16
午後を回ろうという時刻、雪は本格的な吹雪に変わり始めていた。道行く人々は、みな一様に背を丸め、灰色一色の街中を足早に立ち去っていく。
横殴りの吹雪の中、傘を差していない者が何人かいた。たいていの日本人は雨に濡れることを極端に嫌う。特に最近は酸性雨だの何だのと、空から降り注ぐ水の粒がまるで毒のような扱いを受けているのが常だ。
しかし、雪の場合は不思議と嫌悪感が付き纏うことはない。雨と言えば汚れ。雪と言えばロマン。温度の差はまさしく何なのか。
会計を済ませて、矢沢はコンビニを後にした。かつては天皇を崇拝しない日本人は非国民と呼ばれて糾弾された。今現在は、コンビニやスーパーでビニール袋を要求する客は、エコ精神が無いといって糾弾される。
レジを打っていた年若い店員と、矢沢の後ろに並んでいた数人の客から浴びせられた冷たい視線を思い出し、彼は小さく息をついていた。
その時、店の傍に備え付けの灰皿があるのを発見し、彼は軽い足取りでそこへ向かった。火をつけて煙を吐き出した途端、やって来たオバサンと目が合った。汚物でも見るような顔を向けられ、これみよがしに咳き込まれる。
矢沢の精神は、少しばかり傷ついた。
「どこへ行っても喫煙者はタバコと一緒に有害物質扱いだなあ」
本音を煙に乗せて吐き出したとき、胸ポケットに入れておいた携帯電話が着信を告げた。年上で、しかも上司でもある警察官をパシリに出させた張本人、黒木からだった。
「なに!? ホットの紅茶!?」
意外な要求に眉を寄せる矢沢だったが、何か言おうとした時には既に電話は切れた後だった。ビニール袋の件で少しばかり敷居が高くなっているコンビニだったが、買わなかったら黒木がいろいろと面倒くさい。
矢沢は胸の奥深くまで吸い込んだニコチンに微かな安らぎを錯覚させられつつ、もう一度レジへ向かう決心を固めた。
店員から実に嫌そうな顔をされつつも頼まれたものをビニール袋の中に無事収めて自動ドアを潜った時、通りの向こうからやってきた見覚えのある顔立ちが目に入った。どうやら黒木は無事に被疑者の孫と合流できたようだ。向こうもこちらに気付いたらしく、黒木が雪の中で輝くような笑顔を見せた。
「睦月さんのお宅に伺う途中で会ったんです」
にっこりと笑いながら経緯を語る黒木の後ろに、露骨に不機嫌そうな顔をしている少年が立っている。改めて思ったが、非常に女子にもてそうな姿だった。
「俺に話って、何? どうでもいいけど、用事があるんだよ。さっさと終わらせてくれると助かるんだけど」
気温に負けないくらいの冷たい声音だった。外見からして、彼は警察官という職業に就いているものすべてに敵愾心を抱いているようだ。一口に警察官と言っても十人十色なのだが、矢沢としても最近の不良は全般的にかつての不良に比べて随分と大人しくなったと思っているので、他人のことは言えない。
「お祖父さんから紹介されたんだよ。捜査に協力してほしいんだ」
本音とは似ても似つかないことを口にすれば、少年は初めて矢沢の方に視線を向けた。同時に、黒木が視線で促してきたので、手土産とばかりにホットの紅茶を差し出した。
「何で俺に? じいちゃんに聞けばいいだろ」
「そのお祖父さんが、君の方が詳しいと言ってたんでね」
差し出されたものを素直に受け取った少年の顔に戸惑いが浮かぶ。祖父に認められたことが嬉しいのか、それとも本当に警察が自分に協力を求めに来たことが不思議なのか。後者だとすれば、対応は少しばかり慎重にならざるをえない。どうしたものかと、矢沢が次の手を繰り出す前に、黒木が口を開いていた。
「とりあえず、場所を変えませんか? 寒くて指の感覚が無くなりそうです」
黒木の指先は、横断歩道の先にあるファミリーレストランを示している。少しばかり戸惑ったものの、平日のこの時間に喫煙席に座る客の割合を考え、矢沢は承諾した。
「一応、自己紹介はさせてもらうな。所轄署の矢沢だ」
胸ポケットから警察手帳を取り出す。いつものくせで、さりげなく役職の部分を親指で隠している自分に苦笑しつつ、少年があまり興味なさそうに視線を逸らしたので元通りの位置に仕舞い込んだ。
休むことなく動き続けている、自分の心臓。それに触れる警察手帳。警察官としての証であるその手帳は、矢沢にとって心臓の一部のようになっていた。
