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時計の秒針が進む音が、やけに耳につく。
苛立ちを紛らわせるために、睦月は今日初めてテレビの電源を入れた。よく見かける司会者の笑顔。顔立ちの美しい女性キャスターがレポートしているのは、人気スイーツ店の特集のようだった。
画面にホイップクリームがたっぷり乗ったパフェが大写しになった時、横から綺麗にマニキュアが施された指が素早く伸びてきて、電源スイッチを押した。
途端に静寂に包まれるリビング。コーヒーテーブルの上に、乱暴に叩き付けられるリモコンの音が必要以上に神経を逆撫でした。
私は不機嫌だと全身全霊で表現している妻を見やり、睦月はただ俯いて視線を逸らした。
互いに会話もなく向かい合ったまま一時間が経過しようとしていた。一言でも口を開けば間違いなく罵り合いの喧嘩に発展することは想像に難しくない。
お互いにそれを分かっているため、二人はただ押し黙っている。態度には出しても口には出さない。妻のそういった部分を、睦月は苛立ちの中でも密かに評価していた。
考えることはひとつ。啓介のことだ。今朝早く、玄関の呼び出し鈴が鳴った。翳された警察手帳を見て、胃が締め付けられるような思いに襲われた。
幾度となく啓介の携帯電話にかけても、未だに連絡がつかない。警察は、家の近辺をうろついているだけで、何も教えてくれない。ただ、息子から連絡があったら教えろ。その一点張りだ。
啓介が何らかの事件に巻き込まれていることは紛れも無い事実だ。被害者としてか、加害者としてか。どちらにしろ、今のこの国では犯罪に関わったものが今まで通り、何も無かったように生活していくことはまずできない。容疑者が未成年だった場合は尚更だ。
少年法の適用により、容疑者の少年には、その身元が流出しないよう拘留と共に即座に報道規制が敷かれ、一方で弁護士が付く。
一方では、何の落ち度もないはずの被害者がマスコミによってあらゆるプライベートを暴き出され、プライバシーも人権も死んだものには関係ないと言わんばかりに報道攻撃を受ける。
被害者、あるいはその遺族は、犯人だけでなく、マスコミ、そして社会から二重、三重の被害を受け続けるのが常だ。
加害者ともなれば、本人だけでなくその家族もまた社会に居場所を失くす。加害者の家族は、連日連夜に渡るマスコミからの取材に耐え、ニュースを聞いて憤った人々が押し寄せ、罵倒し、敷地内に罵詈雑言が書かれたゴミを投げ入れられる苦痛に耐え忍ばなければならない。
そして警察の態度を見る限り、自分の息子を被害者として探しているようには思えない。睦月は俯いたまま眉間に皺を寄せる。
疲れた。そんな一言を漏らしそうになって、慌てて口をつぐむ。
啓介は未成年だ。少年法が適用される。だが年々若年化していく凶悪犯罪の影響で、その少年法自体に疑問を投げかける声は多い。
少年法とはそもそも、戦後の貧しい世の中で、罪を犯さなければ生き延びることができなかった未成年者を大人と同じ法律で裁くのは忍びない、という考えから制定に至ったものだ。
それを思えば、果たして今の世の中、貧しさがゆえに犯罪に手を染める未成年者がどれほど存在しているのかと疑問を投げかけたくなる。
睦月自身、未成年者による凶悪犯罪を耳にする度、この法律は最早時代遅れで、日本の現状に適合していないという考えの持ち主だった。
だが、いざ自分の息子が、という状況に立たされてみると、その適用を心から願う自分がいる。それは、必ずしも息子の将来を案じる父親としての思いだけではなかった。
自分には自分の、築き上げてきた人生がある。地位がある。名誉がある。今ここですべてを失ってしまったら、この先の人生をどうやって生きていけばいいのか、考えるだけで足元が暗くなる。
睦月は、生まれて初めて犯罪者の身内というものが、ある意味で被害者と同義であるように感じた。
呆れてしまうほどの自己保身。現状を維持できることが、結果的に家族を救うことになる。そんな言い訳を考えた自分に辟易とする。
犯罪と無関係だったからこそ、胸を張って声高に唱えられた正義という文字もある。対岸の火事だったからこそ、まるで賢者のような顔をして卑劣だと断言できた人もいた。
そんな当たり前のことが、今更のように実感できた。秒針の音と妻の溜め息だけが聞こえる部屋の中で、睦月は項垂れたまま、組んだ両手の指に力を込めた。
突然、静寂を切り裂いて玄関の呼び鈴が鳴った。夫婦揃って肩を跳ねさせ、同時に目を見合わせていた。一瞬の攻防の末、睦月が席を立つことにした。
状況が状況なだけに、家主が応対に出た方がいいと考えたせいだ。しかし、何となく女性である妻を応対に出すことに不安を覚えたということもあった。
相手を確認することもせずに扉を開けたりはしないと思う。だが、万が一のことも有り得る。
そんなことを考えながら、睦月は磨き上げられた廊下を進み、玄関へと向かった。見慣れているはずの扉が、今日はやけに重々しく感じた。
改めて思う。目の前にあるこの閉ざされたドアの向こうに立つ者が分からないというのは、恐怖以外の何者でもない、と。自分たちを守るのは、扉一枚。これを開けた瞬間に、何か悪いものが入ってくるような、そんな予感に囚われる。
「警察の者です」
一言声をかけてから玄関の脇に取り付けられている小型のディスプレイを確認すれば、そこには今朝方、自宅を訪れた刑事が映っている。名を早乙女と名乗っていたような気がする。
警察だと知っても安堵はできなかった。悪い予感は薄れることなく、より一層濃く深く胸の内に根を張り巡らせていく。
「一応、お知らせしておこうかと思いまして。寄生虫殺人事件の重要参考人として、息子さんに任意同行を求めました」
睦月は足元の床が抜けたような感覚を味わった。奈落に落ちるとは、まさしくこのことだ。悪い予感は、やはり的中した。自分に災厄をもたらす悪いものは、やはり扉の向こうからやってきた。
「玄関から来たのが、ゴキブリだったらマシだったのに……」
口元だけで笑みを作り、そんな冗談とも本気とも付かない言葉を口にする。リビングから顔を覗かせた妻が顔色を失くしたのが気配で分かった。
「わざわざ、ありがとうございました」
精一杯の自制心で自分を保ち、若い刑事に向かって頭を下げた。
「では、これで」
どこか遠慮がちに、刑事は短く言ってそのまま踵を返してしまった。睦月は、しばらく黙り込んだままその場に立ち尽くしていた。そして財布を取りにリビングへと足を向ける。
妻が泣いていた。すれ違いざまに、その背を軽く撫でてやる。
「大丈夫だ」
根拠もなくそう言って、睦月は自宅を後にした。




