ価値ある人生ではないのかと思ったところで、付けっぱなしにされていた中島のベッド脇のテレビからニュース速報が流れてきた。


「寄生虫を使った前代未聞の殺人事件ですが、容疑者と見られる少年が先ほど……署に入りました。取材陣の質問に対し、警察側は今のところ何の回答も見せておりません。続報が入り次第、またお知らせします」


 容疑者の少年、と聞いて薬王木は一瞬、表情を強張らせていた。音にはしないまま、彼は明るい金髪の少年の名を口にする。


「先生、どうかされましたか?」


 テレビ画面を見つめたまま硬直してしまった薬王木を不安に思ったのか、看護婦が控えめに問いかけてきた。しかし、その声音も今の薬王木には届かなかった。


「どうして、君が……」

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