日本全国に展開するチェーン店であるレストランに入ると、途端に暖房の熱気に包まれた。初対面である若い女の店員の態度も非常に好感が持てる温かなものだったが、喫煙席を希望したその瞬間、店員の表情が僅かに翳った。
口元は笑っているが、目は笑っていない。視線は嘘をつけないとは、よく言ったものだ。
「寄生虫に詳しいって聞いたんだが、何でまたそんなもんに興味を持ったんだ? 気色悪いだけだろ、あんなの」
黒木がドリンクバーからホット・コーヒーを二つと紅茶を運んできた。啓介は無言のままそれを受け取り、矢沢の質問は聞こえなかったふりをしていた。
「いや、別に若者の知識欲が何に向かおうと文句をつけるつもりは無いがな、ロクなモンじゃなえぞ、あんなモン。罹ってみたことがないから好きだの何だのとほざけるんじゃねえのか」
「……あんた、罹ったことあるのか?」
数種類のジュースが混入された熱いコーヒーを啜りながら言えば、意外なことに啓介は興味深そうな顔を向けてきた。話の突破口を見つけた矢沢は、表情を全く変えずに言葉を続けた。
「あるさ。親戚が九州のド田舎にいてな、自家栽培の野菜をしょっちゅう送ってくれてたんだ。ガキのころの話だがな」
「回虫?」
「ああ、なんかそういう名前だったかな。特に何てことなかったんだがな、ある日突然今までにないくらい酷いハライタに襲われてよ、悶絶してたらおふくろが病院に運んでくれたんだ。そこで……」
「矢沢さん、それは食事中の方が多いレストランでする話ですか?」
黒木の双眸は、今にもレーザービームが放たれそうなほどに鋭く輝いていた。話のオチを口止めされた矢沢だったが、黒木の機嫌を損ねると面倒くさいので仕方なく口を閉じた。
要は大量に回虫が寄生したことによる腸閉塞で、開腹手術を受けるほどではなかったが人生で初めて浣腸された、という話だったのだ。しかしながら、目の前の少年には最後まで言わなくても伝わったらしい。どこか納得したような表情で、先ほどよりは敵愾心が薄れているように見えた。
黒木はいい顔をしないかもしれないが、この流れを途切れさせるべきではない。矢沢は頭の中でプランを組み立て、そこから排泄や汚物に関する単語を一気に排除した。
「おかげさまで無事にハライタは治まったんだがな、この話には続きがあって」
続き、と言い出した瞬間、黒木の表情が険しくなった。だが、敢えて気付かないフリをした。
「昔の人間だからな、医者から説明されなくても爺ちゃん婆ちゃんはどうして虫に罹るか知ってんだよ。根っからの都会育ちのおふくろは野菜は丁寧に洗えって耳にタコができるくらい言われるようになって、俺は半年に一回、虫下しを飲まされるハメになったんだ。その虫下しがまた苦くてなあ」
「海人草のこと?」
興味津々の双眸が矢沢を見つめてくる、今も昔も、不良と呼ばれる若者は対峙した相手に対する警戒心や敵愾心の底がとにかく浅い。浅いからこそ、大したことはできはしない。深くなるのは大人になってからだ。
逆に、今現在は立派な大人が子供向けのマンガを読んで声を上げて笑っている光景を頻繁に目にする。だからこそ、些細なきっかけで凶悪事件が勃発するのかもしれない。そう思うと空恐ろしくもあるが、寄生虫の話でほだされた不良というのは非常に珍しい。
笑い出しそうになるのを堪えながら、矢沢は大げさに頷いて見せた。
「おう、それそれ。飲んだことねえだろ。ナベでグツグツ煮てよ、そのクッセー汁を飲まされるんだ。鼻つままなきゃあ、とてもじゃねえが飲めたモンじゃねえ。ハライタか虫下しか、子供なりに究極の選択だったなあ」
「どんな味? 苦いって聞くけど」
どこか熱が込められ始めたその声音を聞きながら、矢沢は昔を思い出すように空中を睨む。そして、ふと思いついたままにテーブルの上のコーヒーカップを指差した。
「そう、こんな味だな」
途端に黒木が苦い顔をする。ポカンとしている啓介を見やり、彼女は軽い溜め息をついた。
「オレンジ・ジュースとホワイト・ウォーター、梅昆布茶、コーラを混ぜたエスプレッソです」
