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 午後九時より前に会社を出たのは随分と久しぶりだった。せっかくなので、気心の知れた三人の部下に酒でも奢ってやろうかと話をしていたその矢先、最近では滅多に言葉を交わすこともなかった次男から電話がかかってきた。


 スマートフォンのディスプレイに映った次男の名を見て、睦月は何となく嫌な予感を感じ取っていた。いわゆる、虫の知らせというやつだ。


 予想通りと言うべきか、電話の向こうの次男は蚊の鳴くような声でいまいち要領の得ない内容を切れ切れに繰り返していた。睦月は溜め息をついて、家に帰ってから話を聞くという旨を伝え、電話を一旦切った。


 部下に軽く謝罪して、彼は飲み代として諭吉を三人数えた。そして愛車であるポルシェのハンドルを握ったのが今から一時間ほど前のこととなる。


 睦月は職場のある東京から帰宅し、そこに佇む我が家の佇まいを見上げて重い溜め息を零していた。いつからだろうか。疲れ果てて自分の家に帰って来た時、そこに安らぎではなく重圧を感じるようになったのは。


 いつも通りポルシェを自宅の車庫に入れながら、彼は最後に家族で食事をした日のことを思い出していた。時間が経ちすぎたせいか、記憶のにある幼い子供たちの顔は随分とぼやけてしまっている。睦月は車のエンジンを止め、財布の中にしまっていた家族の写真を取り出した。


 幾度目ともしれない溜め息をつき、車を降りる。二台分ある駐車スペースは余ったままだった。キーケースから取り出したカギで玄関のドアを開ければ、痛いような静寂が出迎えてくれた。


 生涯の伴侶と決めた相手が最後に自宅に戻ってきたのがいつだったのか、睦月はすぐに思い出すことができなかった。


 長男である恭介が生まれたころ、妻は彼の教育に情熱を注いでいたように見えた。その成果が現れたのか、はたまた持って生まれたものがそうさせたのか、恭介は妻が描いたレールの上を見事に完走し、今では二十五の若さで名のある会社の上役に名を連ねている。そんな長男を誇りに思う一方、どこか不憫に思う自分がいた。


 一方、次男の啓介については、妻は放任主義に徹していた。母親とは自らの子供に対して等しく愛情を注ぐものだと思っていた睦月にしてみれば、次男に対する妻の態度はひどく裏切られたような気分を味わったものだった。それに何より幼い次男が心配でならなかった。 


 啓介が幼いころには、幾度か苦言を呈したこともあった。しかしながら返ってきた言葉は「私は子供を育てる機械じゃない」「子供のために人生すべてを投げ出すような生き方をしたくない」というものだった。


 妻の言葉に対して、睦月が何も思わなかったわけではない。だが、自分の言葉以外、何も聞く気がないという姿勢を決して崩さない彼女の姿にある意味、絶望し、睦月たちは啓介が成人するまでの家族ごっこを約束した。


 家政婦もいた。稼ぎもあった。睦月は、そういう意味で、啓介については特に気がかりはなかった。睦月が心配していたのは息子の心の方だ。思っていた通り、もともと情緒豊かで感受性が強い傾向があった次男は、自分に対する母親の態度に傷心するだけでなく、両親の間に流れる不穏な空気を敏感に感じ取り始めた。


 言葉にして訴えることはなかったが、小学生のころには原因不明の高熱で学校を早退することが多かった。そんな啓介の素行が、妻の神経を逆撫でする。睦月の提案で、年に三回ある長期休暇の間だけ次男は東京にいる祖父母のところに預けることになった。


 そのころには、啓介は同年代の子供に比べて随分と小柄な印象を受けるようになっていた。


 そして祖父母のもとで寄生虫学という分野に触れて妙に生き生きした表情を見せるようになった啓介が小学校を卒業し、中学にあがったころ、彼の行動は目に見えて悪くなっていった。


 まず、髪の色が変わった。仲が良かった幼馴染が似たような道を歩み始めたというのも次男の行動を助長するきっかけになっていたのかもしれない。


 中学三年生になったころ、彼は進学する気はない、とはっきり言った。予想はしていたものの、睦月の心のうちに込み上がってきた寂寥感は、到底言葉に言い表せるものではなかった。


 睦月とて世間を知らないわけではない。最近は、最初のリストラが三十代で心配される時代だ。仕事ができないわけではない。人間性に問題があるわけでもない。勤務態度が悪かったわけではない。三十代になれば給料があがる。理由はただそれだけだ。


 たったそれだけのことで、十年間、文字通り寝食の暇なく働かされ続けた会社から追い出される者は多い。今や終身雇用が約束されているのは実験室のラットくらいなものだ、と睦月は大学教授である父と冗談交じりに語ったことがあった。


