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 雪が降っていた。


「警察から事情聴取された? なんでお前が」


 点滴に繋がれた直人の口から出た言葉に、啓介は思わず目を見開いていた。荒い呼吸を繰り返しながら、途切れ途切れに直人はその経緯を語った。彼の話を聞くにつれて、啓介の表情が次第に強張っていく。


「お前が麻薬なんかやるわけねえだろ。警察も警察だ。疑ってもいいけど違うって分かったらすぐ引き下がれよ。だいたいお前もきちんと入院してなきゃダメだろ! なんでバイトに出たりなんかしたんだよ。死にたいのか!」


 直人はただ苦笑いした。啓介がなおも言い募ろうとした時、先に直人の方が口を開いたので、啓介はおとなしく口をつぐんだ。


「先生がさあ、けっこう庇ってくれたんだよ」


「先生が?」


「そう。絶対に覚せい剤なんかしていないって。医者の免許をかけてもいいってさ。サツを怒鳴ってた」


 薬王木の穏やかな顔を思い浮かべ、啓介は少しばかり意外な思いに駆られた。薬王木医院の副院長の人格について語れるほど付き合いがあるわけではないのだが、それでも自分の中の彼は決して言葉を荒げるようなイメージがなかった。


「俺、医者って嫌いだったんだけど」


「ああ、うん……。まあ、好きなやつは少ないだろうけどさ」


「先生みたいな医者もいるんだって、ちょっと意外だった」


 直人は点滴が繋がっていない方の手を持ち上げ、手のひらを顔の前に掲げた。そして、見慣れているはずの自分の手を表、裏と幾度となく返しながらじっと見つめていた。


「ガキのころに住んでたところで、よく覚えてねえんだけど、すげえヒドイ風邪ひいたんだよ。たぶん、こじらせたんだろうな」


「へえ?」


「金ねえし、滅多なことじゃあ病院なんざ行ったことなかったんだけどさ、そん時はさすがのおふくろもやばいと思ったらしくて、近所の病院に行ったんだ」


「ふうん」


「ガキのころは何が何だかサッパリだった。だけど、今だったら分かる。あん時、おふくろは受付? 窓口って言うんか? えっと、病院の金払ったりするところで、保険証ないって言ったんだ」


 顔の前に掲げていた手を、直人はそっと布団の上に降ろした。視界に入ったその手首が妙に細く見えて、啓介は理由の分からない焦燥に駆られていた。


「受付の姉ちゃん、ロコツにバカにしたような顔しやがった。待合室にいたジジイとかババアは、こっちに聞こえるように悪口言いやがる。親が悪いとか、子供が可愛そうだとか。こっちのことなんか何一つ知らねえクセに、知ったかぶった顔でさ。だけど、医者に比べりゃあ何倍もマシだった」


 投げ出された彼の指先に力が込められて、布団に爪をたてる。変わらない表情の中、啓介にはその指先だけが、直人の心を表現しているような気がした。


「何を言われたのかまでは覚えてねえけど……今だったら間違いなくブン殴ってるだろうな。なんつーか、ひたすら上から目線なんだよな。そんで、初対面なのに俺とおふくろのああいうところが悪いだの、こういうところが悪いだの。そのくせ、こっちを見ようともしねえんだ」


「ドクターハラスメントってやつじゃねえの?」


 一時期に流行したその言葉を言ってやると、直人が微かに笑って曖昧に肯定した。


「で、薬を大量に出されたんだよ。それも全部、粉薬で、何種類も。家に帰って、おふくろはそれを必死に飲ませようとするんだけど、もともと熱出して、吐いて、腹下してってやってる時に、そんだけ大量に薬なんか飲めねえってんだよな。ましてやガキだったし。で、無理やり飲まされては吐いて、飲まされては吐いてで、俺も母ちゃんもゲロまみれになっちまって」


 言いながら、直人は自嘲するように唇を歪めた。


「俺の方もしんどくてグダグダで、おふくろも疲れてグダグダで、そん時におふくろが言ったんだよ。こんなに苦しいのに、もう薬なんか飲まなくていいって。直人が死んじゃったら、一緒に死ぬからって、さ」


「……死ななくてよかったな」


 どう答えていいものか分からず、とりあえず思ったことをそのまま口にしてみた。直人は笑って、自分の頑丈さを強調した。そして再び持ち上げた手のひらを顔の上半分に乗せる。


