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 揺れる電車の中は閑散としていた。疲れた顔でイスに座っているスーツ姿の男に、派手な化粧をした同年代の少女、そしてどこかやつれた雰囲気をまとった中年の女。


 やけに広々として感じられる車内には、啓介を含めてたったこれだけの人間しかいない。ほんの数時間前まで押し寿司さながらの状態で込み合っていた車内からは、到底考えられないような光景だった。


 啓介は携帯電話を握り締めたまま、目的の駅に到着するのを今か今かと待ち続けていた。普段は感じたことがないほどに、電車の速度が遅く感じる。


 乗車する客も無ければ降車する客もいない途中の停車駅で電車が止まる度に、胸の内に渦巻く苛立ちがより一層強くなる。のんびりとした車掌のアナウンスにまで神経を逆撫でされた。


 自分の車があれば、と窓の向こうを走る高速道路を眺めながら啓介は思った。誰の都合を気にするでもなく、誰の都合に合わせるわけでもなく、自分の都合で自由に動ける。


 そう思うと、卒業するまでは教習所に通うことは認めないと言っている自分の高校の規則が憎たらしく感じた。


 田舎の高校であれば、卒業後に大学へ通学したいからという理由で夏休みに教習所に通わせてくれる学校もあると聞く。公共交通機関が充実している都会に住んでいると、おかしなところで不便を感じるものだ。


 ようやく車両が目的の駅へと滑り込んでいった。ドアが完全に開き切る前に、啓介は車両からホームへと飛ぶように降り立ち、同時に改札へ向かって走り出した。


 自宅があるベッドタウンとは違い、さすがは首都と言うべきか。こんな時間であるにも関わらずまだまだ人通りは途絶えていない。時折、迷惑そうな視線を投げられながらも、啓介は全力で駅を抜けてタクシーへと飛び乗った。


「あの車の後を付けてくれ! って言われるかと思ったよ」


 随分と慌てた様子で飛び乗ってきた啓介の様子を見て、タクシーの運転手は冗談めかした声音でそんなことを言ってきた。目的地が大学だと告げられた時の少しばかり残念そうな顔を思い出しつつも、啓介はひたすら無言を貫いた。


 途中、祖父に電話をかけたが繋がらなかった。研究に没頭しているのか、それともただ単に電話に出るのが面倒で放り投げているだけか。啓介は苛立たしげに携帯電話をズボンのポケットに突っ込んだ。


 と、同時に、ポケットの中の電話が着信を告げる。ディスプレイには祖父の名が表示されている。飛びつくような勢いで、啓介は通話ボタンをタッチした。


「じいちゃんか!? 今どこ!?」


 意外なことに、自宅だという答えが返って来た。その理由を考えることもなく、啓介は咄嗟にタクシーの運転手へ目的地の変更を依頼していた。


 いろいろと分かったことがあるから、直接話したい。手短にそう言って、祖父からの電話は切れた。


 啓介自身も相談したいことは山ほどあったが、無関係な運転手が耳をそばだてているというこの状況で、個人の名誉が絡むような事柄を口にすることは感情的に憚られた。


 啓介は眉根を寄せながら、冷えた窓に額を寄せる。画用紙のように白い彼の顔に、大都会の明かりが色彩を投げかけていく。瞬く間に変化していく照明がやがて仄明るい乳白色ただ一色に変わったころ、啓介を乗せたタクシーは目的地へと到着した。


「ばあちゃん! 俺! 開けて!」


 気だるげな雰囲気でインターホンを取った祖母が、どちらさまですかと言うより先に啓介は自分の用件を伝えていた。


「俺、なんて知り合いはいませんが」


「啓介だよ!」


 オレオレ詐欺の流行があって以来、玄関の扉を開ける際に祖母がワンクッション置くのが通例になってきている。今更だが、オレオレ詐欺と命名した者は全くもって良いセンスをしている。


 実際、顔なじみの相手であれば名乗ることなく「俺」で済ませることは本当に多い。ややあって開かれたドアの向こうに現れた祖母の顔にはあからさまに不機嫌です、と書いてあるようだった。


