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 佐々木直人の容態が安定したのを確認し、薬王木はその場を看護婦に任せてから席を立った。その手に中島道夫の名が刻まれたカルテを抱え、彼は既に照明の落とされた廊下を進む。


 時刻は午後十時。消灯時間はとうに過ぎていたが、目的の患者がまだ眠っていないことは、廊下に漏れ聞こえてくる音からして明らかだった。


 開け放されているドアをノックして、軽く声をかける。ベッドが六つ並ぶ部屋は、今は中島の個室となっていた。


「すみません、こんな時間になってしまって。お加減はいかがですか」


 薬王木が顔を見せると、どこか虚ろな表情でテレビ画面を見つめていた老人がゆっくりと彼に視線を向けた。まだ麻酔が効いているせいか、骨折した脚部に痛みは感じていないらしい。


「もう消灯時間なので、そろそろ休まれてください。麻酔が切れればまた痛みが戻ります。眠れるうちに休まれた方が……」


「死ねなかったんですよ」


 中島老人がぽつりと漏らした言葉に、薬王木は小さく息を呑んでいた。


「死のうと思ったのに……。気が付いたら助けを呼んでた。私は自分が情けない……」


 中島道夫の怪我は、階段から落下したことによる事故だということになっている。しかし、真相はどうやら違うらしい。薬王木は小さく息をついて、備え付けの椅子に腰をおろした。


「何が、あったんですか」


 チラリとカルテに視線を落とせば、中島は独居老人との情報が書き込まれている。ひたすら孤独に苛まれ、他人との会話に飢えているものは、誰かがその話を少しでも聞いてやれば、それだけで自ら死のうとする意志を改めることがある。


 薬王木はなるべく穏やかな表情を浮かべたまま、中島を見やった。


「体が、思うように動かんのですよ」


 くぐもった、非常に聞き取りにくい声音で中島は呟いた。消え入るような小さな声だったが、体の奥から搾り出すようなその声音には深い深い怨嗟のようなものが滲み出ていた。


「昨日できたことが今日にはできん。今日できたことが明日にはできなくなる。当たり前にできたことが、ひとつひとつ減っていく。もう、働くこともできん」


 皺だらけの手で、中島は目頭を覆った。かみ締めた唇が、小刻みに震えている。


「娘の主人がクビを切られたんですよ。孫はまだ小学生で……ローンが幾つも残っているのに。失業保険だけじゃあとても。娘がパートに出て、ギリギリ……。苦しい、と。生活が、生きていくのが苦しい、と。このままじゃあ一家心中しかないと、電話の向こうで泣くんですわ」


 薬王木は何も言えなかった。他人にとっては聞きなれた悲劇でも、その渦中にある者たちの苦しみは赤の他人には決して理解できないものだ。


「わしの家はしょせん借家……。貯金も年金も高い保険料と税金でほとんど消えていく……。娘の主人が仕事見つけるまで働こうにも体がついていかん。若い者とは、違う」


 高齢者になれば、免疫力が低下する。不注意による怪我も多い。ついでに、僅かな収入を得たとしたも、それによる控除が無くなり年金が減る。保険料が上がる。金が無いから働くのに、そのせいで負担が増えていく。


「生命保険が下りれば、どうにかなるかと……。大した額じゃあない。大した額じゃあないが……それでも……」


 自分の命を投げ打って得られる金額。命とはその人にとってたった一つのものだ。取り替えは効かない。一度投げ出せば二度と戻らない。


 自分という大前提を捨て、過去に積み上げてきたものすべてを放棄し、それで得られる僅かな額を残して、世界から消えていく。その選択をする覚悟を決めた老人を、薬王木は何ともいえない思いで眺めた。