「母親ってそんなモンかなって思ったりしたんだ」


 外気温との差で、窓ガラスに結露が現れ始めていた。黙って直人の話を聞いていた啓介の横で、一筋の雫がゆっくりとガラスを伝って落ちていく。


「何でだろうな。急に昔のこと思い出した。ヒマだからかな」


 顔を半分隠したまま自嘲する直人の気配が朧気で、理由を認めたくない不安が胸のうちにじわりと染みを作る。啓介は大袈裟に溜め息をつきながら立ち上がり、ベッドに投げ出された直人の手を軽く握った。


「ヒマなんだろ? マンガでも持ってきてやるよ。ジャンプとエロ本と、どっちがいい?」


 直人は即座にエロ本と答えた。二人して小さな笑い声をあげ、啓介はすぐ戻ってくると伝えて病室を後にした。


 廊下に出ると、直人の回診に行く途中らしい薬王木とすれ違った。軽く会釈すると、明るい声音で挨拶された。なんとなく恥ずかしくて、啓介は足早にその場を立ち去った。


 病院を出ると、途端に現実の寒さが襲い掛かってくる。啓介は思わずジャンバーの襟をかき合わせ、微かに背を丸めていた。ここへ来るまでは雪が降っていなかったので、当然のことながら傘は持ってきていない。ブロンドからプラチナ・ブロンドへと意図せず染め替えながら、啓介はとりあえず自宅の方へ足を向けた。


 直人は、言葉にはしないまでも心の底では母親のことを大事に思っている。この世の中でたったひとりの家族と呼べる存在なのだから、当然なのかもしれない。家族を大事に思うという気持ちは、啓介にはあまり理解できなかった。


 放任主義と言えば聞こえはいい。だが、啓介に関して言うならば単なる無関心でしか有り得ないような気がした。親が幼い子を放置すれば、世間はこぞって親を糾弾する。


 だが、子が親に対して放任主義を攻めることは、なぜか許されないのだ。育ててもらった恩を忘れて。生意気な。世間知らず。親に向かって……。見知らぬ他人は、好き放題に糾弾する。


 自分以外の誰かを攻めることほど簡単で気分のよいものはないだろう。その場でやたら常識的なこと、人道的なことを口にするだけでいい。たったそれだけのことで、正義の側に身を浸したような錯覚に陥れる。それも、自らは何一つリスクを負うことなく。


 いい意味でも、悪い意味でも、無関係な人間のことならば無視していればいいのだ。それができないのは、頭の中がヒマだからに違いない。かつては憤っていた他人の一挙手一動も、そう思えばあまり気にならなくなった。


 だからと言って、世の中のルール通りに生きてやれるほど大人しくなったつもりもない。啓介は頭の上に積もった雪を、乱暴に払い落とした。


 漠然とそんなことを考えながら歩いていると、気が付けば自宅が目の前に迫ってきていた。直人の注文の品を思い浮かべながら歩を進めていた啓介だったが、ふいにどこからともなく聞き慣れない犬の遠吠えが聞こえてきて足を止めた。


 このあたりで犬を飼っている家と言えば、三軒先の山下家が真っ先に思い浮かぶ。しかし、まさしく捕食動物が発するようなその低く、唸るような声音は、山下家のマルチーズ、すももちゃんの鳴き声とは似ても似つかない。


 聞き流すことをよしとしない妙に切迫した調子に飲まれて、啓介は自宅までのあと十メートルを踏み出せず、その場に立ち往生していた。よくよく聞いているうちに、その唸り声は人間の言葉になっていることに気付いた。更に耳を研ぎ澄ませていると、その言葉は「誰かいないか」という文章に聞こえてきた。


「どこ!? 名前言って! すぐ行くから!」


 立ち止まったその場で、四方を見渡すようにグルグル回りながら問いかければ、中島という苗字がかろうじて聞き取れた。家の近所なので、当然その名を表札に掲げる家の場所はすぐに分かる。


 啓介は有り余った体力を爆発させるように、中島家へ向けて猛然とアスファルトを蹴った。


「おじさん、どうした!?」


 中島家は、小学校への通学ルートの途中にある。啓介自身、数え切れないくらいその家の前を通ってきた。よって、住人の顔も家の雰囲気もよく知っている。


 中島家と言えば、小さいながらも手入れの行き届いた日本庭園と、着流し姿のハゲたオッサンという印象だったのだが、久しぶりに見たその家はどこか雰囲気が違っていた。


「おっさん! ナカジマさん!」


 かつては磨きこまれていた玄関の敷石に、僅かながら泥が付着しているせいだろうか。訪れる者を明るく照らし出していたポーチライトにヒビが入っているせいだろうか。曇った窓ガラスのせいだろうか。それとも、玄関の柱に薄くかかったクモの巣のせいだろうか。


