26
ふと目を覚ますと、目に張り付くような闇が横たわっていた。夜の闇とは違う。一切の光が存在しない時に現れる、真の闇だ。
目をこすろうとして、直人は自分の腕が動かないことに気が付いた。腕だけではない。指の一本さえ、自分の意志では動かせない。さながら心だけを残してすべてが消失してしまったかのような、そんな錯覚を、彼は覚えた。
妙にすっきりしている。例えようもない激痛にのた打ち回っていた時間が嘘のようだ。霞がかかったように朦朧としていた頭は、肉体が訴える苦痛ばかりを認識して、他の何を考えることも思うことも許さない。
自分が自分であると、はっきり断言できるのも久方ぶりだった。
「死んだんかな」
思いがけず、声が出た。最後に自分の声を聞いたのがいつだったのかさえ思い出せない。自嘲するように笑った時、そう遠くない場所から誰かが咳き込むような音が聞こえてきた。
声がした方向を振り向くことはできなかったが、そこに自分以外の誰かがいることだけははっきりと分かる。死体や幽霊は咳をしないだろう。どうやら近くにいるのは生きた人間であるようだ。
「誰かいんの?」
声をかけると、くぐもった声が何か言った。激しい咳の合間に、途切れ途切れに言葉が混ぜられるせいで、その声をはっきりと聞き取ることはできなかった。直人は何も言わず、聞こえてくる単語に耳を澄ます。
しばらく聞いているうちに、痛い、辛い、哀しい。そんな単語が繰り返されていることに気付いた。
「先生を呼んで来てあげたいんだけどさ、俺、体が動かないんだ。悪いな」
自分でも驚くほど感情の籠もらない冷めた声がどこからともなく出てきた。だが、相手はそれどころではないらしく、ひたすら呻き声とともに痛い痛いと繰り返している。
「いっそ死ねたら楽になれるのにのう……」
泣いているらしい。嗚咽の中から聞こえた言葉を、直人は表情もなく聞いていた。
「こんな年まで生きれたのに……もう充分生きたのに……なんで死ねんのだ……。生きれば生きるほど、死ぬのが怖くなる……。若い時は死ぬことなんぞ恐ろしいとも思わんかったのに……」
「そんだけ人生の価値を知ってるってことだろ」
自分はどうだろう。直人はふと思った。おそらく、自分にはもう時間がない。誰に告げられたわけでもないが、漠然と自分が死ぬ時間が迫っていることは理解できている。
別段、恐怖はない。抗おうという意志もない。どうやら自分は、人生の価値を知る時間もなかったらしい。それが悲しいことだとは思わなかった。
十八という年齢でこの世を去る運命を思えば、それはむしろありがたいことのようにさえ思える。
知っていた。自分という存在が母親の重荷になっていたことを。
気付いていた。周囲の大人たちが自分に向ける厄介な目を。
分かっていた。同年代の誰しもが、本当は自分を必要としていないことを。
この世に生まれてから今まで、そんな時間しか生きることができなかった自分という存在。
ただひとり、屈託なく自分を友人だと思ってくれていた啓介にさえ、自分はいつだって感情のどこかに諦観を含んでいた。
今は友人である彼と、自分はいつまでも同じ立場でいられないこともまた、心のどこかで悟っていたかもしれない。
実際、高校にさえ進学しなかった自分とは対照的に、啓介は公立の高校に無理やり進学させられた。なんだかんだ言いながらも単位を落とさず、何とか進級しているのも彼の両親、特に父親の影響だろう。
父親の顔を知らないどころか、酔っ払った母親の口ぶりからして自分の父親は直人の存在さえ知らない自分とはやはり根本的に違う。
「生まれ変わりって、あると思う?」
そんなことを呟いた。返事はない。もともと期待はしていなかったので、直人は無表情のまま真の暗闇を見つめ続けた。