「死にきれんかった。ただでさえ金がなくて苦しんでる娘夫婦に、余計な負担をかけるだけになってしまった……」


 かつては力強く動いていたはずのその腕は、今はシーツの上に投げ出され、やせ細って鶏ガラのようになっている。


「いつになったら、豊かに生きていける……」


 握り締めた拳が震えだし、シーツに皺を作った。


「いつまで、頑張れば……」


 かける言葉がない。薬王木が項垂れていると、そこへ固い表情をした看護婦がやってきた。


「先生、直人くんが……」


 薬王木は、自分の顔色が変わるのを自覚した。行けなくてはならない。自分から視線を逸らす中島を見やり、彼は立ち上がって軽く笑いかけた。


「明日の院内食は、特別豪華にするように頼んでおきます。まずは美味いものでも食べようじゃないですか」


 布団に覆われた中島の肩が小さく跳ねる。その様子を目の当たりにして、薬王木はその場を後にした。


「どうも、先生。お邪魔してます」


 急ぎ足で処置室に戻ると、そこには意外な顔が待ち受けていた。


「矢沢さん……」


 無関係な人間が勝手に処置室に入って患者と対面しているという状況に、知り合いながら薬王木は苛立ちを覚える。しかし、文句を言うより先にやるべきことがある。自分を納得させ、彼はベッドの傍へ歩み寄った。


「直人くん、大丈夫か?」


 声をかけるが、直人は汗だくで呻くばかりで反応は返って来なかった。薬王木は看護婦が用意したピンセットと膿盆を受け取り、素早く処置を始める。


 皮膚に蠢くウジの姿に湧き上がってくる嫌悪感を必死に堪えつつ、薬王木は地道な作業を始めた。逃げ回り、皮膚に食い込んだウジを摘み出すのは、思っていた以上に難しい。


 慣れた顔で素早くウジを引っ張り出していた少年の姿を思い出し、彼は口元に苦笑を乗せる。


「なんだか、殺虫剤をぶっかけたくなるような光景だなあ」


 患者の腕の内側から這い出してくる無数のウジを目の当たりにして、しかめっ面の刑事が口元を引き攣らせている。彼の半歩後ろにいる婦人警官の方がまだ表情に動きがなかった。


「間違っても、殺虫剤を人に向けるのは止めてくださいね」


「分かってますよ。ただ、そういう気分になるってだけで」


 気持ちは分からないでもない、と呟けば、矢沢は身震いしてから患者の枕元の方へと歩み寄って行った。


「おい兄ちゃん。何とまあ、大変なことになってるみてえだが、大丈夫なんか?」


 矢沢の問いかけに反応するような余裕はないらしい。直人はひたすら歯を食いしばって、ベッドのパイプを握り締めていた。


「話ができる状態じゃあ無さそうだなあ」


 患者の病状は、素人の傍目からでもはっきりと分かるようだ。直人を見やり、矢沢は困ったような顔をした。この状態で事情聴取も何もないだろう。諦めて帰ってくれれば、というのが薬王木の本音だった。


 直人の体温は四十度近くを示し、血圧は不安定に上下している。自発呼吸はあるが不規則で、酸素マスクが外せない。


 更に言うならば、生きたまま多数のウジに体の内部を貪り食われている苦痛は到底計り知れない。


 矢沢が大仰な溜め息をついたのを見て微かな安堵を覚えた薬王木だが、彼の意図に反して、矢沢はパーティションの向こう側にいる患者の母親に視線を向けた。


 その背中を薬王木は僅かながら不快さを滲ませた視線で見やるが、特に何も言わず、手元の作業に意識を戻した。


「直人くん、早く良くなるといいな」


 パーティションの向こうに消えて行った矢沢の声だけが聞こえてくる。刑事にそんな言葉をかけられた佐々木敏子は、メール機能の定型文に登録されていても不思議ではないような、そんなありきたりな文章をサラサラと口にしていた。


「店の方はいいのかい?」


「チーママがいるから」


「そうかい。愛ちゃんは元気か? 前に会ったときに、独立したいとか何とか言ってたが、どうなってる?」


「さあ、よく分かんない」


 敏子の声音にはどこか感情が欠落しているような印象を受けた。矢沢の問いかけに適当な言葉を返しながら、電源を切らされた携帯電話を握りしめてソワソワしているのがパーティション越しにも伝わって来る。


