17
横断歩道の信号が点滅し始めていた。ギリギリで渡ろうと飛び出したはいいものの、左折してきた車に巻き込まれそうになって慌てて飛びのく。
不注意は啓介だけではないはずなのに、一瞬目が合ったドライバーの若い男に睨まれた上に何か言われた。ガラス越しだったので何を言われたのかまでは分からなかったが、自分を貶める言葉であったことには違いない。
頭の中に浮かぶ中年刑事の顔を意図的に走り去っていくセダンへとすり替え、啓介は目の前が真っ赤になるような激しい感情を覚えていた。
追いかけて行って、運転席から引きずり出し、生意気な目つきのあの顔を、原型が分からなくなるくらいに殴ってやれば、少しは胸のうちも晴れるだろうか。
しかし、啓介は自分がそうしないことを知っていた。臆病者と呼ばれても今の啓介には最優先にすべき事項があった。
悪態をつき、悔し紛れに電柱を蹴飛ばして、通りすがりの老婆に冷たい視線を向けられた。しかしながら、さすがに老婆に向かっていく気にはなれず、彼は大人しく歩行者信号が青に変わるのを待ち続けた。
信号が変わったと同時に、啓介はアスファルトを勢いよく蹴った。一段と強くなった吹雪が、かろうじて開いている両目をこじ開けるようにして侵入してくる。
雪の冷たさが目にしみたのは、久しぶりだった。啓介はすれ違う人を縫うようにして歩道を走りぬけ、二時間前に出たはずの薬王木医院を目指す。
目的地に到着すると、途端に暖房の生暖かい風が頬を打った。啓介は受付の事務員と外来患者が向けてくる訝しげな表情を完全に無視して、直人の病室がある二階へと駆け上がった。
息を切らしながら階段を登りきったところで、年配の看護婦と目が合った。
「中島さん? 佐々木くん?」
「佐々木!」
「処置中だから、待合で待っていなさい」
有無を言わさぬ看護婦の口調に、啓介は一瞬戸惑った。だが、どうしても引く気にはなれず、制止しようとする看護婦の声を押し切る形で二階にある、入院患者用の処置室へと駆け込んだ。
「直人は!?」
ノックもせずにドアを開ければ、直人の病状が急変したことを事務員経由で知らせてくれた薬王木医院の副院長が驚いた顔で振り返った。彼の傍には二人の看護婦がいたが、揃って異物でも見るような目を向けてくる。
「啓介くん、早かったですね」
「すぐそこにいたんだ。それで、直人は?」
質問しながら、啓介は薬王木の傍を通り抜けて、目を閉じたまま荒い呼吸を繰り返している直人に近寄っていった。腕には抗生物質の点滴が通され、渇いた肌には血圧や心拍をモニターする電子機器が幾つも付けられていた。
「おい、直人……」
声をかけると、薄目を開けた直人が微かに笑ったように見えた。直人らしいと思い、啓介も無理やり笑ってみせる。
「頼まれたもの、持ってきてないんだ。選ぶのに時間がかかっちまっててさ。明日には必ず持ってくるから、早く持ち直せよ」
直人は目を閉じた。返答の代わりに、苦しげな咳が漏れる。その様子を見て、啓介はふと彼の腕の内側にウジが這っているのを見つけた。
「先生、ピンセット貸して」
看護婦が何か言ってくる前に素早く直人が着ているパジャマの袖を捲り上げると、そこには彼の背中に見たようなハエの幼虫の巣が出来上がっていた。生きた人間の皮膚に蠢く幼虫を目の当たりにして、看護婦が顔色を変えた。
しかし、悲鳴を上げて逃げ出さなかったのは、さすがだった。
「またですか。これで三度目ですよ。病院内でこれは……」
複雑な顔をしながらも、薬王木は消毒したピンセットを貸してくれた。それを受け取る前に、啓介はデスクの上に置いてあったアルコール消毒薬を勝手に拝借して手に吹きかける。その様子を見ていた看護婦たちが動揺を隠せない様子で薬王木に詰め寄り始めた。
