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10(グロ注意)

 深夜三時過ぎ、一般人にとっては現実にお目にかかることさえ難しい大人気の女優と、今まさしくベッドインというその瞬間、矢沢は、無慈悲な携帯電話の呼び出し音によって夢の世界から現実に引き戻されていた。


 いいところを邪魔された矢沢は、電話をかけてきた相手に毒づきながらも通話ボタンを押した。相手も仕事だから仕方ないと分かってはいるものの、この世知辛い世の中、おいしい夢など起きていても見られない以上、文句のひとつくらいは言わせてもらいたい気分なのだ。


 その不機嫌さを隠すことなく電話に出た矢沢は、同時に枕元に常備しているタバコに火をつけていた。


 相手の声を聞くうちに、矢沢の表情が次第に強張っていく。一口しか吸っていないタバコを灰皿に押し付け、彼は万年床から勢いよく飛び出した。


「家族は離れたところに集めておけよ。死体に触れないように気をつけるんだ。すぐ向かう!」


 短く言って通話を終え、彼はいつでも出かけられるようにソファの上に投げ出している着替えに袖を通し始めた。着替えだけ終えてしまうと、あとは車のキーを手に大急ぎで部屋を飛び出した。


 エレベーターを待つ暇が惜しく、彼は三階分の階段を飛ぶような勢いで駆け下りる。駐車場についた時、彼は全身汗だくで息も絶え絶えになっていた。


「タバコの吸いすぎかあ?」


 体力が衰えてきた理由を止められないタバコに押し付け、苦笑いを浮かべる。そしてギアをドライブに叩き込み、一気にアクセルをふかした。


 彼の愛車は子育てが終わった娘夫婦から非常に安い値段で譲り受けたダイハツ、タントである。乗っている車を聞かれ、名称を答えると、必ず聞いた本人が笑い出す。乗り始めたばかりのころは人並みに抵抗を感じていた矢沢だったが、今ではその操縦性の良さと抜群の機動性に愛着を持っていたりする。


 時間が時間であるため、国道は交通量が少なくスムーズに流れていた。逸る気持ちを抱えつつ、警察官としてのプライドが交通違反を許さない矢沢は、努めて制限速度を維持していた。片手でハンドルを操りながら、もう片方の手で整髪剤を使い、寝癖をごまかしていく。ついでに目の周りも指先で掃除しておいた。


 国道を逸れて私道に入る。街頭の下、三十キロ制限の標識がドライバーに無言で訴えかけている。県が、全国に先駆けて私道の制限速度を設けた経緯を思い出し、矢沢は軽く眉間に皺を寄せた。


 私道をしばらく走らせていくと、やがて視界に回転する赤色ランプが映りこんできた。矢沢と同じように、深夜であるにも関わらず駆り出された警察官が、さっそく現場保存と野次馬対策に本腰を入れているようだ。彼らの仕事に満足を覚えつつ、彼は道路脇に車を止めた。


 タントを降りれば、途端に突き刺すような冬の冷気が体を包み込んでくる。矢沢は身震いをひとつして、ひっそりと静まり返った一軒家を改めて見上げた。西洋のドールハウスを思わせるモーブピンクの外観に、窓の下に植えられた花壇。一見して、年若い今時の主婦が好みそうな低価格住宅だった。


「よお、お疲れさん」


 黄色いテープを潜って声をかければ、現場の制服警官たちが一斉に敬礼する。彼は歩みを止めないまま、さっさと玄関を目指した。


 花びらを思わせる照明に照らされた玄関は、ハイヒールと革靴に混じって子供用の靴が幾つも散乱していた。手袋を嵌めながら、入ってすぐ左手にあるリビングに顔を覗かせる。矢沢の姿を見止め、真っ先に声をかけてきたのは、彼に連絡を寄越した黒木だった。


「遺体は奥の和室です」


 短く言って、彼女は矢沢を部屋の外へと促した。彼の目に映ったのは、憔悴しきった様子の三十代と思しき夫婦、そして何が起こったのか分からず不安そうな表情で両親にくっついている小学生くらいの男の子と女の子の姿だった。