 たくさん吊り下げられているストラップ同士がこすれて立てる音が、処置に専念したい薬王木には妙に耳障りだった。その時、看護婦が診察室へと入ってきた。


「今、啓介くんのお父さんから電話がありまして」


「啓介くんの?」


 視線も上げず、手も止めないまま、薬王木は聞き返した。啓介の保護者からの連絡であれば、時間など気にしていられない。


 最後に時計を見た時、針は午後十時近くを差していたような気がしたが、無礼講は承知の心積もりだった。


「はい。それで、いろいろと相談したいことがあるので、空いている時間を教えて欲しいとおっしゃっておられますが、どうお答えしましょう」


「先方がご迷惑でないようでしたら、今からでも」


 予想通りの内容に、薬王木は打てば響くような速さで答えた。そして直人と、彼の患部に視線を落とした。


「処置中で手が放せないので、電話を変われないことを一言お詫びしておいてもらえますか?」


「分かりました」


 看護婦が足早に診察室を後にしていく。ほぼ同時に、佐々木敏子が大きく息をつきながら立ち上がった。


「ちょっとタバコ吸ってくる。もう限界」


「同感だ。付き合うぜ」


 敏子と矢沢の言葉に、薬王木は軽く眉を寄せた。未成年で無い限り、タバコを吸う吸わないは個人の自由だ。ただ、タバコの臭いというのは本人が思っている以上に強烈で、しかもなかなか消えないものだ。


 診療時間外であればあまり気にならないのだが、診察中の自分の周囲をタバコの臭いを纏わりつかせた人間がうろつくのは神経が逆撫でされるような気分になる。だが、個人的な理由で声高に吸うなとは言い出せない。


 黙って二人が出て行く足音を聞いていると、ずっと黙っていた婦人警官が遠慮がちに近寄ってきた。美しく整った顔立ちが困ったように笑う。


 診察以外で若い女性、それも美人と顔を合わせることなど無いに等しい薬王木としては、相手が刑事だと分かっていてもつい視線を逸らしてしまっていた。


「ずっと、直人くんの治療に専念なさっているんですか?」


 薬王木の心情も知らず、黒木は優しげな口調で語りかけてきた。聞いている者の心を安心させるような、そんな不思議な音色の声だった。彼は曖昧に返事をする。


「専念、というわけにはいかないですね。今日もまた老齢の患者さんが階段で足を滑らせたとのことで入院されていますし。外来の方は院長の父に任せっぱなしですが」


「随分、疲れた顔をされていますよ」


 優しげな声音が耳に痛い。疲労は自覚しているが、だからといって休める立場ではない。気遣うような言葉が逆に辛く感じるのは、こういう時だった。


「素人の考えで申し訳ないのですが、ハエウジ症の治療というのはそんなに難しいものなんでしょうか? 正直、涌いている虫を取り除けばそれで治るような気がしているんです」


 薬王木がひっそりと溜め息をついた時、黒木がそんなことを聞いてきた。疲労を感じ始めている自分に優しげな声音で語りかけ、相手の油断を誘って質問を始める。


 刑事という職種に対する先入観がそうさせるのか、黒木の言動からは、そんな印象が拭い去れない。


「場合によりますよ」


 ウジの除去を一旦終えて、消毒した患部に新しい包帯を巻きながら、薬王木は意図的に抑揚のない口調で答えた。


「寄生したハエの種類や、住んでいる環境、医療設備、本人の免疫状態。いろいろな要素が絡み合ってきます。ハエの幼虫に寄生されても、幼虫がある程度大きくなって自然に体から落ちれば、あとは放っておいても完治するという例もあります。逆に、直人くんのように敗血症を起こしてしまうという例も少なくありません。その結果……」


 無意識に、薬王木は患者の顔を見ていた。何となく、その先の言葉は直人が気の毒で口にすることはできなかった。黒木もそのあたりは察したらしい。ハエウジ症から敗血症を引き起こした場合の結果については、言及しなかった。


