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「γ‐アミノメチオニン加水分解酵素? 何だそりゃあ」
顔を引き攣らせながら、矢沢は舌を噛みそうな名前を反芻した。睦月教授の所へ行っていたという啓介から呼び出しを受けた矢沢と黒木は、問題の少年を駅前のロータリーで出迎えた。
時計の針は既に終電の時刻を差している。
「その酵素は、遺伝子操作をしたかどうかの目安になるんだ。つまり、例のウジは遺伝子操作を受けたってこと」
啓介が口にした言葉に、後部座席の矢沢と運転席の黒木は眉間に皺を寄せていた。そんな彼らの様子には構わず、矢沢の隣に座っている啓介は言葉を重ねる。
「今から一年と三ヶ月前まで、じいちゃんの研究チームが、ハエの幼虫を使った人体への医療アプローチを段階的に開発しようとしていたらしい」
矢沢は僅かに目を見開いた。
「マゴットセラピーの応用のようなものだって。マゴットセラピーの場合は、糖尿病なんかが原因で壊死した組織を敢えてウジに食わせて治療するだろ? それなら、自分の細胞から出来た異型細胞。つまりガンの治療もできるじゃないかって、そう思ったのが始まりだったんだってさ」
「ガンの治療法を開発しようとしてた? ウジを使って?」
矢沢は顔色を変えて少年を見やる。思わず座席から腰を浮かせていた。
「ちょっと待ってくれ。そんなことが可能なのか? いくら何でも無茶だろ? だいたい……」
「結論から言うと不可能。だけど百パーセントじゃない」
身を乗り出した矢沢を一瞥し、啓介は小さく息をついてから話を始めた。
「クリプトバイオーシスって知ってる?」
「知るわけねえだろ」
「だよね」
人生で初めて聞いた単語がこの短時間で二つ目だ。メモを取っているにも関わらず、すでに最初の単語は忘れてしまった。百回書いても覚えられそうに無い。
「クリプトバイオーシスっていうのは、その生物と環境との相互作用が一切行われない状態。物質代謝が完全に停止しているから、科学的に平衡を保っている状態とも言う」
「意味が分からん。つまり、どういうことだ?」
矢沢の顔を見て、啓介はこれみよがしに溜め息をついてみせた。
「代表的なのは、ヒルトンっていうイギリスの昆虫学者が研究、記述したポリペディリウム・バンデルプランキの幼虫」
「日本語で話せ、頼むから」
「無理。このハエには日本語の名前が付いてない。で、このハエの幼虫は、高度七五十メートルから千四百メートルにある花崗岩のくぼみの中で成長するんだよ。極度の乾燥だけならばまだしも、雨水で水没した穴の中でも十年近く生き続けることができるんだ」
想像してみた。水没した穴の中で十年。普通に考えれば生きていられるはずはない。ところが、少年はそんな状況でも生きていられるハエの幼虫がいるという。
「パウル・シャッセンベルク曰く“ポリペディリウムに行った実験によって、命の限界が大きく押し広げられた”」
「だから何だ。それがどうした」
英単語が連続すると脳が拒絶反応を起こしかける。年代が年代であるせいか、どうにも横文字が続く話は苦手だった。
「まあ、聞けよ。ポリペディリウムの幼虫は、二百度に熱せられた場合、そのうちの二十パーセントは生き延びる。逆に、マイナス百九十度の液体窒素に二十七時間浸しても生存できる。液体ヘリウム、グリセロールの場合も同様。ホルマリン固定された人体の中で数年間生きていたって例もある」
現実味がない。少年の話を聞いて、矢沢は率直にそう思った。
「ハエってね、実際のところ日本人が思ってるより数百倍タフなんだよ。よくハエとサソリと、それからG。あいつらは全面核戦争が起きても生き残れる、なんて言うだろ? それって、こういう意味」