 世間一般にブラックと呼ばれる企業だけでなく、一般の企業は訴訟を恐れる。会社側から一方的に解雇通知を出した場合、その解雇が不当であると訴えられれば、多くの企業は裁判に敗訴して莫大な賠償金を支払わされるハメに陥る。


 訴訟を避けるために最も効果的なのは、自主退社という形を取らせることだ。解雇したい社員を自主退社に追い込むために、会社は様々な手段を取り始める。


 陰惨で卑劣な手段をとることなど日常茶飯事。中には上司が数時間に渡ってヤクザ顔負けの怒声を浴びせ続けるという例もある。


 叱責の理由など何でもいい。長時間に渡る拘束、理不尽な怒声、蓄積される疲労。責任感が高いものほど精神的に追い詰められていく。


 企業としては自殺されては困る。在籍中に自殺されれば遺族から訴えられる可能性があるからだ。だからこそ、最後の逃げ道を残しておく。それが「一身上の都合により」という文句に始まる一枚の書類だ。


 そして会社に残るのは、人間性のカケラもない連中だけという構図が出来上がる。


 実際、ブラック会社に勤めていた睦月の同級生はうつ病の果てに自殺した。十年前の話だが、同級生とは思えないその疲れきった表情は未だに脳裏に焼きついている。


 日本の社会とは、十代のうちにその人生の大半が決定してしまうような気さえする。一概には言えないが、名のある大学を卒業していない者の将来が明るいことは珍しい。


 学生時代を終えて社会に出てから、若かりし日の怠惰や失敗を取り戻そうと思っても、社会はそれを認めない。あきらめなかったから成功した、という名言は、成功者にしか許されない言葉だ。


 高校にさえ行かないという息子が将来この国でまともに生きて行けるのか。睦月の経験は否定していた。三日三晩かけて説き伏せ、何とか啓介を公立高校に進学させたはいいものの、結局、啓介はかろうじて留年を免れるだけの数しか出席しないまま卒業を迎えようとしている。


 様々なことを考えながら、睦月は息子の部屋の前に立った。息子の部屋に入って話をするのは、高校進学について話し合ったあのころ以来だ。


 睦月は一瞬の躊躇を誤魔化すように、強く扉をノックした。中から生返事があったので、一言かけてからドアを開いた。


「相変わらず辛気臭い部屋だな」


 机とベッドと寄生虫の本しかない息子の部屋を眺めて、睦月は苦笑を浮かべる。そして新品同様のままホコリだけが積もっていく学習机からキャスター付きの椅子を引き寄せ、腰掛ける。


 ベッドに腰掛けたままの啓介は、どこか青白い顔のままじっと床を見つめていた。本人なりに、かなり深刻な事態らしい。


 帰宅ルートの途中にあるコンビニで買って来ておいた紅茶の缶を渡す。遠慮がちに受け取った啓介を見やり、啓介にはこちらの話を聞く気があるという心情を察した。


 睦月は何も言わないまま息子を眺めていた。無理に話を進めようすれば逆効果なのは、経験上分かりきっている。こういう時、長男の恭介の場合は、複雑な内容の話であればあるほど雄弁に語り出す。血を分けた兄弟であっても、見た目と同様に性格は随分と違う。


「金……」


 しばらくの沈黙の後、啓介がぽつりと漏らしたその一言に、睦月は胸のうちに黒いシミが広がったような感覚に陥った。悪評のある友人、そしてその家族。ほとんど登校しなかった高校。派手な見た目。


 そこへ来て金銭の話となれば、睦月としては言いたいことや聞きたいことが山のように込みあがってくる。しかし、ここは敢えて溜め息を零すにとどめた。再び、沈黙が落ちる。


「一応聞くが、金額は?」


「……分からない」


 その金額によっては巻き込まれたトラブルに想像がつくと思った睦月だったが、息子の返答を聞いて眉を寄せた。


「分からないってのは不思議な話だな」


 なるべく軽い口調で言いながら、さりげなくその表情を窺ってみる。ひたすら俯いてはいるが、目におかしな光は宿っていない。とりあえず、息子が正気であることに安堵した。


 麻薬に手を出していないのだとすれば、最悪の事態は回避できる。


「直人が、死にそうで……」


「直人?」


「佐々木直人。角曲がったところのアパートに住んでる」


 言われて、ようやく顔と名前が一致した。二人が中学生のころに一度だけ会ったことがある。複雑な事情を抱える家庭にありがちな、どこか悲しげで寂しげな表情が印象的な少年だったが、睦月はあまり悪い印象は受けなかった。


