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 ふと目を覚ました時、窓の外は薄っすらと明るくなっていた。無意識に壁にかけられている時計を見上げれば、その長針と短針は仄かな明かりの中、午前六時前をさしていた。


 こんなに早く目を覚ましたのは何ヶ月ぶりだろうか、と自堕落な生活を送ってきた啓介は思う。そして答えが出せないまま、隣のベッドで眠っている直人の様子を見るために冷えた床に足を下ろした。


 直人はうつ伏せのまま、今は静かに眠っているようだった。昨晩、この病院の医者に投与してもらった薬が効いたのか、熱も引いて呼吸も落ち着いている。


 ただ、一時的に症状が落ち着いているからといって彼の病名が変わるわけではない。複雑な気持ちで、啓介は幼馴染を見下ろしていた。


 ふいに、扉の向こうからスリッパでリノリウムの廊下を歩く音が近付いてきた。顔を見るまでもなく、薬王木だと察しをつけた。やがて小さなノック音がして、遠慮がちに扉が開かれた。


「落ち着いているようですね」


 直人を一通り診察して、薬王木は僅かながら安堵したような表情を浮かべる。


「でも、油断できないだろ」


 自分でも驚くほど冷たい声だった。薬王木が気を悪くするかと思ったが、意外にも彼の態度は変わらなかった。


「ええ、油断はできません。けれど、君がそんなに思いつめた顔をしていては、直人くんは必要以上に不安になりますよ」


 言われて、啓介ははっとしたように薬王木を見た。


「どんな病気であれ、気持ちが大事です。周囲の人間の態度も、患者さんにとっては重要な判断材料ですからね」


 どう答えていいか分からず、唇をかみ締めて黙り込んだ啓介を見て、薬王木は柔らかな笑顔を向けた。


「昨夜、あまり寝てないでしょう? とりあえず、今日は一度帰って休んでください。直人くんの保護者にはこちらから連絡しておきますから」


 薬王木は啓介のことを心配しただけなのかもしれない。だが、啓介にとっては直人の件で、部外者のような扱いを受けたような気分になってしまった。説明のつかない気持ちが胸の奥にじわりと湧き上がり、途端に不機嫌になった啓介は、挨拶もそこそこに処置室を後にしていた。


 足音も荒く廊下を抜け、待合室へと出る。そこから外へ出ようとしたものの、電源が入っていない自動ドアからどうやって出ていいのか分からず立ち止まってしまった。


 昨晩、直人を運んできたときに薬王木がドアに鍵をかけていたような覚えはあるのだが、余裕がなかったせいで、どこをどうしていたのかまでは思い出せなかった。試しに力任せに引いてみたが、当然動かない。


 苛立ちを誤魔化すように爪先でガラスを軽く蹴り上げる。そんなことをしてもドアが開かないのは分かっていたが、やり場のない思いを抱えたままではいられなかった。


「ああ、やっぱり。すみません、すぐ開けます」


 別の入り口を探そうと踵を返したところで、苦笑いを浮かべた薬王木と鉢合わせした。ガラスを蹴る音を聞かれたかもしれない。ばつの悪い思いが込み上げ、彼はただ視線を逸らした。


「まだ、名前を聞いてなかったと思って」


 薬王木はしゃがみ込み、サッシの部分にあるロックを外しながら問いかけてきた。興味深そうに彼の手元を覗いていた啓介は、一瞬迷うような顔をした。


「随分、医療に詳しいですよね。少し意外でした」


 屈託の無い笑顔で言われて、啓介は更に言葉に窮したように黙り込んでしまう。薬王木の手が更にドアの中央にある鍵を外すと、ドアは軽く力を込めるだけで横に開いた。啓介は逃げるようにドアの向こうへ滑り出る。


「別に。じいちゃんが……寄生虫とか、そういうのに詳しいからさ」


 早朝の空気は肌を突き刺すように冷え切っている。その寒さに思わず背中を丸めたとき、薬王木が何か得心したような表情になった。


「先生には昔お世話になりました。懐かしいです。そうですか、君が先生の……」


 過去を懐かしむような顔で微笑んだ薬王木をチラリと見やり、踵を返そうとした啓介だったが、ふいに名を呼ばれて足を止めた。


「君は、将来の夢のために努力している人をどう思いますか?」


 いきなりのことだったので、啓介は些か不振そうに薬王木を見やった。彼は何も言わずに啓介の答えを待っている。何となく、雰囲気に流されて啓介は思考回路を回転させた。


「立派だと思うよ、普通にね。とりあえず、努力とか修練とか、俺には無理だし」


 自嘲するように答えると、薬王木も釣られたように小さく笑い声をあげた。


「将来の夢のために努力することが、立派だと評価されるのは十代まで、です。これは、覚えておいた方がいいと思いますよ」


 ふいに声の調子を落とした薬王木の表情には、微かに苦いものが浮かんでいた。


「二十歳を過ぎれば、将来の夢ではなく将来の現実のために努力することが義務に変わります。そして義務を果たせない人は、世間から堕落者、怠惰者と言われてしまう。そんなものです」


