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 どこからともなく聞こえてくる軽快な音に、啓介の意識はゆっくりと浮上した。薄いカーテンの隙間から漏れる朝日の眩しさに目を細めながら身を起こせば、真剣な表情でパソコンに向かっている祖父の姿が目に映った。


 途端に、啓介は横になっていたソファから飛び起きた。


「じいちゃん、結果は出た!?」


 あれから再び東京に出向いた啓介は、問題のペットボトルを祖父に手渡し、その分析結果を待ちきれないまま意識を手放してしまっていた。


 毛布がかけられているところを見ると、おそらく祖父が気を利かせて被せてくれたらしい。こんな大変なときに寝ている場合ではない、と思ったのはすでに夢の中だったような気がする。


 徹夜明けとは思えないほどスッキリした顔をしている祖父を横目に見ながら、啓介は無意識に唇を噛んでいた。


「そのクセは止めなさい」


 祖父に言われて、はっとしたように彼は口元から力を抜く。だが、すでに口内には錆びた鉄のような臭いが広がっていた。


「子供のころは頻繁に爪を噛んでいたから、まだマシになった方だとも言えるがな。見ていてあまり気持ちのいいものではないぞ」


「分かってるって」


 適当に返事をして、啓介は気まずさを誤魔化すためにそっぽを向いた。


 思えば、母親は自分のこのクセを誰よりも嫌っていた。周囲が呆れるほど啓介の行動、その一挙手一投足に目を光らせ、一瞬でも爪を噛もうとする動作を見せたなら、間髪入れずに金切り声を浴びせかける。


 そんな母親の努力は実らず、啓介が爪を噛むクセは一向に治るどころかひどくなっていく一方だった。


 そんな時に訪れた祖父の家で、再び怒られていた啓介に向かって一言、祖父が言い放った。


“そんなに爪ばっかり噛んでいると、寝ている間にゴキブリが来て口の隙間から体の中に入ってしまうぞ”


 祖父いわく、起きているときにそれだけ頻繁に爪を噛んでいるのだから、きっと寝ている間も噛んでいるに違いない。だから啓介は寝ている時、口が開いているはずだ。


 ゴキブリはその隙間から体内に侵入し、重要な臓器を貪り食う、とのことだが、今になって思えば全く科学的根拠のないデタラメだ。


 だが、幼い啓介は戦慄した。


 まず、ゴキブリは一部の地域を除き、日本で頻繁に目にすることができる害虫である。


 次に、その侵入はいつの間にか行われ、完全に阻止することはまず不可能である。


 最後に、自分自身は眠っていて意識がないという点。


 広東住血線虫だの、有鉤条虫だの、人間の健康に多大な害を与える寄生虫の知識は当時から有していた啓介だったからこそ、身近に存在し、なおかつ対処法が立てられないゴキブリという害虫に対して筆舌に尽くせぬ恐怖を覚えた。


 その結果、ゴキブリの侵入を防ぐために、爪を噛むかわりに唇を噛むという新たなクセが生まれてしまった。


 時が経ち、祖父が何の気なしに口にしたデタラメは啓介自身が習得した知識の前に敗れ去った後も、そのクセだけが消滅することなく今も啓介を苛み続けている。


「言わせてもらうけど、じいちゃんにも責任あるんだからな」


「そのことについては何度も謝った」


 少しも悪いと思っている様子もなく言ってのけた祖父を見て再び唇を噛もうとしたところで、祖父はパソコンのディスプレイを見るよう促してきた。


「結果は明白。直人君のアパートから見つかったペットボトルに混入していたのは、この研究室で生まれたハエの幼虫だ」


 画面には赤と青のラインが目まぐるしく展開している。寝起きの頭で見ていると目がチカチカするような映像だったが、それが意味していることは理解できる。


「……ペットボトルに入っていたのは何? お茶に見えたけど」


「その通り、ただの緑茶だ」


 祖父が再びキーを叩くと、そこにはペットボトルに入っていた液体の成分を分析したデータが表示された。祖父の言う通り、ただの緑茶。それ以外にどう表現したらいいのか分からないほど、緑茶以外の成分は何も検出されていない。


「なぜ直人君がこんなものを持っていたのか、見当はつくか?」


「分かるわけないじゃん、そんなこと」


「なら、直人君のお母さんは?」


 直人の母親、と言われて啓介は露骨に表情を顰める。


「それこそ知るわけねえと思うよ。滅多なことじゃアパートに帰ってこねえんだ。いい年こいて色ボケしたクソババアだよ」


「友達のお母さんのことをそんな風に言うもんじゃない」


 祖父の言葉に、啓介は再び唇を噛んで顔を背けた。隣で祖父が軽く溜め息を落とす。


「啓介、とりあえずお前は家に帰りなさい。お父さんが心配しているだろう? ウジが入ったペットボトルは、こっちでちゃんと処理するから」


 祖父の言葉の途中で、啓介はふと矢沢の顔を思い出した。


「なあ、じいちゃん。刑事のおっさんにこのハエの幼虫、渡した方がいいんじゃねえの? 俺、渡して来ようか」


 啓介の言葉を聞き、祖父は一瞬考え込むような表情になった。


「いや、とりあえずお前はこれ以上、国家権力と関わり合いになるようなことは止めなさい。ウジは、私の方からちゃんと渡しておく。そして刑事さんには、無関係な高校生をこれ以上おかしなことに巻き込まないように頼んでおくから」