そこでいったん、少年は言葉を切った。矢沢は彼が口にしたG、という単語の意味を一瞬考え、すぐにゴキブリの隠語だと気付いた。
「で、じいちゃんたちの研究チームは、卵殻に包まれた状態だったら、少なくとも数年間はクリプトバイオーシスを保てるように人工的に操作したハエを作り出したんだ。破られるきっかけは人間の消化酵素に触れた時。つまり口から食べられて胃に入った時」
「それで、うまくいったのか」
「さっき言っただろ? 結論から言えば無理だって」
呆れたように言われて、矢沢は少しばかり苛立ちを覚えた。だが、ここは余計なことは言わずに黙っておくことにしておいた。
「正直、問題点を挙げていけばキリがないよ。でも、技術的には百パーセント不可能とは言い切れないんだ。人の体の中で生存できて、それでいて狙った標的にだけ強い嗜好性を示すマゴット。俺には、このハエの幼虫を使った治療が実現不可能だとは言い切れない」
何か言いかけた矢沢を身振りで制して、少年は言葉を続けた。
「問題点を挙げれば、まずは幼虫の成長。誰でも知ってることだけど、幼虫は普通、充分に栄養を取ったらサナギになって成虫になる。それじゃ困るんだよ。だから、この問題を解決するために、じいちゃんたちはエクジソンっていうホルモンを制御したらしい」
つまり、サナギになれない、ということだと彼は少々面倒臭そうに付け加えた。
「次に寿命の問題。ホルモンを制御されて、サナギから成虫になることができないウジは、どいつもこいつも普通より二十パーセント近く早く死んじまうんだと。それじゃ駄目だろ? だから、延長ファクターを活性化させたんだ」
「え、えんちょーファクター……」
またしても初耳の単語が飛び出してきた。
「バクテリアからヒトまで、単細胞・多細胞に限らず、その体内に細胞を有している生命体は、その細胞内においてDNAの複写、たんぱく質の合成など、様々な生産を行っている。しかし、ある時期がくるとその生産能力に乱れが生じ、やがて何も生み出せずに細胞死を迎える。これが、いわゆる老化現象である」
まるで教科書でも朗読するように、少年はスラスラと口にした。金髪がもったいなく思えるほど大人しそうな見た目の割りに、寄生虫のこととなるとよく喋る。
内心、矢沢は驚きを通り越して呆れていた。
「そして、老化には必ずたんぱく質の合成が減少しているんだ。確認済みだよ。それで、このたんぱく質の一部を、ゲーリング博士らは延長ファクターと名付けて、これを活性化させることによって長寿のハエを作り出すことに成功したんだ。人で言えば二万年近く生きたことになる。すごいと思わない?」
問いかけられて、矢沢は微妙な表情をした。確かにすごいとは思う。科学の力で人が二万年を生きれるようになるというのは、まさしく人類の叡智、科学の進歩の結晶と言わずして他に言いようがない。
しかし、手放しで絶賛はできなかった。
「科学がどれだけ発展しても、死ぬのが怖いって気持ちは変わっちゃあいかんと思うがな」
少年がちらりと矢沢を見やり、そのまま何も聞かなかったかのように視線を真っ直ぐ前に向けた。
「それで、問題なのはハエの種類。何でもいいってわけにはいかないからな。それを限定するためには、それこそ試してみるしかなかったらしい。その結果、ヤドリバエが最も適正を示した」
矢沢は無意識に腕を組む。そして車の天井を見上げて、唸るような声を出していた。
「頭が痛くなってきた」
「聞きたいって言ったのはそっちだろ」
「そうだな。で、そのヤドリバエってのは、どんなハエなんだ」
軽く息をついて、矢沢は街頭の光に照らされた手帳に向き直った。ミミズが這うような字が並んでいる。一部、自分でも解読不能なものも混じっていた。
