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 息咳切らして外付けの階段を駆け上がった啓介は、アパートの郵便受けに手を伸ばした。その裏側に、万が一のためのスペアキーが貼り付けてあることは、以前に直人から聞いて知っている。


 思ったとおりの場所に感じた感触に、啓介は微かな安堵を表情に乗せ、部屋の中へと侵入した。刑事たちと別れてから、十分後のことだった。


 女の手がほとんど入らない狭いアパートの中は、相変わらず様々なもので散らかっている。昔から整理整頓が苦手な直人に対して、どちらかと言えば典型的なA型気質である啓介は、時に耐え切れなくなって彼の部屋のゴミを片付けたりしていた。


 冬場ならばまだしも、真夏に生ゴミを放置すれば一日も経たないうちにハエが卵を産みつけてキッチンのシンクにウジが涌く。


 一度、一週間ほど放置されたシンクを片付けさせられた経験のある啓介は、可能な限り頻繁に生活ゴミ、特に生ゴミの片付けはするようになっていた。


 そして啓介が最後に掃除したのは三日ほど前のこと。そのおかげで、部屋の主が不在にも関わらずアパートの中は惨状と呼べるほどのことにはなっていなかった。


「直人、ちょっと部屋の中を見るけど、許してくれよな。たまに掃除してやってんだから、それくらい勘弁してくれ」


 今ここにいない直人に聞こえるはずはないと知っていながらも、心のどこかに後ろめたい思いが残っていた啓介はそんな風に免罪を求めていた。


 気を取り直して、啓介は部屋の捜索を始めることにした。祖父が言うには、あのハエウジ症に罹るためには、ハエの卵を飲み込む必要があるとのことだ。


 直人の体に寄生しているウジの数からしてみても、かなりの量の卵を飲み込んだことになる。


 それなら、おのずとその方法は限定されてくるというものだ。とりあえず玄関を見渡せば、そこには紙紐で束ねた古びた雑誌の類と靴以外、特に何も見当たらない。早足で、彼はほとんど使われていないキッチンの方へ移動した。


 乾燥したシンクは、三日前に啓介自身がコップなどを片付けた時のまま、時間を止めたようにそこにあった。生ゴミやカップ麺の空さえ転がっていない。


「あいつ、最後に飯食ったのはいつだよ」


 そんなことを思いつつ、今度は冷蔵庫を開けてみた。ドアの向こうから、やけに明るい光が投げかけられる。


 ドアポケットにチューハイの缶が五本、ビールが三本、使いかけのマヨネーズとケチャップ、夏にバーベキューをした時の余り物と思しきタレが二本。


 棚の方には、コンビニで売っている個別の袋タイプのドレッシングが一袋、無造作に張り付いているだけだった。


 何となく賞味期限を確認してみる。刻まれた数字は、去年の八月となっていた。啓介は表情を歪め、それをゴミ箱に放り投げた。


 冷蔵庫のドアを閉めて、今度はチルド室を開けてみる。予想通り、そこは空だった。底の方には泥ひとつ、野菜の皮ひとつ落ちていない。


 チルド室が一度も使われることがないまま古くなっていっているような印象を受けて、啓介は軽く溜め息をつく。頭の中に直人の母親の顔を思い描く。妙に納得した。

 

 最後に冷凍庫を調べてみる。そこには、アイスクリームのカップが三つと大量の氷、そしてカチカチになった保冷剤が二つほど転がっているだけだった。


 直人がまともな食生活をしていないことは知っていたので、特に驚くようなことでもない。冷蔵庫にはそれらしいものは何もないと判断し、啓介は静かに立ち上がった。


 彼が次に目を止めたのは、シンクの下にある調理器具などの収納スペースだった。自宅のキッチンの半分ほどの大きさしかないシンクは、調べるにはさほど苦労はいらない。


 しかも、中がほとんど空洞となれば、思いのほか作業は早く済む。コンロの下には調味料くらいあるのではないかと思ったのだが、残念ながらホコリをかぶった日本酒の瓶が一本出てきただけだった。


 小さく溜め息を零し、手に付いたホコリをジーンズで払って立ち上がる。シンクの上にも収納がある。取っ手に手を伸ばして開いてみると、雑然と物が置いてあるのが見て取れた。