「……分かった」


 そして啓介は小さく息をついた。祖父の言う通り、直人の様子を見に行ってからいったん家に帰ろうと思った。


 今現在、研究室ではプラジカンテルを動物に投与し、その結果を待っている最中とのことだった。それならば、啓介は特にすることがない。適当に荷物をまとめて、啓介は短い別れを告げた後、祖父の研究室を後にした。


 啓介が出て行った後、睦月教授は総出で実験が行われている実験室へと足を向ける。その時、室内の一画で付けっぱなしにしてあったテレビの映像に視線を止めた。


 どうやら昼の情報番組が、何かの事件の特集を組んでいるようだ。画面の中には、殺人事件の際には必ずコメンテーターとして顔を出す壮年の刑事が大写しになっている。


 犯罪現場や被害者の状況などから犯人像を推測するプロファイリングが有名で、今現在、犯人を取り逃がしたことはないとされている。


「この事件の犯人は、おそらく十代から二十代前半と思われます。裕福な家庭に育ちながらも反社会的な思想を有している。いわゆる愉快犯的なもので、学校の成績とは裏腹にかなりの専門知識を持っている可能性がある」


 睦月教授は小さく溜め息をつき、テレビの電源を落とした。


「将来有望な若者が、もったいないことを……」



 薬王木はひとり、診察室のデスクに座ったまま項垂れていた。外来患者の診察は父に任せてある。入院患者である中島道夫は、投与した麻酔が効いたらしく今は眠りについている。


 もう一人の入院患者だった佐々木直人に関して、彼にできることはもう何もない。今は看護婦がエンゼルケアを行っている最中だ。あと三十分もすれば、ようやく連絡がついた彼の母親が顔を見せるだろう。


 午前四時十五分。佐々木直人は投薬の効果か、それまでの病状とは対照的に、ひどく静かに息を引き取った。


 ホコリひとつ落ちていないデスクの上にはパソコンと一枚の書類が置いてある。死因の欄に書き込んだ多臓器不全という文字を見やり、彼は重い溜め息を落とした。


「直人君、どうして君が……」


 普段、端整なその目元には濃い隈が浮かびあがり、実年齢より若々しい印象を与える優しげな笑顔や穏やかな態度も、今日ばかりは重い疲労の前になりを潜めていた。


 医者として、やれるだけのことはやった。最後の最後まで、懸命に処置を施した。担当の患者が死亡退院することになった時には必ず自分に言い聞かせる言い訳を、今日もまた意味もなく繰り返す。


 しかしながら、出口の無い胸の奥に蓄積していく無力感や罪悪感は、薄っぺらい言葉では到底、払拭できるはずもなく、ただ滓のように淀み続けるだけだった。


「本当に、やりきれない……」


 体内に侵入したハエの幼虫によって臓器を食い荒らされ、佐々木直人はのた打ち回るほどの苦痛を訴えていた。


 その苦痛を和らげるため、気休めに過ぎないと分かっていながらも薬王木は麻酔処置を施した。


 同時に体表面に現れたウジを除去するという作業を繰り返しているうちに、癲癇にも似た症状が出るようになった。


 幻覚、錯乱、朦朧、高熱。明らかに脳神経系の症状が出ていた。ウジが脳あるいは中枢神経に達したことによる症状か、それとも免疫低下によって脳内のトキソプラズマ・シストが破れた症状か。


 判断をつける間はなかった。


「助けてあげたかったのに……」


 少年の早すぎる死を思い、彼は表情を歪めながら俯いた。廊下の方から聞き覚えのある金切り声と数人の足音が聞こえてくる。


 これから始まる喜劇を思うと、ただでさえ疲労困憊している精神と肉体が鈍刀で引き裂かれそうな苦痛を訴えてきた。


 だが、こればかりは逃げるわけにはいかない。患者が死亡した際、その死よりも辛いのはむしろ残された家族への説明、場合によっては謝罪であったりする。


 意を決して、薬王木は深く息を吸い込む。他人の言葉を理解しない、しようともしない、ただひたすら感情的な人間を迎える覚悟を決めて、背筋を伸ばした。


「直人くん、本当にすまない……」


 届くはずのない言葉を口にして、彼は激しく後悔した。自分には、謝る資格すらありはしない。

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