「ヤドリバエっていうのは、名前の通り、他の生物に宿るハエ。つまり寄生バエのこと」
寄生バエ、というその言葉を聞いて、矢沢と黒木は同時に顔を上げていた。
「ただし、人に寄生はしない。昆虫が主な宿主で、たまにムカデに寄生するヤツもいるらしい。ハエの中じゃあ一番種類が多いんだよ。いろんな種類の昆虫に寄生するために、分化が進んだんだろうってことになってる。昆虫そのものも、種類が多
いし」
この地球上で最も種類が多いのは昆虫類だということは、矢沢でも知っている。だが、そこでようやく湧き上がって当然の疑問が鎌首をもたげてきた。
「そのハエはマズイだろ。いくらなんでも危険過ぎじゃねえのか? だいたい、普通に考えればハエを治療に使うのはデメリットの方が多いだろうに」
矢沢の言葉に、啓介は小さく溜め息を落とした。
「俺もそう思う。それに、人間の体の中にうまく侵入させられたとしても、幼虫が免疫系統に捕まったら意味がない。抗免疫剤でも服用させたのかって聞いたら、じいちゃん、何て答えたと思う?」
分かるわけがない。小さく首を振ると、少年は眉間に微かな皺を刻んだ。
「免疫の問題を含めて、哺乳類の体の中っていうのは、ヤドリバエのウジにとって、やっぱり住み心地が良くないみたいだったんだよ。だから、じいちゃんは日本海裂頭条虫の遺伝子を組み込んでみたんだって」
一瞬、車内に奇妙な沈黙が落ちた。
「つまり、ウジのツラしたサナダ虫ってことか?」
背中に冷たいものを感じながら確認するように問いかければ、啓介は少しばかり意外そうな顔で頷いた。
「珍しく察しがいいじゃん。その通り」
矢沢が口を開きかけた時、運転席に座っていた黒木がふいに後部座席を振り返ってきた。
「けれど、結局のところハエには違いないんでしょう? だったら窒息死するんじゃありませんか?」
言われてみればその通りだ。矢沢は答えを求めて啓介の方を見る。
「そう思われてることって多いみたいだけど。実際はそんなことはない。寄生バエは、ちゃんと呼吸する方法を身につけてる。じいちゃんがヤドリバエを選んだのも、そういう理由からだと思う」
溜め息交じりに、彼は語った。
「忍者の、水遁の術って知ってる?」
予想外の言葉を聞いて、矢沢は少しばかり面食らった。もちろん知っている。水中に潜った忍者が、水面に竹の筒の先を出して呼吸していたという、嘘か真実か判別がつかない話だ。マンガやアニメでは御馴染みの光景である。
「寄生バエがやってるのは、それと同じことなんだよ。ただ、呼吸のために使うのは、竹の筒じゃなくて、宿主の白血球だけど」
「冗談でしょう?」
黒木の声は、微かに震えていた。
「本当だよ。それに、ハエウジ症を起こすハエは、普通腐った組織しか食べないんだけど、内部寄生するハエはむしろ健康な組織を食い散らかすんだ。これは遺伝子操作されたハエじゃなくて、自然に生息してるヤドリバエがやってること」
進化とは恐ろしい。矢沢はつくづくそう思った。人間の感覚では進歩は理解できても進化は決して理解できない。その身に感じる時間の流れは、進化を感じるにはあまりにも遅すぎる。
「ヤドリバエの一種に、ノコギリハリバエっていうのがいるんだ。カイコに寄生するハエなんだけど、このハエの幼虫は、カイコの中に入ったら、自分は一番栄養が豊富な消化器官の近くにいて、カイコの体の中に気管を迷路みたいに張り巡らせて呼吸する」
「気管? 気管ってどういう意味だ」
聞き返せば、少年はやはり呆れたような顔をする。
「言葉のままだって。呼吸するための器官。寄生バエは、宿主の白血球、つまり免疫機能を使って、漏斗みたいな形をした気管を宿主の体の中に作るんだよ。それを体表部分か、場合によっては宿主の気管に貼り付けて呼吸する。好酸球が増加してないはずだよ」