「もし本当にあるとしたらさ、俺の前世はきっと罪人だったんだ。だけど、今の俺は何もしてないから、次に生まれ変われるとしたら普通の人生を生きてみたいな」
父親がいて、母親がいて、できれば可愛い妹がいたらいい。ペットを飼っていいなら、ハスキーのような大型犬が欲しい。家族で食卓を囲み、温かな布団に入って眠りにつく。そして再び、朝がくる。
二度と目にすることはないだろう朝日を思い、直人は静かに瞼を閉じた。
*
空になった缶コーヒーを握りつぶし、矢沢は軽く目頭を押さえていた。蓄積した疲労と耐え難い眠気のせいで、その目元は真っ赤に染まっている。
半日近く休息を取っていないと、イスに座っただけで意識を飛ばしてしまいそうになる自分に辟易とする。
「年を取ったな」
苦笑交じりに独り言を呟き、気合を入れるように彼は両手で頬を強く叩いた。一呼吸して、彼は勢いよく立ち上がる。そろそろ刑事たちが集まり始めるころだ。苦労して立てた帳場だ。間の抜けた顔を見せるわけにはいかない。
タバコのヤニが染み付いた廊下を歩いていた矢沢は、ふと足を止めて窓の外に視線を向けた。濃い霧が街を覆いつくしている。まるで雲の中にいるようだ。
「天が降りてきたみたいですね」
突然、声をかけられて矢沢は軽く肩を跳ねさせた。自分が思っていたことをそのまま言葉にされると、どこかばつが悪い。
「くだらねえこと言うんじゃねえよ。この季節に霧が降りることはよくあることだろうが」
吐き捨てるように言えば、声をかけてきた張本人である黒木は疲労も眠気も感じさせない美しい顔立ちで小さく笑ってみせた。
「それはまあそうですけど。でも、前に総合病院に勤務してる看護婦さんがおっしゃっていたじゃないですか。人が死ぬのは、不思議と明け方が多いって」
「そうかもしれんがな。曲りなりにも刑事が、そういうオカルトじみたことをペラペラ口にするモンじゃあねえよ」
言いながら、矢沢はコートのポケットに両手を突っ込んで歩き始めた。そして気付く。人間は後ろめたいことがあると無意識に手を隠そうとする、ということに。
微妙な表情で、矢沢はさりげなく両手を出した。半歩遅れて付いてくる黒木は、そんな矢沢の行動を悪戯な表情で見つめていた。
時刻は午前八時前。廊下の中ほどにあるドアの前には「寄生虫殺人事件捜査本部」という筆文字が置かれていた。表情を引き締めた二人がドアを開けば、ひな壇のようになった捜査本部の席はほとんどが埋まっている。
顔見知りの刑事たちに軽く会釈しながら、矢沢と黒木も自分たちの席へとついた。手持ち無沙汰に目の前に置かれた資料の束に目を通してみる。当たり前だが、知っていることしか書いていなかった。
それから三十分ほどして、捜査本部の前面にあるドアが勢いよく開かれた。姿を現したのは、捜査一課長の村迫だった。その姿を見止めると同時に、集まった捜査員たちは一斉に口を閉じて起立していた。彼は一同をぐるりと見渡し、身振りで着席を促した。
「今回、この寄生虫殺人事件の捜査を担当することになった村迫だ。ではさっそく、事件の概要を説明する」
そこで、村迫は矢沢を指名した。矢沢は立ち上がり、課長が退いた場所へと足を向ける。何度経験しても、人前に出て話をしなければならない緊張感は薄らぐことはない。矢沢は密かに、テレビ番組に頻繁に出演し、政治や経済の解説を分かりやすく行うコメンテーターを尊敬していた。
「第一の被害者は宇津木美香、七十五歳。市内に在住している専業主婦。死亡推定日時は九月二十日。発症時期、感染時期は不明。家族は年金暮らしをしている七十八歳の夫、誠司。子供は二人。発症は本人のみ。家族にはその傾向はなし」
