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秋深く

「草原を共にさまよい 一緒に羊を放って」

 朱色の夕暮れの陽があばら家を染め上げる中、軒先に、柿を通した紐を並べて吊るしながら歌っていた女は、吊るされた実に一瞬止まって、また飛び去っていく蜻蛉とんぼの姿を懐かしげに見送った。

 家内に戻り、雑穀の飯が炊き上がっているのを確認すると、今度は籠一杯に取った栗のいがを向いて、中の実を取り出し始める。

「来る日も来る日も 姿を近くで眺めていたい」

 滑らかな白い手の薄紅色の指先が、日生の顔に似て艶やかな褐色の実を撫ぜた。

 パチ、パチ、パチ、パチ。

 熱した鍋の上で、まるで生きているかのごとく跳ね上がる栗の粒を、綸裳は円らな黒い瞳をいっそう大きく見張って眺める。

 パチ、パチ、パチ、パチ。

 白い歯並びを見せ、瑞々しい頬に笑窪を浮かべたその表情は、新たな遊びを見つけた童女のようであった。

 パチ、パチ、タッタッタッタッ。

 綸裳は大きな目を見開いたまま、ふと鍋から視線を上げる。

 薄橙色の炎が照らし出す家内は、織りかけの布が掛かったままの機も、その横に畳まれた完成済みの織物も、隅に追いやられるように置かれた長持ちも、何一つ変わったところは見せていない。

 パチ、パチ、タッタッダッダッダッ!

 眼前の栗の弾ける音を駆逐する勢いで、異様な物音が近付いてくる。

 既に炊きあがった雑穀飯のふっくりした匂いに香ばしい焼き栗の香りが入り混じる中、女は粗末な衣の胸に手を当てて、座していた膝を立ち上げた。

 ダン!

 あばら家全体を揺らすような衝撃と共に、扉が開いた。

やまいぬだ」

 大きく破けた袖の右腕に鮮血を滲ませた日生は、利く方の左手で叩きつけるように扉を閉めると、駆け寄った綸裳の細腕にがくりと崩れ折れる。

 その拍子に背負った薪が数本、ガラリと床に散らばった。

「すぐそこで、咬まれた」

*****

「別に今日、初めて、豺に遭ったわけじゃねえよ」

 微かに虹色を帯びた、新しい衣に身を包んだ男は、どこか哀れむように笑った。

「しばらく遭わなかっただけだ」

 苦く付け加える日生の目は、剥き出しの足首の一際黒ずんだ古傷に注がれていた。

「出くわさずに済んでたって、けものは山のどっかそっかに潜んでる」

 炎が照らし出す男の手にも足にも、黒ずんだ古傷、治りかけの傷、そして新たに出来たばかりの傷が模様のように刻まれている。

「どうして、山を降りないの」

 女は燃え盛る火を見詰めながら、ぽつりと言った。

「麓の町で暮らした方が、ずっと安全でしょう」

 綸裳の静かな声と面持ちは、たった今、浮かんだ想念ではなく、長らく胸の内に抱いていた疑問を切り出した風であった。

 窓の外ではいつの間にか降り出した雨と共に風が強まっているらしく、軒に打ちつける音が部屋の中にも響いてくる。

「降りられないんだ」

 ややあって男が答えた。

「お父がしょっ引かれて、首斬られたからさ」

 日生は怪我をしていない左の手で新たな薪をくべる。

「それから、ずっと、俺らはこの山で暮らしてたんだ」

 弾みでパチリと飛んできた火の粉を払うと、男はその手をそっと傷付いた右腕に添えた。

「たまに降りて、ちょっと売り買いする分には、何も言われねえけどさ。山で獲った毛皮は重宝されるし」

 炎を朱色に燃え上がらせながら、薪はその中で黒く変じていく。

「でも、お母の具合が悪くなった時も、付けは駄目だからその場で払えって、いっつも高値で少ない薬買わされて」

 若者の目は、火の中で折れ曲がり崩れ去っていく木片に注がれている。

「麓で住んでた家も、とうにぶっ壊されて、今じゃ町一番の大井戸さ」

 やっと聞こえるくらいの声で、日生は付け加えた。

「俺らの家は、邪魔だったんだろう」

 雨の軒打つ音が少し収まって、ひっそりと濡らす調子に転じた。

「もう遅いから、寝よう」

 提案よりも打ち切りの口調で告げると、日生は立ち上がる。

 と、その瞬間、背後から女に抱きつかれた衝撃で、相手の膝の上に尻餅をついた格好になった。

「どうした」

 まるで見知らぬ相手に刺されたかのように、男は呆然とした面持ちで続けた。

「何のつもりだよ」

 答えの代わりに、綸裳の滑らかな頬が日生の耳に押し当てられた。

 男がびくりと全身を震わすと、女は男の服の袖を掴んだ手をいっそう強く握り締めた。

「初めてなんでしょう」

 振り切れば折れそうに華奢な腕だが、日生は金縛りにあったように動けなくなる。

「一人で冬を越すのは」

 細い声は、誘惑よりもむしろ自らも不安を訴えていた。

 火の勢いが弱まって部屋の中が次第に暗くなる一方で、焼け焦げた墨の匂いに混じって、百合に似た香りが強まっていく。

「それは、私も同じだから」

 雨音が全てを掻き消すように激しく焚き付けた。

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