そう言った後で、彼は俯き加減に視線を落とした。
「直人の背中にも、湿疹みたいな赤い斑点がたくさんあった。まず間違いなく、ウジが呼吸するために開けた気門だと思う」
矢沢は自分の腕が粟立っていることに気付いた。
「啓介くん。もし仮に、ウジが呼吸するために開けた穴を塞いだらどうなりますか? 退治することは可能ですか?」
黒木は、緊張するとやけに一語一句をはっきり口にする癖がある。今はまさしくその傾向が滲み出ていた。
「止めておいた方がいいよ。アフリカのヒトクイバエなんかだと、ウジがいる穴にワセリンかパラフィンを塗れば窒息させられるけどね、そんなことしたらウジが一斉に皮膚を食い破って出てくる」
その言葉を聞いて、矢沢ははっとした。
四番目の被害者、坂下詩織。その死体からはメンソール系の臭いがした。すぐ近くのテーブルの上には、虫刺され用の軟膏が置いてあった。
塗り薬で呼吸孔が潰れ、体内にいたウジが一斉に溢れ出たとしたら、あの不可解な死に方にも説明がつけられる。
「一応聞くが、仮に塗り薬を塗ったとして、実際に死亡するまでどれくらいかかる?」
矢沢の質問に、啓介は、少しばかり考え込むような仕草を見せた。
「それは、一概には言えない。呼吸できなくなったウジがどこに出てくるかによって違ってくる。それこそ、皮膚の上に出てきただけなら死ぬことはないかもしれない。運が悪ければ感染症に罹るかもしれないけど。でも、皮膚に出ずに、体の中を動き回って、脳とか中枢神経に入ったら、場所によってはもう手の施しようがない。いわゆる幼虫移行症ってヤツだけど、脳出血みたいに、いきなり倒れて死亡する可能性だってある」
矢沢はなるほど、と低く呟いた。幾度目ともしれない沈黙が落ちる。通り過ぎていく車の走行音や、若者の笑い声が遠い世界の出来事のように感じた。
「それで、お祖父さんの研究はその後どうなったんですか?」
妙に静かな声音で、黒木が質問を投げかける。どこともしれない場所を見つめていた少年の視線が、彼女を捕らえた。
「サナダ虫と言えば大食漢。ハエと言えば悪食。その二つが一緒になった生物は、じいちゃんたちの予想を遥かに上回る勢いの食欲を見せ付けてきたんだって。とても制御できるようなものじゃないよ。それで、体の中を動き回って、どんどん大きくなって、それで業を煮やしたように皮膚を突き破って皮膚の上に出てくる」
それはまさしく、矢沢たちが遭遇した奇妙なハエウジ症の証言そのものだった。
「俺が直人の背中から取って、じいちゃんのところに持って行ったウジの塩基配列と、じいちゃんの研究チームが実験段階で製作した、あるウジのグループの塩基配列が99.996%の割合で一致したって言ってた」
啓介の言葉を聞いて、すっからかんになっていた矢沢の頭の中に急速に血液が巡り始めた。
「どうしてそんなウジが世に出回ってんだ? 佐々木の息子とお前のじいちゃん、会ったことあるのか?」
彼の祖父が容疑者、という嘘が頭にあるのか、啓介は見るからに不快気な顔をしてみせた。
「あるワケない。それに、じいちゃんは実験で作ったウジも、実験に使った動物も、その死体も、何もかもきちんと規定どおりに処分したって言ってたよ。専門の業者があるんだ」
専門の業者、という言葉を口の中だけで反芻し、矢沢は腕を組んで視線を落とした。
つまり、処分するべきだった実験体を「持ち出した誰か」がいる可能性があるということだ。
「参考になった。感謝する」
手帳を畳み、胸ポケットにしまってから、矢沢は本心からその言葉を告げていた。曖昧に頷いた啓介は、照れくさいのか視線を逸らしてしまった。
「後はこっちに任せてお前は家に戻れ。おやじさんが心配してるぞ。送っていく」
