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 冷え切ったアスファルトに散らばる枯れ葉を、乾いた音を立てながら凍てついた風がさらっていく。厚く垂れ込めた雲は、今にも泣き出しそうなほど膨れ上がっていて、ただでさえ冷え込む季節に貴重な光源を遮っていた。


 矢沢良樹は盛大にくしゃみをかました。同時に、白と黒のツートンカラーに仕上げられたスカイラインの傍に立っていた制服警官たちが慌てたように敬礼する。


 彼らは集まり始めている野次馬たちの相手を一時的に中断し、張りのある声音で型通りの挨拶文を口にした。そんな彼らを適当にあしらい、矢沢は現場保存のために張り巡らされたテープをくぐる。


 目の前に構えていたのは、お世辞にも綺麗とは言い難い三階建ての共同住宅だった。


「まったく、野次馬ってのはいつでもどこでも、どいつもこいつもまるっきり同じ表情してやがる」


 顔の造作そのものは千差万別だというのに。誰にともなく呟きながら、彼は早朝の澄んだ空気の中に漂い始めた独特の異臭に眉間に寄せた皺を深くしていた。


「あ、どうも。わざわざご苦労さまです、矢沢警部」


 部屋に足を踏み入れるなり、最早嗅ぎなれてしまった凄まじい悪臭に出迎えられた。人が腐っている臭いだ。鑑識班が手にしたカメラのシャッター音に混じって、鈴が鳴るような美しい声音が鼓膜を刺激する。


 噎せ返りそうなほどに激しい腐敗臭が充満する中、さながら大輪の薔薇を思わせる笑顔を咲かせているのは矢沢の三十期下にあたる黒木刑事である。


 彼女との付き合いは長い。現場に到着した際、黒木が矢沢にかけてくる声音は、事件性の有無あるいは重大度を推し量る一種の目安のようなものになっていた。


「現場まで足を運んでいただいて誠に申し訳ないのですが、特に事件性は見当たりません」


「まあ、一応は聞いておこう」


 予想通りの声音に頷きながらも、矢沢は手袋を嵌め視線をぐるりと一周させた。玄関の新聞受けには闇金融の勧誘ハガキが一枚入っているだけで、すっきり片付けられている。


 上がり口には、年季が入っている割に汚れた印象のないサンダルと運動靴が、踵を揃えて並べられていた。


「遺体で発見されたのは、この部屋に住む71歳の男性、田中邦彦。発見したのはアパートの大家です。大家さんの話によれば、一週間前に田中さんの姿を見た際にはいつも通り元気な様子だったそうです。しかし、ここ数日、全く顔を見なかったので、心配で様子を見に来た際に死体を発見したということです」


「鍵はかかっていなかったのか?」


「かかっていたそうですよ。ただ、呼んでも返事がなかったそうで、新聞受けから臭いを嗅いでみたら腐臭がする、と。それで慌てて合鍵を使い、部屋に入ったそうです」


「なるほど。典型的だな」


 部屋は玄関を入ってすぐ左手にはバスルームがあり、右手にはささやかなキッチンが備え付けてあった。バスルームの扉は開け放たれており、見慣れた鑑識員が一心にカメラのシャッターを切っている。


 浴室の壁や窓枠に、カビあるいは石鹸の滓のようなものは見当たらない。浴槽も同様に、湯垢の類は付着していなかった。洗い場には使いかけの石鹸や剃刀などの洗面用具が並べられ、壁には色あせたタオルがかけられている。


 市販されている浴室洗剤やカビの脱色剤などは半分ほど中身が使われた状態で、壁際に置かれていた。


「事件性があるとは通報された大家さん自身、考えていらっしゃらないようなのですが、ただ死体の状態が状態だっただけに驚いて一一0番通報してしまったそうです」


 矢沢は続いてキッチンに視線を向けた。一人分の食器がザルの中で乾いている。シンクの中には、底の方に緑色の円を残した湯飲みと急須が置かれたままだ。生ゴミはなく、排水溝にもカビは生えていない。