「先生……!」
「大丈夫です。幼虫の除去は、僕より彼の方が巧いはずです。責任は僕が持ちます」
「でも……!」
さっそくウジの除去を始めた啓介の背後で、薬王木と看護婦が言い争い始めてしまった。何となく薬王木に申し訳ない気分になったが、ウジをつまみ出すその手を止める気にはなれなかった。
それに、人体に寄生したウジを除去した経験の無い薬王木が作業をするよりも、慣れた自分がやった方が時間的にも早いし、直人の肉体的な苦痛も少なくて済む。
今更譲る気はない。啓介は背後の音声を都合よくシャットダウンして、目の前の作業に集中した。
腕の筋肉や脂肪層は、ウジに貪り食われてあちこちがスカスカになってしまっている。幸いなことに重要な神経や動脈までは傷ついていないようだったが、腕のウジに気付くのがもう少し遅かったら、直人は回復した後も復帰に時間を要したかもしれない。そう思うとヒヤリとした。
一見して単純作業に見えなくもない処置を繰り返していた時、啓介はふと違和感を覚えた。それまでそこにいなかったはずのウジが、どこからともなく現れたように見えたからだ。
体表に寄生したハエの幼虫が、生きた組織を食っていくうちに筋肉の奥深くへと入り込んでいくことは珍しいことではない。しかし、その場合、必ずウジが通った道、すなわち幽霊トンネルが見られるはずなのだ。
幽霊トンネルはその名の通り、専門家でなければとても見分けられる代物ではない。しかしながら、啓介の目に止まった一匹のウジが現れた周囲の組織は、食われたはずの痕跡が全くなく綺麗なままだ。
気になって、啓介は直人に申し訳ないと思いつつ、問題のウジがいる周囲の筋肉をピンセットで少し広げて観察してみた。直人が呻いたが、無視した。
「先生、ちょっとライト貸して。ペンライトでいいから」
食い下がってくる看護婦を、ウジの除去だけだからと薬王木は必死で説得してくれていた。そんな彼に啓介がそう申し出ると、とりあえず看護婦を差し置いて彼の要求を優先してくれた。明かりが入る。よりよく患部が見えるようになった。
「先生、これ、もしかしたら外部寄生じゃないかもしれない」
「はい?」
とりあえず問題のウジを引きずり出し、残りのウジに手をかけながら啓介はポツリと言った。
「ハエに卵を産みつけられたんじゃなくて、体の内側からウジが出てきてるのかもしれない。どういう理由でそうなったのかまでは分からないけど」
「……体の、内側?」
「そう。内部寄生ってこと」
血相を変えて、薬王木は患部を覗き込む。啓介は彼が見えやすいように体の位置をずらし、ペンライトを当てながら細かく説明した。
ハエが人体に寄生するパターンは大きく分けて二つある。その名の通り外部寄生か、内部寄生か、だ。
外部寄生の場合、ハエは傷口かあるいは体孔に卵、またはウジを産み付ける。この場合、治療はまずウジを取り除き、傷口を丁寧に消毒する。そして抗生剤を投与すればいい。
傷跡は残るが、治療さえ施せば重篤な結果になることは、まずない。しかし、内部寄生となると話は違ってくる。
薬王木は直人の方をチラリと見やった後、看護婦に向かって傷口の消毒を指示した。そして、それとなく啓介を隣の診察室へと促した。ドアを閉めて、薬王木は啓介に向き直る。
「ハエの内部寄生って……そんな症例ありましたか? すみません、勉強不足なもので……」
「無いよ。ハエが内部寄生するのは、家畜と虫だけ。人間の例は見たことがない」
押さえた声音で聞かれ、啓介は同じく小さな声で答えた。人間の症例では、せいぜい尿道か肛門付近に産み付けられた卵が孵って、直腸内にまでウジが涌いた、という程度のものだ。
「仮に口から摂取したとしたら、消化器官で消化されるでしょう?」
「そうでもない」