「嫁と姑の問題でもあったのか?」


 冗談のつもりでもなく聞けば、黒木は黙って首を振った。パジャマ姿の健康そうな子供、そしてどこにでもいる普通の夫婦。彼らの姿はあまりにも日常的であった。


 それゆえに、深夜三時過ぎというこの時刻、煌々と灯された部屋の明かりの下に大勢の人間が歩き回っているというこの光景が、妙に不自然なことのように感じる。


「遺体になって発見されたのは、ご主人のお姉さんです。子供さんを寝かしつけた後、大人三人で深夜までお酒を飲んでいたとおっしゃっていました」


「つまり、ついさっきまで生きていたってことだな」


 頷く黒木を横目で見ながら、鑑識員に会釈する。そして開け放たれた障子の向こうに横たわっている女の体に視線を向けた。


「深夜零時過ぎ、それまで普通に会話していたお姉さんが急におかしなことを口走り始めたそうです。まるで幻覚でも見ているような、そんな印象を受けたとご夫婦はおっしゃっていました」


 矢沢は注意深く死体の傍に膝をついた。年齢は三十代の後半といったところだろうか。有名なブランドの名前が付いたシャツとスカートを纏い、首には見るからに高級そうなダイヤのネックレスが巻かれていた。


 茶色に脱色された髪の狭間に、ネックレスと同じデザインのピアスが光っていた。化粧はまだ落とされておらず、死体に独特の臭いに混じって香水や整髪料の臭いもかすかに残っている。


 死の間際に胸痛でもあったのか、見ている方が気が遠くなりそうなほど繊細なアートを描きこまれた爪が、胸のあたりを強く押さえたまま固まっていこうとしていた。


「そして急に眠たそうな雰囲気を見せたので、和室に用意していた布団に運んだとのことです。その直後、胸を掻き毟るようにして呻きだし、痙攣を起こして動かなくなったそうなのですが、それと同時に、こういう状況になったとおっしゃっていました」


 今、矢沢の目の前では、死体の鼻、そして口から大量のウジが這い出てきている。おそらく、服の中でも出口となり得る穴という穴からウジが溢れてきているのだろう。生命をなくしたはずの女。その服だけが異様な動きをしているのはそのせいだ。


 ふと、矢沢はメンソール系のつんとした臭いを捉えた。視線を巡らせると、少し離れたテーブルの上に虫刺され用の軟膏が置いてあるのが見える。もう一度、死体に視線を落とした。


「事件性はナシだな。どっからどう見ても他殺じゃあねえ」


「となると、伝家の宝刀、急性ナントカ不全の出番ですね」


「この場合は急性心不全で決定だろ」


 冗談にもならない冗談を言い合い、矢沢は身を起こす。リビングで青い顔をしている夫婦に、もう一度詳しい事情聴取をしてみたいと思った。部下からの報告でも充分といえば充分だったが、それでもやはり捜査の基本は自分自身の足、目、耳そして勘。これに限るという信念は曲げられない。


「大丈夫ですか?」


 廊下を抜け、リビングに入った矢沢は、ソファに座っている家族に向かって、開口一番にそう声をかけた。


「いきなりのことだったと聞きましたよ。ましてや、お嬢ちゃんもお坊ちゃんもまだ小さいのに、こんな夜遅くに」


 相手の様子を窺いながら、矢沢はなるべくゆっくりと、そして穏やかな調子を保ちながら言葉を重ねた。こういう時、矢沢は敢えて視線を柔らかくすることを心がけている。


 現場にやって来る刑事は基本的に獲物を狙う猛禽のような眼差しをしている連中が多い。仕事柄そうなるのは仕方ないと言えばそれまでだが、それでは被害者の方も緊張してしまって口が堅くなってしまうのだ。


 ついでに、突然の不幸に見舞われた人間というのは、それだけで心理的なストレスを抱える。続く警察の捜査に関しても、一般人が考えているほどスムーズに始まり、終了して開放されるというものでもない。


 それに、警察から事情聴取を受け、彼らが引き上げて行った後も、自宅で死亡者が出たという事実は決して変わらない。家族の中の、特に夫人の顔には複雑で深い不安が浮かび上がっていた。


「捜査一課の矢沢です」


 警察手帳を見せながら、相手を刺激しないよう抑えた声音で名乗る。そして大事な手帳を胸ポケットにしまった。


「お疲れではありませんか」


 ひとりひとりの顔を見ながらそんな声をかえれば、主人が力なく、しかしながらも丁寧な口調で否定した。


「突然のことで……。驚いてしまって……。何が起きたのか分からないなんてことが、本当に……」


 主人が切れ切れに呟いた言葉に、矢沢は深くゆっくりと頷いて見せながら相手を労わる言葉を口にした。すると、矢沢の思惑通り、自らの境遇に対して刑事が同情を寄せていると錯覚した主人は、今度は警察が味方だと思い込み始める。


 たいていの人間は、不幸に見舞われた際、深層意識は自分の味方になってくれる人間を望む。味方は強ければ強いほどよい。それが国家権力であれば、それほど頼もしいと思えるものはないはずだ。彼の表情が緩んだことが、まさしくその心境の変化を物語っていた。