 啓介はどう答えていいものか分からず、軽く会釈だけして黙ってその場を後にした。正直なところ、薬王木が何を言っているのかよく分からなかったというのが本音だ。


「さむっ」


 啓介はこの町で生まれ、この町で育った。薬王木医院は、啓介が物心ついた時からすでにこの場所にある。薬王木医院の跡継ぎである“若先生”が東京で研修医、そして勤務医を経てここへ帰ってきたのは今から十年ほど前だったと聞いている。


 そして、小学生のとき、インフルエンザにかかって高熱に苦しんでいた啓介を診察してくれたのは、間違いなく若先生だった。


 霜の降りた住宅街を歩きながら、啓介は子供のころのことを思い出していた。最後に若先生を見た時に比べて、その見た目にはさすがに十年の年月を感じさせられた。


 しかしながら柔和なあの雰囲気は全く変わっていなかった。そして、どこか疲れたような、端整な目元に影を落とした、あの表情も。


 無意識に零した溜め息が白かった。ポケットに手を突っ込んだまま、少しばかり前かがみになって歩きながら、啓介は直人の家に携帯電話を置いてきたことを思い出した。


 意味のある連絡など来るはずはないと分かってはいても、手元にないとなぜか落ち着かないのが携帯電話というものだ。人によっては携帯電話があると束縛されるような錯覚を覚えるから持ちたくないという意見もあるそうだが、啓介にとっては携帯電話のない生活は考えられなかった。


 自宅へ向かうルートを変更し、直人のアパートへと向かう。ところどころ塗装が剥がれ、外気に凍りついた外階段を上った。二階にある彼の部屋の窓から明かりが漏れ、張り出した換気扇からタバコの臭いが漏れている。


 赤いラーク。独特の、この臭い。そこから想像した人物の顔を思い浮かべ、啓介は唇を強く噛んでいた。


 できれば、顔を合わせたくない。けれど携帯電話は取りに行きたい。どうしたものかと動くに動けず、立ち往生していると、部屋の中から問題の女性が出てきてしまった。


「あら? 啓介くんじゃない? 久しぶりね。こんな朝早くにどうしたの?」


 ひどく酒に焼けた声音がかけられる。記憶にある姿よりも、二まわりほどウエス

トが広くなったような気がした。厚い化粧と、そして艶のない爆発したようなパーマのせいで、実際の年齢よりも老けて見えた。


 直人を十代で産んだと自慢していた彼女は、まだ三十代の中盤のはずだった。しかし、どう見ても五十代にしか見えない。自らを美しく見せるためにあれこれ手を加えた結果、逆に実際の年齢よりも老けて見えるというのは、何だか皮肉だった。


「あ、えっと……直人の部屋に、ケータイ……忘れて……」


 咄嗟に、挨拶さえ出てこない。用件のみを口走った啓介を見やり、直人の母親はにっこりと笑った。


「ケータイ? いいよ、上がって」


 ちなみに、アパートの鍵は郵便受けの内側にテープで止めてあるのだということは長年の付き合いで知っている。思いがけず家主から許可が出たので、啓介はおずおずと家に上がらせてもらった。


「啓介くんさ、まだうちの直人とつるんでんの?」


 雑誌や衣服で散らかった部屋の中、さてどこに置いただろうかと自分の記憶を呼び起こしていた真っ最中にそう聞かれ、啓介は一瞬何のことか分からなかった。


「え……はい、まあ」


 一泊置いて曖昧な返事をすれば、直人の母親はどこか悲しげに笑って見せた。彼女の心境など知る由もない上にあまり興味もない啓介は、とりあえず探し物の続きに戻った。


「まあ、仲良くしてやってよね」


 ようやく携帯電話を見つけ出し、早々にお暇しようかと玄関に向かった啓介の背に、そんな言葉がかけられた。もともと何かを強制されることが嫌いな啓介は、自然と直人の母親を睨むような顔つきになってしまった。


 そんな啓介を見て、直人の母親は口元だけで笑っていた。その顔を見て、啓介は今更ながらに彼女が直人のことを気にかける素振りさえ見せないことに気が付いた。


 苛立つ。血が逆流するような感覚に襲われる。


「お邪魔しました」


 かろうじてそれだけ言うと、啓介はそのまま逃げるようにアパートを後にした。

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