「何ですか、こんな時間に。しかも大声で。ご近所に迷惑でしょう」


「ごめん、後にして! じいちゃんは?」


 靴を脱ぐことさえもどかしいと言わんばかりの勢いで上がりこもうとする啓介を、祖母は何ともいえない顔で見つめていた。冷たくさえあるその視線が、半開きのままの玄関の扉に向けられる。


「子供のころからいつも言ってるでしょう? ドアはきちんと閉めなさいって。半開きのドアからは、お化けが覗くのよ」


 啓介は瞬間的に回れ右をして、玄関のドアをきっちりと閉めていた。満足げな顔をした祖母が何か言うより先に、目的の人物が奥の書斎から姿を現す。


 放り投げたスニーカーを見て、祖母が溜め息をつくのも構わず、啓介は早足で祖父の書斎へと入っていった。


「じいちゃん、大変なんだ!」


 いつもならば、祖父の書斎に並ぶ数々の寄生虫関連の名著は必ず手に取る。取らずにはいられない。


 しかしながら今日ばかりはさすがの啓介も本には目もくれず、ソファに座ることさえせずに事の顛末を祖父に語っていた。


「じいちゃん、逮捕されるぞ!」


「そんなことより、とにかく座りなさい」


「そ、そんなこと?」


 警察が容疑者として祖父を調べている、という話のくだりではさすがに眉を動かした祖父だったが、いつもの落ち着いた物腰を崩すことなく、一気にまくしたてる啓介を座るように促してきた。


「何でそんなノンビリしてるんだよ!」


「やってないことはやっていない。だから慌てる必要性を感じない。それだけだ。それより」


 言われるままソファに腰を沈めた啓介に、祖父はクリアファイルに挟まれた数枚の書類を出してみせた。


「刑事さんたちはある意味、正解だと言える」


 何の変哲もないコピー用紙には、先日祖父に依頼した不可解なウジの分析結果が印刷されている。項目を順番に目で追っていた啓介は、ふいに顔色を変えた。啓介の反応を見て、祖父はどういう意味だか、ただ頷いて見せた。


「そんなことじゃない。問題は、そんなことじゃないんだ」


 啓介の脳裏に焼きついて離れないのは、くたびれた雰囲気を纏った刑事が語ったあの言葉だ。


「じいちゃん、時間が無いんだ。刑事のオッサンが言ってたんだけど、このハエウジ症に罹ったヤツは、ほとんどが三日で死亡するらしい。直人はもう……」


「正確には、ウジが体表面に認められるようになってから三日という意味だろう。啓介の友達の背中からウジを初めて除去したのが二日前、か」


 祖父の眉間に刻まれた皺が一層深くなった。啓介は腰を浮かせながら質問を繰り出す。


「プラジカンテルはどう? 効くかな」


 祖父は少しばかり考え込むように視線を落とす。


「試してみて損はない、と思う。だが、必ずCTで脳内にウジが寄生していないことを確認してからだ。プラジカンテルに感受性があった場合、脳で虫体が壊れれば、それが原因で脳血栓を引き起こす」


「有鉤条虫と一緒か。厄介だな」


 吐き捨てるように言った孫を見やり、祖父は膝の上で指を組んだ。


「今日の午後、当時の研究チームを再結成した」


 顔をあげた啓介に、祖父は小さく頷いてみせた。


「今現在、全力でウジの駆除方法を模索している真っ最中だ」


 力強い言葉を聞き、安心する一方で肝心の祖父が自宅に居るという事実に疑問を覚えた。率直に聞くと、祖父は困ったように苦笑いを浮かべる。


「実験の結果待ちの時間が空いたんでな。ばあさんの手料理を食べに帰って来たんだ」


 その言葉ですべてを納得した啓介は、黙って口をつぐんだ。余計なことを聞くと、たいてい年甲斐もない惚気話に付き合わされるハメになることは経験上、知っていた。


「わしとばあさんの二人のルールはともかく、今のところお前が気をつけることは、特に感染者の周囲で無闇に食べ物や飲み物を口にしないことだ。あのハエの卵が何に混入しているか、見当もつかん」


 少し考えて、啓介は口を開いた。


「それ、どういうこと……?」


 ほんの少しの間を置いて、祖父はファイルに入れられたもう一種類の書類を差し出してきた。啓介は素早くそれらに目を走らせる。顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。