黒木の表情を見てひとしきり笑った矢沢だったが、席を立った啓介が問題のミックス・ジュースを作って来たのを見て、さすがに絶句した。今更冗談でしたとは言えず、啓介が海人草の味だと信じている黒木オリジナルブレンドのエスプレッソを堪能する様を黙って見続けた。
「で、海人草は人間に寄生したハエにも利くんか?」
最初から美味いはずはないと分かっているミックス・ドリンクを飲んで、まさしく苦い顔をしている少年に問いかけると、彼は一瞬、驚いたような顔をした。
「何でケーサツがハエのことなんか調べてんの?」
彼の表情に浮かんでいるのは、自分たちに対する疑惑や警戒というよりも、むしろ不安といった方が正しかった。そう言えば、睦月教授が孫の友人に寄生したというハエの幼虫を分析していると言っていたことを思い出した。
「詳しくは言えねえんだけどな、ハエってのは死亡推定時刻を割り出す重要な要素になるだろ。ところが、こないだ見慣れないハエに遭遇しちまってな。そのハエがどういうモンかによっちゃあ犯行時刻が変わってくるだろ。それで調べてんだ」
もっともらしくそんなことを言ってみれば、少年は納得したのかしていないのか分からないが、どこか複雑そうな表情で視線を落とした。
「ハエが寄生したのが体の表面なら、海人草を飲んでもムダ。ピンセットで地道に取り除くしかない。内部寄生のハエに海人草が効くかどうかは不明だよ。本当の意味で人間に寄生する種類のハエは、いないからさ」
呆れたように言われると、多少ながらも苛立ちを覚える。しかし、被疑者でも無ければ補導されたわけでもない少年をファミレスで怒鳴るというのも警察官として褒められた行動ではないだろう。この程度のことで苛立っても仕方が無い。
矢沢はさも納得したように頷きながら、そして改めて少年に視線を向ける。彼の知識を褒めた後、そろそろ本題に入ろうかと思っていた矢沢だったのだが、先に少年の方が口を開いた。
「さっき、見慣れないハエを見たって言ってたよね」
「ああ、それが?」
出鼻をくじかれて拍子抜けしたような思いを味わいながらも、彼は自らの嘘とも真実ともつかない話にとりあえず頷いてみせた。
「ハエの成虫は、見た?」
意外なことを聞かれて、矢沢は微かに目を見開いていた。言われてみれば、矢沢は夏以来、空を飛んでいるハエを見ていない。そのままを告げると、少年が眉を寄せた。
「……俺の友達も、そうなんだよ。幼虫はいたのに、成虫がどこにもいないんだ。そんなことって、有り得ねえよ」
やたら深刻な顔をしている少年を見つつ、矢沢は取り出したタバコに火をつけた。
「確かに、いくらハエでも木の股から生まれてくるワケねえわなあ」
「それを言うなら、木の股じゃなくて汚物の中、だよ。中世までは実際にそう信じられてたんだから」
下半身に偏りぎみの冗談を真顔で返されると、妙に居心地が悪くなる。黒木がこっそり笑うのを視界の端に捉えながら、矢沢は気持ちを切り替えて本題に移ることにした。
「ところで、話に聞いていた以上に虫に詳しいんだな」
「まあね」
「お祖父さんから英才教育を受けたのか?」
何でもない素振りを装いながら問いかけると、彼は微かに視線を左側に逸らした。
「いや、教育って言うか…….。ガキのころ、祖父ちゃんから写真とか動画をいっぱい見せて貰ったんだ。夏休みの自由研究を相談した時だったと思うんだけど」
金髪の少年から「夏休みの自由研究」という単語で出ると妙に笑えてしまう。矢沢は引き攣りそうになる頬を意志の力で押さえつけながらも、その視線だけは彼の一挙手一動を注視していた。
「初めて見たのは、カタツムリに寄生するロイコクロリディウムっていう虫の動画だった」
小難しい名前の寄生虫を持ち出した途端、少年はそれまでの仏頂面が嘘のように、生き生きとした表情を見せ始める。矢沢は何ともいえない複雑な気分を味わった。
「日本にはいない虫なんだけどさ、ロイコに寄生されたカタツムリは、普段は鳥に見つからないように葉っぱの裏とかに隠れてるんだ。それで、体内の寄生虫が成長しきったら、敢えて高い場所に移動していくんだよ。そして、目立つ高い場所に出たら、ロイコはカタツムリの触覚に移動するんだ。外側からも見えるんだよ。半透明なカタツムリの中で、芋虫みたいなロイコが動くのが。鳥はそのロイコの動きを好物の芋虫と勘違いして、食べてしまうってワケ」
