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触れる令嬢と触れない公爵――呪いが効かない私だけ、毎晩六時にその手を握ることになりました(fwr)

掲載日:2026/09/21

【あらすじ】

十九年間、素手で触れた相手の生命を損なう《接触性命蝕症》に苦しみ、黒手袋を外せない公爵レオナード。生命触診師エレナが初めて彼の指へ触れても、有害反応は起きなかった。原因を探るため、毎晩六時に診察する二人。触れることが治療だったはずなのに、レオナードはやがて「私の身体は、お前の手の形を覚えている」と言う。完治して患者でなくなった三日後、彼は同じ六時に手袋なしで診療所へ戻ってくる。


夕方六時。

診療所へ入ってきた男を見て、エレナが最初に確かめたのは顔ではなく右手だった。

黒い手袋。

レオナード・オルディス公爵。

十二歳の園遊会で異変を起こして以来、十九年間、素手で触れた相手の生命と魔力を損なう《接触性命蝕症》に苦しんできた。

「鎮痛薬だけ出せ」

「診察しません」

公爵の眉が動く。

「私に触れた人間は、まともではいられない」

「だから一秒から始めます」

エレナは右手を差し出した。

「触れてもよろしいですか」

レオナードは長く見た。

「……後悔するな」

黒手袋が外れる。

冷えた人差し指が、エレナの掌へ触れた。

一秒。

二秒。

三秒。

何も起きない。

レオナードの指が震えた。

「……なぜ生きている」

「私も知りたいので、五秒まで続けます」

「お前は怖くないのか」

「怖いですよ」

エレナは脈を取る。

「怖いことと、診ることは別です」

五秒。

有害反応なし。

十九年間、誰にも素手で触れられなかった男の手が、エレナの掌にあった。

翌日、午後六時きっかり。薄暗くなり始めた路地に重い足音が響き、診察室の木扉がノックされた。入ってきたレオナードは、昨日と同じ濃紺の外套を身につけていた。部屋に入り、扉が閉まるのを確かめた彼の右手が、黒手袋へ伸びる。「……昨夜、公爵邸に戻ってから手首を確認した」長椅子に腰を下ろしたレオナードが、剥き出しの右腕を見つめながら言った。「黒い筋が消えたわけではない。だが、いつも夜半に襲ってくる骨の芯が凍りつくような悪寒が和らいでいた。……あれは何だ」

「昨日の接触は三十秒足らずでした。昨夜、悪寒が和らいだ。確認できているのはこの二点です」エレナは手元の記録紙を整え、彼の正面の丸椅子に座った。「本日の触診に入ります。手を」「ああ」

差し出された右の手首に、エレナは人差し指と中指の腹を添えた。呼吸を整え、知覚の焦点を血管壁、その周囲の組織、さらに深い命脈へと沈めていく。ドク……ドク……ドク……。第一の脈。一分間に六十八回。深く、規則的な拍動だった。しかし、エレナの指先はその奥に走る、別の振動を捉えていた。

チ……チ……チ……チ……。

耳鳴りに似た、硬質な微振動。心臓が送り出す血流の休止期に、機械仕掛けの針が落ちるような精度で割り込んでくる。エレナは時計の秒針を見つめながら、そのリズムを数えた。一分間に、およそ百四十回。

「……息を止めてみてください」レオナードが息を止める。第一の脈が遅くなり、血管の緊張が上がる。だが、裏側の振動は変わらない。百四十回。レオナードが息を吸っても、吐いても、姿勢を変えても、第二の脈は百四十回のリズムを保っていた。

「息を吐いて結構です」「何が分かった」「公爵様のご自身の心拍とは同期しない、第二の周期が存在します」エレナは万年筆を取り、記録紙の上に二本の平行な波線を描いた。上が緩やかな生体波。下が均一なトゲ状のスパイク波。「一分間に約百四十回。異様なのは、その拍動数そのものよりも……ほとんど揺らぎがないことです。生身の人間の脈拍は、呼吸や感情で揺らぎます。ところが、この波形には、その『遊び』がない」