「……ウジには感染力がない?」


「ない。卵の状態で経口摂取されなければ寄生することはない」


 即座に、祖父は否定した。


「だけど……」


「実験で証明されている。ウジは卵の状態でなければ寄生できない」


 啓介は幾度か頷いて腕を組んだ。とりあえず、寄生形態についてはその答えで納得することにした。


「一応、聞いてみるんだけど、こういうさあ……なんて言うの。未知の病? そういうのが見つかった時って、役場の人とかが何かしてくれるんじゃないの」


「伝染性があるわけじゃあないからな。新種の伝染病として登録されれば行政から援助を受けられるんだが、今回に限っては難しいだろう。ましてや、自然災害ならまだしも明らかに人災となれば、動くのは行政ではなく司法の手だ」


 祖父は額に手をやりながら苦渋に満ちた顔で呟いた。祖父の言った言葉の意味がいまいち理解できなかった啓介は、苛立たしげに金色の髪を掻き回す。


「なあ、じいちゃん。むしろ治療法を探すより、その……」


「それは警察に任せておけばいい。お前が手を出すような話じゃあない」


 啓介は閉口した。


「直人くんは、病院で抗生剤の投与を受けながら、ウジの除去もしているんだろ?

 それなら、ほんの少しでも引き伸ばせるかもしれない。ところで、せっかくお前と話ができるんだ。聞いておきたいと思ったことがある。ここ最近の直人くんの行動を思い出してくれ。何か、変わったことがなかったか?」


「変わったこと?」


「そう。変わったこと。人間の臨床例は当然だがゼロだ。あのウジに感染した場合にどういう初期症状が出るのか、分かることがあるなら教えてくれ」


 言われて、啓介は唸るように考え込んでしまった。直人は今、とても会話ができる状態ではない。となれば、彼と一番よく時間を共有していた啓介しか、ここ数日の直人の行動を知る者はいないということになる。


 啓介は天井を見据えた。一緒にいるのが当たり前になってしまっているほど時間を共有した相手。その行動で、普段と違うところを指摘しろと言われたところですぐに答えが見つかるようなものではない。


「簡単なことでいいんだ。背中にウジが認められるようになる前、そうだな……まずは、四日前」


 啓介が普段、寄生虫以外で、まず使うことがない脳みそから記憶を引きずり出す手助けをするように、祖父はそんなことを言ってきた。そして四日前と言われた啓介は反射的に壁にかけられたカレンダーへと目をやっていた。


「四日前、直人くんの様子はどうだった? 風邪をひいたような素振りはなかったか? 逆に、いつもより元気そうだったということはないか?」


 ここ数日は直人のことでバタバタと走り回っていたり、感情的にも波風たつことが多かったせいで記憶に残る出来事は多い。


 だが、それ以前ともなれば、何をして時間を潰していたのかさえ曖昧な自堕落な日々を送っていたため、思い出せるような記憶がない。


「メールのやりとりはしていないか? 相手は直人くんでなくてもいい。誰と、どんな内容のやりとりをしていたか、それを思い出すだけでも芋づる式に他の記憶を取り戻すきっかけになる。フェイスブックやミクシーは? 知り合いの日記やら報告やらを読んでもかなり違うぞ。あとは、何と言ったかな、アレだ。つぶやいたー……じゃなくて」


「ツイッター?」


 孫に訂正され、祖父は静かに頷いた。啓介は自分のスマートフォンを取り出し、ここ数日の記録を呼び出した。携帯電話と睨みあいを始めた啓介を見た後、祖父は何か思いついたように席を立った。


「直人くんを診ているのは薬王木くんだっただろ? 知り合いのよしみで、ちょっとばかりカルテを見せてもらえるかもしれん」


 言われて、啓介は薬王木は祖父の教え子だったということを思い出していた。祖父の背が書斎から見えなくなる直前、啓介ははっとしたように立ち上がる。


「じいちゃん! ヤバイ! 薬王木先生、プラジカンテル使うかもしれない! 俺がそう言ったから!」


「分かった。説明しておくよ」


 祖父の答えを聞き、啓介はソファに座りなおして、改めてスマートフォンに視線を落とした。ちょうど四日前、直人のアパートに頻繁に顔を出す友人のひとりから合コンの誘いがかかっていた。