壇上に立った矢沢は、挨拶もそこそこに説明を始めた。黒木が映写機を操作して、発見された遺体のスライドを投影する。そこに映された画像は、見るからに凄惨なものではあったが、刑事という職業柄、顔色を変える者は特にいなかった。
「第二の被害者は辻本央、三十四歳。市内在住。収入源はなし。ガンで入院中の父親、そして母親と同居している。発見者は母親。死亡推定日時は九月二十八日。発症時期、感染時期は共に不明」
いっそ機械的とさえ言えるような感情のない声音で言葉を発し、矢沢はしんと静まり返った会議室に響く、ペンが紙の上を走る音が落ち着くのを待った。
「この時点で、面識も無い二人の被害者に共通しているのは死体にたかるウジについて、見たことも無い種類が豊富にいたという点。また、死亡日数の割りにその数が異様に多いという点。こういった事例は自然死に見せかけられた他殺のセンが濃い。だが、それだけでは犯罪証拠として成立しない。警察医である伊藤先生をそれとなくせっついて遺族に行政解剖を勧めてみたが、最初の例は拒否された。遺体は発見された二日後に荼毘にふされ、今現在は墓石の中だ。二番目の辻本央の場合、司法解剖に回したが結果は所見なし、ということだ」
一呼吸置く。挙手する者の姿は見えなかったので、矢沢は黒木に目配せしてスライドを変えさせた。
「次の事例。三番目となる被害者は田中邦彦。七十一歳。市内のアパートで一人暮らし。発見者は茶のみ友達でもあるアパートの大家。家族はなし。四十三歳で離婚し、元妻は実家のある香川で長男夫婦と暮らしている。子供三人はそれぞれ独立し、所帯を持っている。被害者との接点はまるでなし。当然、発症もしていない」
そこで、年若い刑事のひとりが挙手をした。無言で矢沢は質問を許す。
「被害者五人のうち二人は高齢者ですが、高齢者が狙われやすい環境はありましたか?」
質問に対し、矢沢は少しばかり考え込んだ。
「宇津木美香、田中邦彦、共に収入源は年金のみだった。貯金は僅か。金銭あるいは財産目的とは考えにくい。また、田中邦彦に関しては銀行の通帳が部屋の中から見つかった。見たところ、不明瞭な使い道の記録は無い」
言った後で、矢沢は微かに俯き、表情を隠しながら自嘲した。人間が生きてきた七十年という歴史。その長い長い人生を、一分にも満たない時間で纏め上げてしまうことが、妙に滑稽に思えた。
無論、被害者が生まれてから死ぬまでの出来事を事細かに説明するような時間はないので仕方ないとは分かっている。
だが、こういった場で取り上げられる被害者のことを思うと、理不尽に吹き消された命の空しさが心の奥に染み渡る。
「次。四番目の被害者は坂本詩織。年齢は三十八歳、会社員。DV夫から逃れるために、実弟の家に避難していた。夫は無職。子供はいない。夫がギャンブルで約五百万の借金を作り、その返済に追われていた。深夜過ぎまで酒を飲んでいたが、突然、奇妙な言動が目立つようになった。そして胸を押さえて倒れ、直後に大量のウジが這い出して来た」
そこで、質問を求める手が上がった。確実に恋愛対象にはなりそうにない女性刑事が、しかめっ面をして矢沢に視線を向けている。
無言で発言を促すと、どこかすました顔で背筋を正した。
「被害者には男性が多いようですが、男性が狙われる特別な理由はありますか?」
「残念ながらそれは不明だ」
女性刑事の質問に対して、矢沢は即座に答える。
「警察が確認できた事例だけで五件、という意味だ。状況が状況だから、一一○番するよりも一一九番する連中が多いかもしれない。実際の被害者はもっと多い可能性がある。実際の被害者数の把握は諸君らの捜査にかかっている」
そして矢沢は一瞬だけ視線を落とした。