 啓介の身長では奥まで確認することができなかったため、母親の化粧台の前からイスを拝借してシンクの前まで持ってきた。


 中を覗き込む。結婚式の引き出物と思われる箱、カセットコンロ、ホットプレート、ホコリ塗れの乾電池や電球などをしまった入れ物、タッパー、金網。そんなものが押し込んであった。


「つくづく食べるものが無い家だよなあ」


 イスから降りて、啓介は苦笑交じりに呟いた。思えば、自分たちが直人の部屋に来る時は必ず何か食べるものを持参していた。


 友人同士で奢ったり奢られたり、そういうことは無きにしもあらずだったが、直人自身、腹が減れば近くのコンビニで何か買ってきていた。彼の母親に至っては言わずもがな。


 直人の部屋にあるシンクとは基本的に片付ける場所であって、何かを作る場所ではない。洗いおけも三角コーナーもないステンレスは必要以上にシンプルに見えた。


「他に食べるものがありそうな場所……」


 キッチンの向こうはリビング兼ベッドルームだ。そこには小さなテーブルと直人のベッド、ノート型パソコンのディスプレイと同サイズの液晶テレビとプレイステーション3が置いてある。


 その他は、床の上に積み上げられて端に追いやられている雑誌やマンガ、脱ぎっぱなしの服。そんな程度だ。そこで、ふと啓介は表情を変えた。


「そう言えば、あいつが感染したのって一ヶ月くらい前って話になってなかったか?」


 普通に考えれば、一ヶ月前に食べた物を思い出せと言われて答えられる者などそうそういるはずもない。ついでにその食べ物が残っている可能性もまず無い。その事実に思い至った時、啓介は祖父の家からうまく追い出されたことに気付いた。


 直人の部屋を調べろと言われなければ、おそらく自分は治療法の確立に首を突っ込もうとしていたはずだ。


「やられた……」


 舌打ちしながら、啓介は乱暴な仕草で座り込む。過去に幾度となく似たような手口で蚊帳の外に追い出された経験があるというのに、またしても祖父の口車に引っかかってしまったらしい。


 そう思った瞬間、これまでの緊張の糸が一気に切れて、疲労がどっと押し寄せてきた。一日中走り回ったのは、久しぶりだったような気がする。床の上にあるものを避けて、啓介は冷えたフローリングの上に上体を横たえる。


 一晩中遊んで、疲れて、気が付いたらこういった姿勢で寝ている。直人の部屋ではよくある光景だった。


 何の気なしに左側に視線を向けた。押入れが見える。そう言えばあそこはまだ調べていなかった。どうせ布団かエロ本しか入っていない。


 それに、祖父に騙されたと分かっていてなおも感染経路を探すのは非常に馬鹿馬鹿しい。いったん視線を逸らす。だが、やはりそちらに視線を向けてしまっていた。


 戸が半開きになっている。だから余計に気になった。


“子供のころからいつも言ってるでしょう? ドアはきちんと閉めなさいって! 半開きのドアからは、お化けが覗くのよ”


 体は疲れている。脳みそも休息を求めている。だが、中途半端に開いた押入れのドアが妙に気になってしまう。いつもは賑やかな直人の部屋に、今は自分ひとりという状況も拍車をかけていた。


 無言で、啓介は起き上がる。誰も見ていない。自分の頭の中でどういう思考回路が成立したか、誰にも話していないのだからバレるわけもない。自分に言い訳をしつつ、啓介はさっさと戸を閉めようとして、その手を止めた。


「なんだこれ」


 下の段に、無地の段ボールが置いてある。蓋は開いたままで、そこにペットボトルが三本ほど並んでいるのが目に付いた。興味を引かれ、戸を全開にする。


 取り出してみると、透明なペットボトルにはラベルが張っていなかった。キャップを見る。白いキャップもまた無地で、賞味期限さえ書いていない。中身は見たところ緑茶のようだった。


 ペットボトルの中身は微かに濁っていて、一見して緑茶の成分が浮遊しているように見えなくも無い。啓介はペットボトルを部屋の蛍光灯に翳してみた。よくよく目を凝らす。啓介には分かった。それがハエの卵であるということが。


 啓介は慌ててスマートフォンを取り出す。祖父の番号を呼び出そうとして、例の刑事から十件近い着信があったことに気が付いた。電車に乗った際にマナーモードにしていたので気が付かなかったらしい。


「なんなんだよ、今度は……」


 面倒そうに呟き、啓介はとりあえず祖父の番号に発信した。

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