 記憶と現実の差異に違和感が滲み出る。だが、今は気にしている場合ではない。


「勝手に入るからな!」


 一言断ると、犬の遠吠えのような声音が何か答えた。何と言ったのかまでは分からなかったが、了解したものだと勝手に納得することにした。しかし、玄関の扉に手をかけてみるものの、カギがかかっていて開かない。


 仕方なく、啓介は庭を回りこむことにした。


「どうしました?」


 大量の落ち葉が舞い降りたままの庭を行き来しながら、声にならない声を発する主とやり取りをしていた時、苔むした門の方から年若い女の声がかけられた。咄嗟に振り返った啓介は、声をかけてきた女の容姿を見て思わず絶句した。


 テレビや雑誌以外で、こんなに綺麗な女性を見たのは初めてだった。啓介よりも年上のように見えたが、きりっとした目元や、決して嫌味ではない赤い唇、まとめられた艶やかな黒髪に、きめ細やかな白い肌。決して派手ではないのに、他人、主に異性の視線を集めて放さないその面立ちを目の当たりにして、啓介は思わず今の状況を失念してしまっていた。


 一方、そんな啓介には構わず、見目麗しいその女はすぐに家の主へ呼びかけを行った。


「警察の者です!」


 その言葉を聞いた瞬間、啓介はその女が嫌いになった。


「ガラス、破りますよ!」


 返事も聞かず、彼女は手近にあった石を手に取ると、窓ガラスのカギがある部分を戸惑うことなく割ってしまった。唖然としている啓介の横で、彼女は出来上がった穴から手を入れてカギを外す。そしてガラリと音を立て、開いた窓から颯爽と室内に侵入してしまった。


 時間にして僅か十五秒。手馴れているとしか言い様のない素早さであった。逡巡した後、その場で待たされることも大人しく帰ることも嫌だった啓介は、彼女の後を追って窓ガラスを乗り超えた。


「靴は履いたままで! 怪我しますから!」


 畳に足を下ろした瞬間、律儀に靴を脱ごうとした啓介だったが、空気を切るようにして飛んできたその言葉に慌ててその動きを止めていた。ふと顔を上げれば、視界の斜め向こうに仏壇が見えた。


 まだ新しい遺影の中で、見覚えのある女性が笑っていた。記憶の中の姿よりも若干老けた印象があるが、かつてこの家に住んでいたおばさんだった。没年は、今から二年ほど前になっている。


 他人の家の、それも仏間に土足で上がりこむというのは、想像以上に良心が痛んだ。罪悪感に苛まれた啓介は、遺影に向かって軽く手を合わせておいた。心の中で小さく謝った後、声が聞こえた方に向かって歩き始めた。


「今、救急車を呼びました。すぐに来てくれますから、もう大丈夫ですよ」


 仏間を抜ければ、右手に台所が見える。その横には暗い廊下が続いていた。容姿端麗な婦人警官の声は、奥に続く廊下の方から聞こえてくる。啓介は弾かれたように彼女の方へ向かった。


 廊下の先にある階段の下に、倒れた老人とその傍に寄り添っている警官が見えた。随分とやつれた印象を受けたが、有り得ない方向に足を曲げて悶絶しているのは、間違いなく中島だった。ようやく状況を理解した啓介は、無意識に二人の方へと足を進めていた。


 失禁しているのか、つんとした臭いが鼻をさす。床を見れば、ズボンが吸収しきれなかったらしい水分が水たまりを作っていた。啓介は、その時、唐突に人間の体の中に何が入っていて、何が起きているのか理解した。


「おっさん、大丈夫か?」


 大丈夫なはずはないと分かっていても、月並みなことしか口をついて出てこない。啓介の頭は必死に現実と知識の間を行き来していた。意図的に単純なことを喋っていないと、思考回路が現実をシャットダウンしてしまうような気さえした。


 そんな啓介の内心を知ってか知らずか、中島の方は彼の顔に見覚えがあるらしく、彼の姿を見止めるなり僅かに表情を変えた。


「しっかりしろよ。もうじき救急車が来るってさ」


 どういうわけか、自分に向けられて伸ばされた中島の手を握りながら言ってやれば、彼は幾度か頷いた。何か喋ろうとする度に、その表情が激しく歪められる。外出血は無いようだが、もしかしたら肋骨が折れているのかもしれない。肋骨が折れるということは、と考え始めた啓介を現実に引き戻したのは、美人刑事の凛とした声音だった。


「啓介くん、玄関を開けてきてもらえますか? それから、救急車が来たら合図して誘導してください」


「わ、分かった」

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