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 両手に収まってしまいそうなガラスの瓶の中に、五%ホルマリン溶液に固定された真っ白な虫が眠っている。


 虫たちは、明るい照明を一身に浴び、たくさんの仲間とその肢体を絡めあいながら多数の人間の好奇な視線に曝されていた。背景の群青に、その白い体がよく映える。


 ガラス瓶に張られた黄ばんだラベルには「回虫かいちゅう」という文字が手書きで書き込まれていた。回虫一匹の長さは平均三十センチほどで、鉤状に曲がった太くて白い針金のような姿をしている。


 この回虫の卵に汚染された野菜などをヒトが口にすることで、回虫は人体に寄生を果たし、その腸内で成虫となる。そして有性生殖により一日に数百個から数千個の卵を排出するようになる。


 二十一世紀の日本では考えられないことだが、かつて人糞が作物の主な肥料として使われていた時代には大半の日本人がこの回虫に感染していた。


 数匹程度の回虫を腹に飼っていても、特に自覚症状はない。ただ、極端に多数の回虫が感染した場合は、回虫同士が腸内で絡まりあって腸閉塞を引き起こしたり、居場所を求めて体内を移動しようとして腸に穿孔を開け腹膜炎を引き起こす場合がある。


 最早、見慣れてしまった回虫のホルマリン漬けから視線を逸らし、睦月啓介はそっと体をずらした。館内のあちこちから、年若い女性たちの黄色い悲鳴が聞こえてくる。

 彼女らが口にする言葉は、そこに展示されている生物に対して否定的なものがほとんどであるのに、その態度には好奇心こそ見受けられるが、嫌悪感は微塵も含まれていない場合が多い。


 啓介は小さく息をつき、次の標本に視線を向けた。多胞条虫たほうじょうちゅうに感染させられたハタネズミが、どこかあどけなささえ感じる表情を浮かべたまま、胎児のように丸まっていた。


 ネズミの腹はメスを入れられ、そこから不自然なほどに巨大化した肝臓を零して、訪れる人間の視線を受け止めている。


 多包条虫はキタキツネから感染する寄生虫で、エキノコックスとも呼ばれている。感染してから症状が現れるまでの潜伏期間が非常に長いのが特徴で、肝肥大や黄疸などの症状が実際に現れてから医療機関を受診しても手遅れである場合が多い。


 エキノコックスは、もともとキタキツネとエゾヤチネズミの間でライフサイクルを完成させている虫だ。しかし、野生のキツネや犬などの体毛あるいは糞に汚染された土壌から得た野菜などから経口感染し、ヒトの肝臓や脳などでたくさんの幼虫が詰まった袋を形成する。


 結果、感染した人間は臓器が機能障害を起こして死に至る。


 北海道や東北などエキノコックス症の多発地域では、野生のキツネに餌を与えないよう観光客に呼びかけたり、手洗いなどの衛生を徹底するよう呼びかけを行っている。


 また、健康検診を受けた際にエキノコックスの感染を発見する例も多く、寄生虫の感染を早期に発見した場合は手術などで健康を取り戻すことができる。実際、最近ではエキノコックスの重症例は検診を受けない患者に限られているということだ。


 啓介には、幾度かエキノコックスの摘出手術の光景を目の当たりにした経験があった。エキノコックスが作った袋は、巨大な黄色いビー玉のようにも見える。


 大きさは様々で、一様に白濁しているが、大きいもので手のひらほどもある。そんな袋が黄色く濁ってドロドロした胆汁や脂肪とともに次々に体内から搾り出されてくるのだ。


 そんな常軌を逸した光景に、子供ながらに圧倒された記憶があった。


 続いて啓介が足を止めたのは、糸条虫しじょうちゅうに感染した犬の心臓の標本だった。糸条虫はもっぱらフィラリアと呼ばれ、犬を飼ったことがある人間ならば一度はこの虫の名を耳にしたことがあるほど有名だ。


 フィラリアは「糸条虫」という字のごとく、まるで糸のように細長い姿をしている。そんな虫が大量に感染して臓器に食い込むのだから、心肺が機能障害を起こして犬は死亡してしまう。