啓介は表情を引き締めた。
「先生の言う通り、普通は胃の消化液で溶かされる。胃で溶けなくても、肝臓の細胞にくるまれて、排泄される。だけど、中には生き残るヤツがいるんだ。ウジが腸まで届いて、粘膜を刺激したら腹痛付きの下痢になるしね。これ、日本でもある話だよ。気付いてないだけで、ハエの卵を飲み込んで腹を下すことっては、よくあるんだ」
啓介の話を聞いて、薬王木は眉を顰めた。
「イヌとかネコの回虫が目まで登ってくるのと同じ理由。元気なヤツは、腸壁を破って体の中を移動し始める。要は、数の問題」
「飲み込んだ卵が少なければ、それだけリスクも少ないけれど、大量に卵を飲み込めば、それだけウジが生き残る確立も高くなる?」
啓介は深く頷いた。
「時間が経てば、ウジのせいで内臓の調子もおかしくなってくる。そこへ更に卵かウジを飲み込んだら、余計にウジが生き残る。悪循環ってこと」
そこまで話を聞いて、薬王木は壁に背を預けながら何かを考え込んでしまった。難しい顔で腕を組んでいた彼は、ややあってパソコンが置かれたデスクの方へと歩み寄っていく。
「ちょっと見てください」
言いながら、彼はシャウカステンの電源を入れ、取り出した胸部レントゲン写真を挟み込んだ。
「ニューモシスチス・カリニ肺炎……?」
磨りガラスのような特徴的な陰を映したレントゲン写真を見て、啓介は思わず呟いていた。隣で薬王木が頷いた瞬間、啓介はさっと顔色を変えていた。
「ちょっと待って。先生、これまさか直人の……!?」
「そうです」
努めて感情を押さえた声音を聞いて、啓介は思わず頭の中が真っ白になっていた。
カリニ肺炎とは、酵母様真菌であるニューモシスチス・イロヴェチによって引き起こされる、日和見感染の一種だ。つまり、免疫機構が正常に働いている健康な人間が発症することは、まずない。
この肺炎を発症するのは、化学療法、ステロイド剤の長期内服、後天性免疫不全症候群などによって免疫力が衰えている場合が多い。知っている限り、直人は抗がん剤を使った治療も受けていないし、ステロイド剤なども処方されていない。
「エイズ……?」
「ではありません」
薬王木は、きっぱりと否定した。啓介は、はっとしたように彼を見上げる。
「まさか、と思ったんです。それで大至急、血液検査に回しました。結果は陰性です」
薬王木の言葉を聞いて、啓介は自分でもはっきり分かるほど安堵していた。一方で、隣に立つ薬王木は表情を変えない。
「なぜこのタイミングで日和見感染の症状が出るのか、僕には分からないんです。啓介くんは、何か分かりますか?」
ハエの寄生と何か関係があるのか、と言外に聞かれた啓介はようやく夕べ祖父から聞いた話を思い出した。ウジが寄生したことによる敗血症が原因で免疫力が低下していれば、発症する可能性がある。
それを語れば、薬王木が意味深に頷いた。そしてファイルを探り、一枚の紙を差し出してきた。
「直人くんの血液検査の結果です」
受け取った啓介は素早くデータに視線を走らせた。そして白血球数の項目で、眉間に皺を寄せる。
「好酸球が増加してない? なんで?」
「やはりそう思いますか」
好酸球というのは白血球の一種で、有り体に言ってしまえば免疫機構のひとつだ。通常、寄生虫が体内に侵入してきた場合、この好酸球が増加する。体内から異物を除去しようとする、自然の反応である。
しかし、直人の場合はむしろ正常よりも少ない数値を示していた。
啓介が黙り込んだその時、看護婦が遠慮がちに診察室のドアをノックしてきた。
「先生、直人くんのお母さんがいらしてます」
彼女の言葉に、薬王木は僅かに顔色を変え、小さく深呼吸していた。啓介自身、直人の母親と顔を合わすことに不安がないわけではない。だが、このまま帰るには中途半端で、啓介は薬王木に促されるまま直人の母親が待つ二階の待合室へと足を向けた。