「救急車を呼ぶべきか、迷ったんです。でも、いきなりのことだったし、それにあんなにたくさん虫が急に……。動転してしまって、つい警察を……」


「ご主人の判断は正しいですよ。あの状態で搬送されたとしても、病院側にできることは無いですからね」


 頭を抱える主人に向かって穏やかに笑いかけながら、適当なことを口走る。


 心理的なストレスを受けた上に、慣れない状況で家族は見るからに疲労困憊している。そんな人間から更に根堀り葉堀り情報を聞き出すためには、それなりの下準備というものが必要となる。


 人間はコンピューターとは違う。警察が質問を向ければ、知っていること、あるいはこちらが必要な情報を必要なだけ提供するなど、そんなことはないのだ。


「お子さんたちは、部屋で休んでもらいましょうか。随分と賢そうな子だ。それに顔色もいい。普段、こんな時間に起きていることはないでしょう?」


 暗に夫婦の教育や躾がいいという意味合いを込めてそんなことを言えば、大人二人が同時に頷き、子供二人が同時に首を振った。矢沢にしてみれば、子供を気遣ったのは本当だった。


 だが、本人たちは、日常とかけ離れたこの状況の中で大人と引き離れることを不安に感じているらしい。両親を見やれば、母親が腕を回して女の子の方を抱いている。


 それならそれで無理強いすることもない。矢沢は子供が同席することには特に言及しないまま、手帳とペンを取り出した。ただ、夫婦を不快にさせないためにも、子供の前では言葉選びが慎重にならざるを得ない。


「お伺いしたいんですが……お姉さんとは、普段から仲がよろしかったですか? 頻繁に遊びにいらっしゃるようなことが?」


 ここへきて、ようやく本来の質問を向ける。過去に部下が同じ質問をしているかもしれないが、家族の意識が自分に好意的な方向に傾いているため、それについて文句が出ることは少ない。


「義姉は、その……結婚生活がうまくいっておりませんで、二週間前からうちに泊まっていたんです」


 答えたのは夫人だった。複雑そうな視線が一瞬だけ子供に向けられる。結婚生活に関する話は子供の前では語りたくないかもしれない。矢沢はそう判断した。


「避難されていた、ということですか?」


 遠回しに聞けば、夫人は黙って頷いた。そこで、矢沢は和室で死体になっていた女の顔に痣があったのを思い出した。


「お子さんたちは、お幾つですか?」


「この子は十歳です。兄の方は来年、中学に上がります」


 不安そうな顔をしている二人の子供に笑いかけ、矢沢は答えた夫人の方へ視線を向ける。


「お兄ちゃんは、来年中学生か。今更ですけど、奥さんはもうすぐ中学生のお子さんがいらっしゃるようには見えませんね」


「いえ、そんな……」


 こんな状況にも関わらず、女は自分の容姿に向けられた言葉には敏感だ。


「お義姉さんも随分とお若いようでしたが、幾つでしたっけ?」


「えっと……今年、三十八です」


 姉の年齢を答える夫人の表情や態度には特に不審な点はない。純粋に聞かれたことに答えているだけだ。その裏に、何らかの感情の動きは見えなかった。


 女同士の諍いがある場合、たいていその年齢や容姿について触れれば怨恨の度合いが見て取れる。矢沢は適当な返事をして、今度は主人の方に視線を向けた。


「個人的な話で恐縮なんですが、警察官ってやつは、実はけっこう出費が激しい仕事でしてね」


「はあ……」


「冠婚葬祭に、訪問先に持っていく菓子折りに、付き合いに。階級が上がれば上がるほど懐が寂しくなるのがこの仕事の世知辛いところなんですわ。中には、見栄を張りたいあまり借金しちまう連中もいたりしてね。それで、うちの嫁さんは、やってられないとか言い出して、子供が成人すると同時に実家に帰っちまったんですよ」


「そう、ですか……。それは……」


「いや、すみませんね。なんだか家族の仲がよろしいように見えたもので、羨ましくて」


 事実だったが、冗談にも聞こえるように明るい口調で矢沢は語る。主人は実家、離婚、借金といったキーワードに、特に反応を見せなかった。矢沢は空振りを確信した。


 嘘をつく時、人間は一瞬、視線を右にそらす。やましいことを隠そうとする時、あるいは嘘をつく時、人は無意識に手を隠そうとする。言葉でどんなに取り繕っていても、態度を固めていても、ほんの一瞬の心の動きまでは隠すことができない。


長年、人間を相手にする仕事をしてきた矢沢には、自明のことであった。

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