 ところで、この犬フィラリアという寄生虫の人間への感染も報告されている。人間に感染した場合、犬のように成虫になることはできず、幼虫のまま主に肺へと寄生する。


 犬フィラリアに感染した人間をレントゲンで撮影してみると、肺にコイン状の陰が見受けられる。そこで肺ガンと間違えられて摘出手術を受ける場合が多いのだが、摘出した腫瘍にメスを入れてみると中からフィラリアの幼虫が大量に這い出してきて、年若いドクターや看護婦たちが顔色を豹変させるということだ。


 フィラリアと言えば、と啓介は踵を返して二階へと続く階段に足を向けた。


 隅々まで掃除が行き届いたフロアの一角に、一際目をひくグロテスクな写真が展示されている。パネルの男性は、その陰部があり得ないほどに巨大化していた。陰嚢は両手でなければ抱えられないほどに、そして性器は地面に到達してなお余りあるほどに。


 色は全体的にどす黒く変色しており、地面とこすれている性器の先端などは一部が腐食しているようでさえある。性器の太さは間違いなく直径五十センチを超えている。その大きさに男として自信を持てるかは人によるかもしれないが、自分の下半身がもしそうなってしまったら、と思うと啓介はぞっとしてしまう。


 この症例は、ヒトのフィラリアであるバンクロフト糸条虫に感染した場合に起こる症状の一例だ。体内で増殖したフィラリアの幼虫がリンパ管を詰まらせることにより、その先の部位が肥大化してしまう。


 性器が巨大化する例もあるが、足や腕が巨大化する例もある。こういった症例は象皮症ぞうひしょうの名で知られ、未だ発展途上国では頻繁に見受けられる。


 日本でこの象皮症に感染していたことで有名なのが、かの西郷隆盛である。もちろん、犬糸状虫と同じく、バンクロフト・フィラリアも蚊が媒介する。


 啓介は象皮症患者のパネルの前で、言葉と顔色を無くして硬直しているヤンキー風の少年を一瞥すると、そのまま博物館の最も有名な展示の方へと足を向けた。

 

 一部の物好きの間では“サナダさん”の愛称で呼ばれるほど、有名なサナダムシだ。真田紐に似ていることからサナダムシと名付けられたとのことだが、真田紐に縁が無い平成生まれの啓介にはむしろ名古屋のキシメンと言った方がしっくりくるものがある。


 この虫は体内でうまく成長させれば十メートルを超えることもある。しかしながら、虫体の巨大さとは裏腹に人体には大した影響がないことも特徴である。


 サナダムシは一日に二十センチ以上も成長する。よって、サナダムシに寄生された人間の体重はみるみる落ちる。この性質を利用し、最近ではサナダムシをダイエットに使おうとする傾向も見られるということだ。


 いくら食べてもその栄養は虫が吸収するのだから、肥満で悩む先進国の人間にとっては、まさしくサナダムシはダイエットの救世主と映るかもしれない。


 実際、大富豪オナシスとの恋を元アメリカ大統領夫人、ジャクリーン・ケネディに奪われた悲劇のオペラ歌手、マリア・カラスはサナダムシによってダイエットを成功させたという。


 ちなみに、最近ではマリア・カラスが罹ったサナダムシは、広節裂頭条虫こうせつれっとうじょうちゅうという種類に分類しなおされている。


 日本では、有名な寄生虫学者が日本海裂頭条虫の幼虫を飲み込み、サトミちゃん、ヒロミちゃん、キヨミちゃん、マサミちゃん、ナオミちゃんと名付けて大切に飼っていたという話が有名である。


 日本海裂頭条虫の幼虫プルセルコロイドは主に日本海側の川を昇ってくるサケの筋肉中に潜んでいる。最近は水洗トイレの普及によりめっきりこのプルセルコロイドを保有したサケが減ってきてしまっているとのことだが、中にはスーパーでパック詰めされたサケから感染したという例もある。


 寄生虫症を恐れるのなら、鮮魚は火を通すか、一度冷凍するのが安全である。


 日本海裂頭条虫の標本の傍には、その長さを実際に体験できるようにと虫と同じ長さのロープが置いてある。心優しい博物館のサービスである。啓介はロープを手に取り、しばらく手の中で弄んだ後、元通りの場所に片付ける。そして彼は一通り他の標本を眺めた後、階段へと足を向けた。


 この博物館は寄付によって成り立っている。出入り口の自動ドアの傍には、募金箱が設置してあった。啓介は、手持ちの金額から帰りの電車賃を差し引いた残額、一○五八円を箱に投入し、世界でただひとつの寄生虫博物館を後にした。


「ああ、今日も癒された」

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