 むしろ、ほんの少しの会話の中に滲み出ていた相手への誠意を感じて、好感を持ったほどだ。


「死にそうって、どういうことだ?」


 缶コーヒーのプルタブを空けながら問いかけると、啓介がぽつぽつと事の経緯を語り始めた。話を聞くにつれて、さすがの睦月も顔色を変えていた。


「何でそんなハエが日本に」


「分からないんだよ。じいちゃんが調べてくれてるんだけど、まだ何も……」


 睦月は軽く頷く。彼の話の中に出てきた刑事の存在が妙に気になったが、敢えてそこには触れず、無言で話の続きを促した。


「ハエウジ症から敗血症を起こして、免疫が低下して、それで日和見感染を起こしてるんだ。ウジはプラジカンテルが効くかもしれないんだけど、えっと、その……ハエウジ症の治療は保険が効かないとか何とかで、それで……」


「ああ、なるほど。全額自己負担になるわけか」


 彼が言いたいことを代弁してやると、啓介はどこかほっとした顔をする。母親の放任主義が悪い方向に影響したのか、啓介は昔から自分の言いたいことを他人が理解してくれた時、嬉しそうな顔は決してしない。


 睦月は内心、複雑な思いを抱きながら、最も気にかかっていたことを口にした。


「それで、ご両親……あ、いや、直人くんのお母さんは何と言っているんだ?」


 口ごもる啓介に、睦月は小さく溜め息を零した。


「普通に考えれば、治療代は親御さんがどうにか工面するものだ」


 そう言った後で、睦月は佐々木親子が暮らすアパートや母親の仕事に関する情報を思い出した。


「仮に……八方塞りで知り合いに借金を頼むことになったにしろ、親御さんがきちんと事情を説明して頭を下げにくるのが筋だ。親御さんの意見を無視して、こちらが勝手に首を突っ込むのはどうかと思うけどな」


「直人の母ちゃんに、頼まれたんだよ」


 息子の口から出た言葉に、睦月は一瞬その意味を掴み損ねていた。


「父ちゃんじゃなくて、啓介に頭下げて金を貸してくれって頼んできたってことか?」


 数秒の沈黙の後に笑いながら聞いてみると、啓介は真剣な表情で頷いた。冗談だと確認したくて聞いたのだが、どうやら本気だったらしい。


「言いたくはないが……いくらなんでもそんないい加減な話はないと思うぞ。保険適用外の治療ともなれば、それなりの金額になるだろう。それだけの金額を借りたいというのに親が顔さえ見せないなんて、そんな話が……」


「そんなこと分かってるよ!」


 ちっとも分かっていないという顔で、啓介は言葉を荒げた。


「だけど、どうにかしないと、直人はもうかなり……」


 握り締めた手が震えていた。話の真偽はともかく、啓介が嘘をついていないことだけは分かる。肩を落とす啓介の姿を、睦月は何とも言えない思いで眺めた。


「俺、病気になったら、病院で治してもらえるのが当たり前だと思ってた」


 消え入るような小さな声で、啓介はポツリと言った。


「金が無くて病院に行けないとか、そんなの貧しい国の話だって、そんな風に思ってたのに……」


 俯く啓介に、睦月は溜め息を落とす。国民皆保険制度と言えば、実現した夢の維持。TPPと言えば増える自費診療。国民健康保険と言えば厳しい取立て、悪循環、限界になっている制度の維持。そしてその結果の医療崩壊……。


 今更ともいえる様々なことが、一気に頭の中を駆け巡っていった。


「そう思うのは、お前が守ってもらえる立場にいるからだ」


 つい本音を口にしてしまうと、ずっと下を向いていた啓介が顔を上げた。ようやく交わった視線。傷ついたような表情を見るのは、久しぶりだった。


「社会は、ルールを守らない者には冷たい。そんなもんだよ。特に、税金や保険料が支払えない人たちにはな。ルールを守れない者、といった方がいいかもしれない。本人に守りたいっていう意志があるなしに関わらず」


 佐々木直人の場合は、どうにも事情が違うような気がしたが、せっかくなので小言を口にしてみることにした。


「啓介がどう思ってるかは知らないが、事実だけを並べれば、お前は病気になっても健康保険証があるから三割負担で診療を受けられる。仮に自費診療になったとしても民間保険があるし、それなりの貯金もある。銀行も相談に乗ってくれる。そういうことだ」


 さりげなく感謝しろと言いたかったのだが、啓介は視線を逸らしただけで何も言わなかった。最初から期待はしていなかったが、自分が言いたいことは言えたので、それ以上は言及しないことにしておいた。


「とりあえず、ここでお前と額を突き合わせてても話が進まないからな。薬王木先生に電話してみよう。本当に金を貸すにしろ何にしろ、まずは直人くんの親御さんと会って話をしてみないとな」


 言いながら、睦月は胸ポケットからスマートフォンを取り出した。ネットで薬王木医院の電話番号を調べ、発信マークをタッチする。睦月の一連の行動には、ずっと息子の不安げな視線が付きまとっていた。

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