啓介が何か言いかけた時には、すでに黒木がアクセルを踏み込んでいた。闇が満ちた住宅街を、三人を乗せたセダンが静かに進んでいく。駅から啓介の自宅までの約五分間、彼らはずっと無言に徹していた。
「それで、この後は?」
啓介を自宅まで送った後、黒木は矢沢の車が停めてある薬王木医院の駐車場へ向かって車を進めていた。
「さあてな。教授が嘘をついていないと仮定するなら、俺たちはそのハエを持って行ったっていう犯人を捜すだけの話さ」
「睦月教授は、国内においては寄生虫学の権威ですから、もし本当に治療法の確立に努めてくださるとしたら、ありがたい話ですね」
「もし本当に治療法を確立させてくれるなら、な」
面倒臭そうに言った後、矢沢は無人の駐車場に下り立ち、星ひとつ見えない夜空を見上げた。
「俺はこれから署長に報告しに行ってくる。お前はもう帰れよ。子供が寂しがってるだろ?」
子供、という一言を会話に挟み込むと、黒木はそれまでの刑事としての顔の中にほんの一瞬だけ母親の顔を垣間見せた。
つくづく思う。女というのは、同じ人間でありながら様々な顔を持つ生き物だと。
しかしながら、すぐに仕事の顔に戻った彼女は、どこか申し訳なさそうに一礼した。そんな彼女を、矢沢は片手をヒラヒラさせて早く帰るように促してやった。
遠ざかっていくエンジン音を見送り、矢沢は軽く息をついて自分の車に乗り込んだ。
人通りの無くなった夜の住宅街を走らせながら、矢沢は軽く息をつき、胸ポケットのタバコに手を伸ばす。車内のデジタル時計に視線を向け、陰鬱な表情を浮かべたところで手にしたタバコの箱が空になっていることに気付く。
誰の目も気にする必要も無い孤独な車内で、矢沢は激しく顔を顰めながらタバコの箱を握りつぶした。しかし、手の中でクシャクシャになってしまった箱の中に最後の一本が残っていたことを感触で知って、彼は激しく肩を落とす。
「ツイてねえ」
吐き捨てるように言って、矢沢は目に付いたコンビニに車を滑り込ませていた。箱の中に隠れていた最後の一本は、別名「希望の一本」とも言う。
ニコチン禁断症状に陥っている「今」を凌ぎ、コンビニに新しいタバコを買いに行くまでの希望を繋ぐことができる、という喫煙者にしか分からない希望だ。
重度のニコチン中毒に陥っている喫煙者にとって、ニコチンが切れることは三度の飯を一週間抜かれることより恐ろしい。その希望を自らの手で握りつぶした矢沢の気分は、まさしく最悪の一言に尽きた。
一般市民には決して理解してもらえないが、警察官とはとかくストレスの多い仕事だ。中には日々の激務からくるストレスに耐え切れず、自殺という手段を選ぶ者も少なくは無い。
「どの職場でも同じか」
タバコを手にレジに向かいながら、自嘲するように呟く。アメリカの警察官はストレス発散のために押収したマリファナなどの薬物を吸うという。
警察官という立場上、人一倍モラルや常識、正義感を求められるのが当然とされる日本では、彼らのような警察のストレス発散手段は必然的にタバコに限られてくる。
しかしながら、ただでさえ高齢化社会で毎年のように増大していく医療費を何としても押さえ込みたい厚生労働省からしてみれば、様々な病気の起因となるタバコを吸う人間は非常に厄介であるに違いない。
タバコ業界の悲鳴など鼓膜を素通りしてしまうらしい。タバコに課せられる税金は上げられることはあっても下げられることはない。金銭的な意味でも、社会的な意味でも、日本という国は、喫煙者にとっては非常に居心地が悪い。
矢沢は、子供や高齢者の傍で平気な顔をしてタバコをふかす連中を見て腹が立つ一方、コンビニでタバコを購入するだけで汚物のような視線を向けられることが辛く感じることがある。