「へえ、そりゃあすげえな」
感心した声音を上げると、少年が更に嬉々とした顔でカタツムリに寄生するという小難しい名前の虫について語り始めた。矢沢はニコチンを深く吸い込んで、溜め息交じりに吐き出した。
寄生虫好きの少年も変わっていると思うが、小学生にそんなグロテスクな映像を見せる教授も教授だ。今更だが常識を疑ってしまう。教授にしろ少年にしろ、プライベートでは絶対に関わりたくないと再認識した瞬間、矢沢の脳内にどうでもいい疑問が浮かんだ。
「その、ロイコなんとか言うのが人間に寄生したらどうなるんだ?やっぱ、目がカタツムリの触覚みたいになったりするんか」
「なるわけないじゃん。人間の目とカタツムリの触覚は構造そのものが全く違うんだから」
途端に、少年の瞳から輝きが消失する。どうやらフィクションには興味が無いらしい。気持ちは分かる。刑事ドラマが好きな警察官は多いが、矢沢自身は現実とフィクションのあまりの違いに付いて行けず、最終回まで観れる作品に出会ったのはほんの数回ほどだ。
エンターテイメントは騙されてナンボだと分かってはいる。しかし、作品そのものがあまりにお粗末だと、粗ばかりが目立って気持ちよく騙されることができないのだ。
「ホラー映画は嫌いか」
「寄生虫の話だったら特に。ただの化け物扱いだよ。イラッとする」
「なるほど。それで、何でカタツムリの話になったんだっけか」
呆れた顔で問いかけると、目の前の少年は幸せそうな顔で経緯を語り始めてくれた。矢沢は頭をかき、新しいタバコに火をつけた。
「随分、寄生虫が好きみたいだが、実際に自分で飼ってみようとは思わないのか?」
タバコの灰を灰皿に落としながら聞くと、少年は苦い顔をして首を振った。寄生虫ダイエットで有名なサナダ虫がどうの、と言い出すことはだいたい予想できていたので、彼がまた講釈モードに入る前に、矢沢はカマをかけて畳み掛けることにした。
「だが、睦月教授は飼っているだろ?」
「え? 何を?」
そのポカンとした表情を見て、矢沢はアテが完全に外れたと認めざるを得なかった。
「あれ? 違ったかな。確か誰かがそんなことを言ってたような気がしたんだが。違う大学の教授だったかな」
表情には出さずに適当に誤魔化しながら、矢沢は内心で深く溜め息をついていた。交わした会話、観察した表情、瞬間的な態度。限られた時間で得た情報から、矢沢は初対面である睦月啓介という名の少年の人間性を分析する。
過去の経験を照合してみても、少年が被疑者に何らかの協力をしている可能性は限りなくゼロに近かった。
彼が無関係だと分かれば、いつまでも話し込んでいる意味はない。早々に切り上げようと、矢沢は黒木を促した。
「寄生虫の話を聞かせてもらった礼に、俺からもひとつ忠告をしておく。お前さん、不良には向かねえよ」
そう言った瞬間、少年の表情が変わる。どうやら、一度どこかに放り投げていた敵愾心が再び鎌首をもたげてきたらしい。矢沢は軽く笑った。
「後戻りが出来なくなる前に、とっとと居るべき場所へ帰れ。お前みたいに性根が純粋なヤツはな、ヤクザになってもロクなことにはならねえ。罪の意識で自滅するならまだしも、下手すりゃ取調べの段階で心が叩きのめされる」
「ヤクザになんかなるつもりねえっての!」
憤慨した様子の少年を見やり、矢沢と黒木は伝票を片手に背を向けた。二人の視線が交わる。一瞬の攻防の末、支払いは矢沢が受け持つこととなった。ファミレスのドリンクバー程度なら大した出費にはならないからいいが、警察は人付き合いが面倒なところがあるため、冠婚葬祭費用や接待費用などでかなりの金額が自分の財布から消えていく。
マル暴の刑事ともなれば、なおさらであるとのことだ。階級が上がれば上がるほど貧乏になるのは、何も民間会社の役職だけはない。
「月一万円なんて何の意味があるんだか。無いよりマシだが」
ファミレスを出た矢沢は、外の冷気に身を竦める。ふと振り返った店内で、寄生虫好きな例の少年が切羽詰った様子で誰かと電話で話している様子を目の当たりにした。反射的に、二人は表情を変えてさりげなく店の死角に移動する。待つほどもなく、少年が血相を変えてファミレスを飛び出してきた。
「つけるぞ」
矢沢の低い声音に、黒木が無言で頷いた。




