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 止むことなく降り続けていた雪は、太陽が西の空に隠れるころにはようやくその攻勢を緩めようとしていた。


 ちらほらと舞う粉雪をフロントガラス越しに眺めながら、矢沢は微かに開いた窓から吹き込んでくる冷気に身震いしていた。暖房が無ければ凍死してしまいそうだ。


 矢沢がエアコンという文明の利器のありがたさを実感するのは、ここ最近、むしろ真夏よりも真冬の方が多かった。


 年を取ったな、としみじみと思う。


「それにしても、大木んトコの女、血相変えて薬王木の先生んトコに入っていったな。酒の飲みすぎでついに肝臓でも壊したか?」


 大木というのは、このあたりを仕切っていた暴力団組織の組長の名だ。日本で最も大きい広域指定暴力団の傘下の傘下の傘下のそのまた傘下の傘下にあたるという話だが、以前は勢いがあった大木組も最近は場末の暴力団組織らしく、随分とおとなしくしているという。


 少し前までは振り込め詐欺などに手を出し、けっこうな被害額を出していた組だが、金銭トラブルで他の組との抗争に破れて以来、警察が目の色を変えるような動きは特に見せていない。


「マル暴の知り合いに聞いた話なんだがな、最近はモンスターペアレントってのが、ヤクザの業界にも出没するらしいぜ。うちの息子が殴られて怪我したんですけど、どうしてくれるんですか!? こんな組には任せられません、辞めさせていただきます! とか何とか、母ちゃんから組長に直々に電話がかかってくるんだとよ」


「……足を洗うために指の先を差し出すっていうのが当たり前だった時代には考えられない話ですねえ」


「小指なんか貰っても迷惑なだけだろ。最近は金で解決する組がほとんどらしいぞ」


 そして矢沢はタバコに火をつけた。


「金と言えば、半年くらい前だったかな。大木組の若手が組を抜けたいとか何とか、そういう話になったそうなんだがな。そん時に和解金として差し出した金、佐々木敏子が用立てたって専らのウワサらしいぞ」


「この不景気な世の中に、何とも景気のいい話ですね。和解金って少なくとも数百万でしょう?」


「その時は三百万ふっかけたらしい。簡単に払える金額だったら示しがつかねえし、まあ、それくらいは普通だろう。問題は、寂れたスナックのママに過ぎねえ佐々木がどうやってその三百万を作ったのかって話だ。現ナマでポンっと出せる額じゃあるめえ。毎月毎月ギリギリの生活しててよお」


「普通に考えればその筋からの借金でしょうねえ。何より、佐々木敏子は大木の女でしょう? よく殺されずに放置されてますね」


「大木には二十代の若い愛人がいるんだとよ。だから佐々木とは昔馴染み程度の気持ちなんだろう。スナックのシャバ代を払うなら大木としては何をしようが興味ねえんじゃねえか」


「いろいろ面倒ですねえ」


「イロだけに、な」


 二人は寂しく笑った。


 ヤクザの世界も変わったものだと思う。しかしながらいつまでも古い時代の慣習や制度に捕らわれていたのでは生き残っていけないのはどの業界も同じだ。


 ある意味、変わらないのは名義上この国に生きるすべての国民の代表である政府だけだ。


「ところで矢沢さん、タバコの吸いすぎじゃないですか?」


 いきなり言われて、矢沢は文章になりきれない単語を幾つか発してしまった。黒木との付き合いは長いが、タバコについて言及されたのは初めてだった。


「お前だって昔は吸ってたじゃねえか」


 気まずげに言えば、黒木はただ体に悪いから、と答えた。


「しょせんストレスで死ぬか、タバコで死ぬか。禁煙の苦しみは味わいたくねえんだ。だから俺はタバコで死ぬよ。それに、今更タバコをやめたら、タバコ吸ってる時のボケッとしてた時間、何をしたらいいのか分からなくなる」


 苦笑交じりに言えば、黒木は微かに笑った。


「タバコ一本吸うのに約五分。一日に二十本吸えば百分。タバコを止めたら、その一時間四十分が返ってくる。それだけの話ですよ」


 そんなもんか、と思ったとき、黒木は缶コーヒーを口にしながら睦月邸に視線を向けてしまった。


「それにしても、啓介くん、随分落ち込んだ顔で出てきましたね。何かあったんでしょうか」


「……佐々木敏子は泥沼の借金苦。佐々木のバックについてるのは大木で、更にその後ろにはデカい組織がついてるときた。ついでに、佐々木の息子は、やたらと寄生虫に詳しいあそこのお坊ちゃんと仲がいいときてる。何だかなあ……」


「最近はヤクザも頭を使わないと稼げない時代ですからねえ。そう言えば、佐々木の息子が職質中に倒れたらしいじゃないですか。病院まで橋本さんが付き添ったとか」


 橋本という名を耳にして、矢沢は苦笑を隠せなかった。橋本巡査長が覚せい剤使用もしくは所持を疑って職務質問をかけた相手が救急車で運ばれ、挙句に薬王木医院の副院長からきっぱりと麻薬使用を否定されてしぶしぶ引き下がったという話は署内ですでに噂になっている。


 橋本巡査長の表情を思い出し、矢沢は軽く笑った。


「情けねえな、橋本のやつ」


 独白のように呟き、矢沢は煙草を車載の灰皿に押し付けた。吸殻が二、三本ほど床に転がったが、今更気にすることはない。


 自らも警察官であるという立場上、滅多なことは言えない。だが、ただ夜中にコンビニに行こうと思っただけだとか、本当に残業で遅くなっただけだとか、そんな理由で犯罪者扱いされた一般人にとっては堪ったものではない話だと思う。


 警察官もそれが仕事とは言え、現実はなかなか理想郷のようにはいかない。


 矢沢は改めて睦月邸を見上げた。周囲の住宅に比べて一回り大きなその家は、二階の一部分だけに明かりを灯してしんと静まり返っている。


「動きがないようなら、この後、いったん署に戻る」


「ないでしょう。部屋に引きこもってもう三時間ですよ。もしかしたら寝てるんじゃないですか?」


 黒木に言われて、矢沢は時計を見る。時刻は午後八時を少し回ったところを差していた。今時、小学生だって八時に寝るような子供は珍しい。ましてや、不健全さを格好良いと主張している彼がこんな時間に寝るとはあまり考えられない。


 だが、電気がついたままの彼の部屋は一切の変化を見せることなく彼女が言葉にした通りの時間が過ぎようとしていた。


 どうしたものかと考えているところに、一台の外車が睦月家の敷地内に滑り込んでいった。運転席を確認すれば、四十代前後の男の顔がチラリと見えた。見覚えがある。


 睦月教授の長男であり、啓介の父親だ。父親の帰宅を確認し、矢沢はようやく迷いを断ち切る決心がついた。

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