そう言えば、別れた妻も娘もタバコの臭いが嫌いだといって顔を顰めていた気がする。彼女たちが嫌っていたのが果たしてタバコの臭いそのものなのか、それともそこから連想される矢沢自身なのか、今となっては確かめる術はない。
車の運転席に腰を沈めながら、矢沢は幾度目とも知れない溜め息を零した。
脳裏を、虫に食い荒らされながら孤独に死んでいった老人たちの姿が横切っていく。ウジの存在はともかく、部屋の中で人知れず腐って溶けていったかつて人間だった肉の塊に、矢沢自身の名が送られる可能性は決して低くはないだろう。
死体は惨めだ。
命をなくせば、それはもう肉の塊に過ぎない。遺族の悲しみを和らげるための別れの儀式、埋葬という手順を踏まなければ、人であろうとネズミであろうと、自然のルールに従って分解されていく。
しかしながら、その過程は、見た目にはひどくグロテスクではあるものの、人の感情を挟み込む余地を許さない一種の超然としたものが確かに存在している。
だが、矢沢は死体の「顔」を見るのが苦手だった。職業柄、目の前に死体があれば身元の確認をしないわけにはいかないのだが、どれほど腐敗していても、言葉より雄弁にものを語る視線を繰り出す眼球そのものが溶けてなくなっていたとしても、なぜか「顔」にはその人が生きていた時の面影、あるいは人間性が残されている。
肉の塊の中にそういった人間らしさを垣間見てしまった時、自然現象に過ぎない腐敗というものがひどく残酷なものに思えてきてしまう。
理不尽に命を奪われた被害者の顔にはその無念が、誰に見取られることなくひっそりと死した老人の顔には深い孤独が、絶望の中で自ら命を絶った者の顔にはその辛苦が、確かに刻み付けられているものだ。
不思議なことに、ほとんど白骨化しているような死体でもその傾向は変わらない。
そして、死体は事件性がありと判断されれば警察が持って行って司法解剖するが、自殺かあるいは自然死と判断されれば専門の業者が回収することになる。
死体が死後、間もないうちに発見された場合は、それこそ賃貸住宅などで「いわくつきの部屋」としてそれなりの扱いを受けたり、怪談話のネタにされる程度の話で済む。
しかし、腐敗がかなり進んだ状態で発見された場合はいろいろと大変である。ドロドロに溶けた遺体はとてもそのまま回収できるようなものではない。
スープ状になった肉はスコップですくい、バケツに入れて運び出す。虫も大量に涌いている。最後を迎える場所が必ずしもベッドの上だとは限らない。トイレで倒れ、そのまま息を引き取った場合は、便器の裏側にまで溶けた肉や消化液が流れ出す。
何より、腐敗が進んだ遺体は相当の悪臭を放つ。夏場、台所に放置した生ゴミが臭うような比ではない。畳を交換した程度では、とても臭いは消えることなどない。
男だろうが、女だろうが、若かろうが、年老いていようが、美男美女だろうが、不細工だろうが、金持ちだろうが、貧乏だろうが、死ねば腐敗する。
誰も未来のことは分からない。今が幸せな人間が必ずしも安らかな死を迎えるとは限らない。悪臭を放つ、溶けて醜い肉の塊。自分自身が、そんなおぞましい姿をさらす可能性は決してゼロではない。
矢沢はパッケージを破り、取り出したタバコに火をつけた。タバコを吸っているこの瞬間だけは無心でいられる。過去に向かって走ることができない自分に、未来はどこまでも陰鬱な顔のまま両手を広げて待ち構えている。
年を取れば取るほどに、過去と同様、未来もまた自力で変えることができないものへと変わってしまうものらしい。
備え付けの灰皿に吸殻を押し付けると、曲がりくねった吸殻が床に散らばる。拾い上げることもせず、矢沢は携帯電話を取り出した。不慣れな動作でタッチパネルを操作し、村迫課長の番号を呼び出す。
耳に聞こえる機械音が回数を重ねるごとに、矢沢の表情から疲労と倦怠感が消えて行った。