「先生としては、どうお考えですか?」


「直人くんの病状についてですか?」


「それもありますが、なぜ彼がウジに寄生されたのか、ということです」


 言いながら、黒木は黒皮の手帳を取り出し、ページを捲った。


「日本でも、飼育環境があまり衛生的でない場合、犬や猫などでハエウジ症が見られるという話をお伺いしました。ただ、その場合は病気あるいは老衰で体力的に衰えていることがほとんどだそうです。ずっと同じ姿勢のまま動けないから、人と同じように床ずれを起こし、そこが腐って刺激臭を放ち、ハエが寄ってきても振り払う体力が無い。結果的にウジが沸く、と。下痢便でおしりの周囲が汚れていたら余計にハエがたかるとか」


「そうですね」


 いったん言葉を切って、薬王木は改めて黒木の方を見やった。


「人の場合も同じです。寝たきりでロクに看護されていなかった老人、生まれたばかりの新生児、重病人、または重症人。ただ、健康な人でも寄生されます」


 彼の言葉を聞き、黒木は幾度か頷いた。そして改めて彼女は真っ直ぐに薬王木に視線を向けてきた。こんな状況でなければ、胸が高鳴ってしまうような、そんな美しい眼差しだった。


「直人くんの場合はどうでしょう。ここ数日は体調不良を訴えていたとのことですが、それがハエウジ症によるものなのか、それとも別の病気が原因で体力的に衰えていたから寄生されたのか、先生としてはどう思われますか?」


「体力的に衰えていた、というのはまず有り得ません。彼は酸素吸入が無ければ動けないようなひどい肺炎でも出勤してしまうような子でしたから」


 苦笑混じりに言うと、黒木は複雑な表情で横たわっている少年を見下ろしていた。そこへ、静まり返った廊下を歩いてくる複数の足音が聞こえてきた。ドアの向こうに視線を向けた薬王木の背に、黒木が微かな声をかけてきた。


「意図的に、誰かをハエウジ症にすることは可能だと思われますか?」


「え?」


 どういう意味だ、と問いかけようとしたその時、軽いノックに続いて矢沢と啓介、そして彼の父親と思しき男性が顔を見せた。


「外で会ったんだよ。ちょうど良かった。ところで、佐々木敏子……さんはまだ戻ってないのか?」


 薬王木と啓介の父親が挨拶を交わした後で、矢沢は診察室を見渡しながらそう言った。


「一緒じゃなかったんですか?」


 問いかける黒木も、その表情に微かな不信と驚愕が表れていた。


「いや、便所に行きたいとか何とかで、途中で別れたんだ。長電話してるのかどうか知らんが、なかなか出てこなくてな。結局ひとりでタバコを吸ってる時に睦月さんと会ったんだよ」


「あの、病院のトイレでの喫煙は……」


 タバコが吸いたいと言って席を外した喫煙者が目的を達成させないまま戻ってくるということはまず有り得ない。それができる人間ならば確実に禁煙に成功している。


 薬王木の頭に真っ先に浮かんだのは、トイレで喫煙しながら電話している佐々木敏子の姿だった。


「見てきます」


 黒木が処置室を出て行った。そして気まずい雰囲気が満ちた処置室に彼女が再び戻ってきた時、その美しい顔には微かな苦渋が浮かんでいた。


「トイレの個室、男性用も含めて確認したんですが、誰もいません。どうやら、ひとりで先に帰ったようです」


 啓介と、彼の父親が呆気にとられた顔をする。苦笑しながら頭をかく矢沢を、黒木が軽く嗜めていた。薬王木は、佐々木敏子の行動に思考回路が付いて行かず、エネルギー切れのアンドロイドのように一瞬すべての動きを制止していた。


「どう、しましょう?」


 我に返った薬王木が、啓介の父親と刑事たちに問いかける。口を開いたのは睦月だった。


「電話番号が分かるならば、早急に呼び出してください」

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