「ここで、我々が注目したのは日本における寄生虫学の権威である睦月栄治教授だ」
スライドが切り替えられ、投影版に上品な笑顔を浮かべた白衣姿の壮年の男性が映し出された。矢沢は睦月教授に関する経歴を短く並べた。
「ハエも寄生虫だ。これまで人間への感染例は報告されていないが、中にはとんでもなくタチの悪いヤツもいる」
いったん言葉を切り、矢沢は寄生虫の少年医から教わった内容を要約して伝える。壇上から刑事たちの顔色が変わる様を見ているのは、どこか楽しかった。
そのとき、挙手さえせずに犯人と睦月教授の関係性を問う声がかけられた。矢沢はそれを敢えて無視する。
「幸いなことに我々は、市内在住の教授の孫と知り合うことができた。彼からの善意の通告によって、問題のウジが教授の実験室で遺伝子操作されたウジであることが判明した」
刑事たちの目の色が変わる。困惑を浮かべる者、納得したような素振りを見せる者、嘲笑を浮かべる者。無表情に徹している者。反応は人それぞれだった。
「問題は、すべて廃棄したはずのウジが市内で発見された変死体に沸いていたという点だ」
「廃棄方法に問題があったんじゃないのか?」
声がした方向を振り向く。こちらの話を遮っての質問に不快にならないでもないが、特に表情は変えなかった。
「教授の話では、ハエの幼虫の処理は規則通り専門の業者に頼んだとのことだ。実際、大学の実験室だけでなく、中央研究所でも実験動物は業者に頼んで処理するのが通例だ。廃棄方法そのものに問題はない」
今度は反対方向から声が上がる。
「処理が不十分だったのでは? 殺人事件と断定するには些か早急すぎではありませんか?」
そんな質問に対して、幾人かの刑事が頷く様子が見て取れた。矢沢は敢えて挑戦的な笑みを浮かべて見せる。
「五番目の被害者は佐々木直人。現在十八歳。居酒屋でアルバイトをしている。母親の名は佐々木敏子。大木組・組長のオンナだ」
暴力団関係者の名を上げただけで、刑事たちの間に何とも言い表しがたい緊張感が漂い始める。暴力団は片っ端から逮捕すればいいという単純な問題ではないだけに、警察内部でもその扱いは非常にデリケートにならざるを得ない。
「だが、このオンナの方は最近、若い恋人ができたらしい。組を抜けたいと言うオトコのために三百を用立ててやっている。この金の出所を探ったところ、どうやら借金したのではなく、大木に直々に頭を下げに行ったとのことだ。それで、息子の直人にかけられている生命保険は一千万。ついでに、佐々木敏子自身のローンが約二百。ちなみに車とエステのローンだ。更に、恋人の方にも遊びで作った借金が約三百。賃貸しているアパートの家賃も滞納している」
一瞬、何ともいえない重い沈黙が場に満ちた。そこへ、どこか遠慮がちに挙手する者がいた。
「佐々木敏子と睦月教授に面識はありますか?」
「今のところ確認できていない」
他に質問はないかと問いかけようとしたところで、それまでずっと黙って話を聞いていた捜査一課長、村迫が腰をあげた。
「当面の捜査は大木組と寄生虫の専門家の接点を洗う方向でいく。睦月栄治を徹底的に洗え」
ドスの効いた声でそう断言した後、彼は一瞬だけ間をおいた。
「佐々木直人はまだ踏ん張っている。治療法云々によっては回復する見込みがないわけではない」
言外に、犯人逮捕によって彼の命を救える可能性があるということを含ませる。人一倍正義感が強い刑事たちの士気を高めるには、こういった言葉が非常に有効となる。そして村迫は活力のある声で次々に指示を出し始めた。
「睦月栄治の孫にあたる睦月啓介は、佐々木敏子の息子と親交が深い。そのセンから大木組との繋がりが出るかもしれん」