「直人の具合が悪いって、どういうこと!? そんな話、聞いてないわよ! いつから入院してるの!? どうして私に直接連絡して来ないの!? いい加減な治療してるんじゃないでしょうね! 訴えるわよ!」
ドアを開けたその瞬間から、聞き覚えのあるヒステリックな声音が聞こえて来た。啓介は眉を寄せる。
「何度も連絡させていただきました。どうしても繋がらなかったので、直人くんからお母さんの職場の電話番号を聞いて、それで今日やっと……」
宥めるような年配の看護婦の言葉が、酒に焼けた声に混じって聞こえてきた。普通に喋っていたのでは金切り声にかき消されてしまうらしく、看護婦の方も精一杯、声を張り上げているようだった。
「こんにちは、お久しぶりです」
青白い顔に、爛々と光る両の目。振り乱したソバージュの髪と、色を無くした唇。直人の母親は、さながら鬼のような形相で看護婦に食って掛かっていた。思わずぞっとした啓介とは対照的に、薬王木は、穏やかで優しげな笑顔を浮かべたまま彼女の方へと歩み寄って行った。
薬王木の姿を見止めるなり、直人の母親の雰囲気が微かに変わる。その目に色が宿る気配を敏感に察し、啓介は一瞬、吐き気を催した。
「まずはご説明させてください。どうぞ」
変わらない笑顔のまま、薬王木は待合室の向かいにある診察室へと促した。病院からの電話に出なかった言い訳を延々と繰り返しながら、直人の母親は薬王木の後に大人しく従っていく。
先ほどまで詰め寄られていた年配の看護婦は、その変わり身の早さに呆れたような溜め息をついていた。
「同感」
ぽつりと呟いてから、啓介は何気ない顔で二人の後についていった。後ろ手にドアを閉めて、そのまま背中を預けた。薬王木と目が合ったが、彼は何も言わない。
そして直人の母親は啓介の存在に気付いてもいないようだった。
「正直なところ、直人くんは今、とても難しい状態です」
一呼吸置いてから、薬王木は静かに口火を切った。母親の肩が微かに揺れるのを、啓介は見た。
「一度にいろいろな病気に罹っている、というのが今の直人くんの状態です」
「治るんですか? ねえ、先生。でも、治るんですよね!?」
身を乗り出しながら問い詰める彼女に、薬王木は難しい顔を向けた。啓介もまた眉根を寄せる。それこそ、サナダ虫に罹ったという程度の話ならば、錠剤と下剤を飲むだけで済む。しかし、直人の病状はとても簡単に治りますとは言えないはずだ。
「……今現在、一番問題になっているのは、ハエウジ症です」
質問には答えず、薬王木はパソコンを操作してディスプレイに画像を呼び出した。そこに映し出されたのはハエウジ症の実際の症例だが、肌の色からして日本人ではないようだった。直人の母親があからさまに顔色を変える。
「ハエも寄生虫です。日本ではまず有り得ないことですが、人体に寄生することも珍しくありません」
寄生虫、という単語を口にするとき、薬王木はチラリと啓介の方を見やった。無意識に、啓介は視線を逸らしていた。ハエが人体に寄生する。その結果、最悪の事態に陥る可能性がある、という事実を薬王木は口にはしなかった。
患者の家族に気を使ったというよりも、直人の母親が途中から話を全く理解しようとしていない、というか、聞いてすらいないように見えたからだと啓介は思った。
「それで、治るんでしょう?」
彼女は再び同じ言葉を口にする。
「今の時点では、涌いたウジを地道に取り除くしかありません」
特に表情を変えることなく、薬王木は現時点で答えられることを口にしていた。医者としては、いい加減なことは言えないはずだ。啓介がもし彼の立場であったなら、おそらく同じことを答えた。