 スポンジは随分と磨り減っているが、食器用洗剤は新品同様だった。


「随分、綺麗好きというか神経質な性格のようだが、覚悟の自殺には見えねえなあ」


「ええ、遺書もありません」


 そして矢沢は続く六畳間へと足を進め、そこに広がる光景を目の当たりにして溜め息をついた。


 中央には唯一の暖房器具であるこたつが置かれ、その横で部屋の主と思われる男性が仰向けの姿勢で動きを止めていた。一瞬、白骨死体かと思わせたのは、顔面に集まったハエの幼虫のせいだ。


 眼球はすでになく、半開きの口と鼻からはまるでアリの行列のように白い虫が溢れ出ている。露出している手指と首も顔面と同様、無数のウジが一心不乱に肉を貪り食っていた。


 ウジたちが一斉に身をよじらせれば、死体の表面がざわついているようにも見える。大量に蠢く虫を見ると、背中に悪寒を感じて肌が粟立つ。好き好んで眺めていたい光景ではないが、それでも仕事柄、見ないわけにはいかない。


 矢沢は、注意深く死体の襟元に手を伸ばして衣服を持ち上げる。もとは白かったと思われるシャツは、溶けてラード状になった脂肪や、ウジたちが分泌する酵素など、さまざまな液体が染み込んで何とも形容しがたい色に変色していた。


 ゴムの手袋に、数匹のウジが付着したが、気にせずに胸元を覗き込んだ。衣服の中も、同じ種類のハエの幼虫でびっしり埋まっている。持ち上げられたシャツの布から零れ落ちたウジが、皮膚の上にパラパラと落下していった。


 すると、そこにいたウジがまるで食事の邪魔をされたことを抗議するように十数匹が一斉にその白く肥え太った体をくねらせる。矢沢は僅かに眉を寄せた。


「着衣に乱れはありません。部屋にも争った形跡がなく、また持ち去られた金品もありません。よって他殺の線は薄いかと」


 黒木の柔らかな声音を聞きながら、矢沢はもう一度衣服に視線を走らせる。もともとの皮膚が見えないほどに蛆にたかられた死体。横たわった男性の口と下半身を中心に、色あせた畳には、死体から滲出した体液が赤黒いシミを作っていた。


 口腔から零れだした液体は赤黒く、さながら生前の傷のように見えないことはない。だが、細菌が発生させるガスの圧力により、死体が胸腔内に溜まった浸出液を排出するのは単なる腐敗現象だ。


 畳に漏れ出た体液に、数匹のハエがとまっている。昆虫学者ではない矢沢だが、仕事柄ハエの種類は詳しい。日本中どこにでもいる見慣れたキンバエだった。そして畳の上には、クロバエの幼虫の姿も見られた。


「また、だ」


 誰にも聞こえないような声で、彼は囁くように言った。


「死の労働者が、掟を破った」


 黒木の言う通り、確かにこの状況から他殺の可能性を疑う要素は限りなくゼロに近いと言っていい。自殺でも他殺でもないとすれば、自然死以外には考えられない、とするのが普通だ。矢沢は背後に佇む黒木を振り返った。


「持病の類はあったのか、分かるか?」


「そこまでは……。ただ、財布の中から薬王木医院の診察券が出てきています」


 黒木は薬王木医院というその単語を口にする際、微かながら含みを持たせていた。現場に集まった刑事たちの視線が自分に集中している。彼らが言いたいことは想像がつく。矢沢は僅かな逡巡の末に、判断を下した。


「事件性はない。引き上げだ」


 矢沢のその言葉を聞いて、刑事たちの表情が変わる。安堵する者、残念がる者、不安がる者。無関心な者。それぞれの性格そのものの反応を見せながら、彼らは行動を開始した。遺体を見下ろしながら立ち上がったところへ、黒木が難しい顔をしながら近寄ってきた。


「いいんですか、警部」


 何かを訴えるようなその眼差しに気付かないふりをしつつ、彼はぶっきらぼうに答えた。


「どっちにしろ、検事が事件を食いたがらない」


 黒木は黙って頷いた。

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