 直人が一緒にいるなら、彼にも聞いてみて欲しいという主旨のメールを読み返し、啓介はその前後の記憶を必死で探った。


「確か、直人は行かないって言ったんだ。面倒臭いとか何とか」


 それなら自分も行かないと言った。あの時、ちょうど直人は恋人と別れた直後だったはずだ。新たな出会いを拒否したのはそのせいかと勝手に解釈していたが、あの時から体調不良を感じていた可能性はある。


 思えば、その時の直人はベッドに寝転んでページが捲られることのない雑誌を抱えたまま、いつもにも増して静かだったような気がする。


「一週間前には、スケボーしに行って……」


 市街にある大型ショッピングモールの裏手には、スケートボードを楽しむ若者たちには格好のスペースが用意されている。普段は上級者が占領し、派手な技を見せ付け合っているような場所なので、とても練習どころではない。だから、啓介たちは夜中に違法侵入してスケートボードを楽しんだ。


「直人はあまり滑ってなかったな。ケータイいじってたり、俺らが滑ってるの見てたり……」


 そこで啓介はふと表情を変えた。そして真剣にメール記録を辿っているところへ、ちょうど祖父が戻ってきた。


「何か思い出したことはあるか?」


「一ヶ月くらい前に、直人がやたら元気だった時期があった」


 啓介の報告を聞いて、祖父は改めてソファに深く腰掛けた。


「ちょうど二週間くらいかな。元気っていうか、むしろテンション高いっていうか。直人のヤツ、バイトから帰ってきて、そのまま朝方まで松野たちとスケボーしに行くんだよ。そんで明け方に帰ってきてそのままバイト行くんだ。で、次の日に帰ってきて三時間くらい寝たかなって思ったらすぐ起きて、またスケボーしに行ってきたりしてさ」


 松野たちは覚せい剤にでも手を出したのでは、などと笑いながら言っていたような気がする。


 だが、誰もそんなことを信じていなかった。おかしくもないのに笑い出したり、目に見えて異常な行動を取ったりするのならば話は違っていたかもしれない。


 しかし、直人は四六時中やたら機嫌がいいだけで、特に一緒にいる者を不安にさせるようなことはなかった。上級者レベルの技に無謀な挑戦をし、無様に転げる彼を見て、啓介たちは腹を抱えて笑っていた。


「食事は? きちんと取っていたか?」


「もちろん。むしろ、よく食ってたかな」


「……普通に考えれば、若さゆえだという話になるなあ」


 どこか羨ましげに呟いた祖父は、微かに表情を緩めた。


「じいちゃん、種類にもよるけど、サナダ虫に寄生されたら逆に体調が良くなるっていう話があるだろ? アレルギー反応を抑制したり、とか。直人の場合も、もしかして……」


 花粉症が治った、アトピーが消えた、コレステロール値が下がった、高血圧が改善された、体重が減ったなどという話はサナダ虫に感染した者に付いて回る話である。


 事実関係が立証されたわけではないが、かといって全くのデタラメとも言いがたい。啓介の意見を聞いて、祖父は軽く眉間に皺を寄せた。


「直人くんにアレルギー疾患は?」


「そんなことまで知るわけないっての」


 ネギと納豆とグリーンピースが嫌いで食べられないということは別にして、直人が特定の食品に対してアレルギーを持っているという話は聞いたことがなかった。


 今の段階で分かることは、一ヶ月前の一時期、直人が妙に精力的だったというそれだけだ。


「なあ、じいちゃん。それで、若先生の方はなんて?」


 問いかけられて、祖父は小さく頷いた。


「連絡はついたよ。プラジカンテルのことは間に合った。明日の朝一番に処方しようとしていたとかでね。ただ、病状を聞こうとしたところで薬王木くんに呼び出しがかかってね、電話を切られたんだ」


 ほんの一瞬の沈黙が落ちる。


「直人くんの病状が心配だな」


「……悪化したのは、一緒に入院してるじいさんの方かもしれねえじゃん」


 言った後で、啓介は閉口した。まるで老人の不幸を願っているかのような言い方をしてしまった自分に嫌悪感を覚える。祖父が何か言ってくるかと思ったが、それについては言及されなかった。


「ここでじっとしていても仕方がない。啓介、人手が足りないんだ。直人くんのアパートに行ってくれないか」


「え?」


「感染源を探すとしたら、まずは身近なところからだ」

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