「ウジを取ったら治るんですか? なら、いいんです。それでお願いします!」
「保険適用外……つまり、とても治療代が高くなりますが、いいですか?」
薬王木のその一言で、母親の雰囲気が一変する。気分が急降下したのが、手に取るように分かった。同時に、啓介も思わず背中を壁から離していた。
「でも、薬代はそうでもないんじゃないの?」
啓介は何も考えず、口を出していた。そこで初めて、直人の母親は啓介の存在に気付いたらしい。自分を見る彼女の表情は、まさしく驚きに満ちていた。
「はっきりとは言えないけど、体内のウジだったらプラジカンテルが効くかもしれない。プラジカンテルは認可済みだろ?」
吸虫類に強い感受性を示す寄生虫病の特効薬、プラジカンテル。日本での商品名ビルトリシドは、吸虫類だけではなく条虫類などの治療にも使われる。
正確な作用機序はまだ明らかにされていないが、プラジカンテルは体内の寄生虫の細胞膜のカルシウムイオン透過性を上昇させることにより死滅させる。その死骸は排泄されるか、ファゴトーシスにより排除される。そういった意味合いで語れば、薬王木は苦い顔をした。
「……プラジカンテルは確かに承認済みですが、未承認の治療を行った場合、他の治療や投薬はすべて保険適用外になるんです」
啓介は言葉をなくした。直人の家の経済事情は、家族の次によく知っている。視線を床に落としながら、唇を強く噛み締めた。
「先生が、こっそり治療してくれればいいじゃん」
ぽそりと呟いたのは、直人の母親だった。唖然とした顔を上げた啓介は反射的に薬王木を見る。彼は何も答えなかった。
「それで、どうされますか?」
改めて問いかければ、彼女は困惑しきった顔で俯いた。派手なペイントが施された爪が、鳥の巣のような髪を掻き毟る。啓介は、何ともいえない思いで彼女を見下ろしていた。
答えは決まっているはずだ、と思ったとき、ふいに直人の母親が啓介を振り返り、ユラリと立ち上がった。
「佐々木さん?」
気遣わしげな薬王木の声にも答えず、彼女はまるで憑かれたように啓介の方へと近付いてきた。その雰囲気に圧倒され、思わず後ずさった啓介だったが、背後にあるドアに行く手を阻まれてしまった。
左手がドアノブを探り出す前に、直人の母親の手が彼の服を掴む。途端に、独特の臭いが鼻につく。タバコの残り香と、彼女自身の体臭に、息が詰まりそうだった。
「ねえ、啓介くん。啓介くんのお父さんって、確かすっごい大きい会社の偉い人だったよね?」
色の無い渇いた唇が開き、その向こうにある並びの悪い歯列が覗く。臭いもきついが、有り得ないほどに黄ばんだ歯を至近距離で見せ付けられられるのは、正直かなり辛かった。顔を背ける啓介に構わず、彼女は更に距離を縮めてきた。
「ねえ、お願い。啓介くん、ご両親にさあ、直人の治療代を貸してくださいって頼んでくれない?」
薬王木が絶句したのが、雰囲気で伝わってきた。
「啓介くんも聞いたでしょ? 直人が危ないんだって! 死にそうなんだって! だからお願い! 啓介くんだって直人が死んじゃったら嫌でしょ!? 友達だって言ってたよね!」
啓介は必死に頷いていた。彼女の訴えに心を動かされたからではなく、ただ単に一分でも一秒でも早く自分から離れて欲しかっただけだ。
啓介は直人の母親が口にした意味がいまいち理解できないまま、ドアに凭れ掛かっていた。しかし、彼から了承の意を得た母親の方は途端に明るい表情で感謝の言葉を矢継ぎ早に述べ始める。
その言葉遣いや雰囲気だけは、確かに啓介と同年代の少女とよく似ていた。
「何とかしてくれるって! だから先生、よろしくお願いします」
場違いに明るく元気な声が、硬直した診察室に反響した。