「それが、私の呪いの正体なのか」「第二の周期はあります。ただ、発生源なのか、病変の結果として現れた波なのかを分ける所見はまだありません」エレナは冷静に告げた。「ただ、確実なのは一つだけです。あなたの身体の内部で、あなたの生命秩序とは無関係に動いている独立したリズムがある。次は、これが発生源なのか、末梢の共鳴なのかを調べます」

レオナードは記録紙に描かれた不気味な規則正しい波線を見つめた。感情を交えず、ただ事実だけを紙の上に切り分けていくエレナの指先を、彼の藍色の瞳が静かに追っていた。

契約から五日目の深夜、冷たい小雨が降る午前二時。診療所の扉が叩かれた。「先生! エレナ先生、おられますか!」ルーカスの悲痛な叫び声に、エレナは白衣を羽織り、医療鞄を掴んで階下へ駆け下りた。

公爵邸の最上階、分厚い鉄張りの扉に閉ざされた主寝室は、異様な低温に包まれていた。部屋の四隅に置かれた魔力遮断の結界石が、青白い火花を散らしている。床の上に敷かれた絨毯の中央で、レオナードが右腕を抱え、荒い息を吐きながら蹲っていた。「う……ぐ……っ」剥き出しの右腕。手首から肘にかけての皮膚が、内側から押し上げられるように波打ち、青黒い血管の筋が毒々しく隆起している。悪寒に歯の根が合わず、額には油のような冷汗がびっしりと浮いていた。

「先生、近寄ってはなりません! 今触れれば――」「ルーカスさん、毛布と温めた布を用意してください。結界石の出力を一段下げて換気を」エレナは指示を飛ばしながら、レオナードの前へ膝をついた。まず意識水準を確認する。「公爵閣下。私の声が分かりますか」「……来る、な……」視線は定まらないが、応答はある。「診察が必要です。手首に触れてもよろしいですか」数秒の後、レオナードが小さく頷いた。呼吸数は促迫。

(循環不全を疑う所見が揃っている……)エレナは呼吸を沈め、極小出力の生命触診でレオナードの手首を押さえた。瞬間、エレナは眉を寄せた。

(……弱い?)皮膚の隆起と全身の痙攣。外見上の症状は初診時を遥かに超えて激烈だった。しかし、彼女の指先に伝わってくるあの機械的な《第二の脈》は、百四十回のテンポを保ちながらも、その振幅は普段の半分以下に縮こまり、今にも途切れそうに明滅していた。

(皮膚の隆起と全身の痙攣があるのに、第二の脈はむしろ減衰している……? 暴走ではなく、遮断あるいは枯渇の反応……?)

エレナはルーカスに乾いた毛布を追加させ、まず体幹の保温を優先した。右腕そのものは強く揉まず、皮膚色、温度、感覚、脈の変化を数分ごとに確認する。

十分。二十分。温めた布を慎重にあてがい、全身の循環の回復を待つ。やがて、隆起していた血管の筋が沈静化し、レオナードの呼吸が落ち着いていった。

「……ルーカスさん。今夜、屋敷の魔導設備に変更はありませんでしたか」エレナがふと尋ねた。「……午前一時五十八分に、北棟の結界炉を再起動しております」エレナの指が止まった。発作が激しくなった時刻と、ほとんど重なる。「偶然かもしれません。だから、記録します」

エレナが立ち上がろうと身を引いた、その時だった。冷たい指先が、エレナの手首へ伸び、触れる寸前で止まった。震える手が、宙に残る。

「……行くな」掠れた声。エレナは床の上に座り直し、自分からその手を取った。

「ここにいます」

レオナードの指先から震えが引くまで、エレナは静かに脈動を見守り続けた。

夜の診療所の机上に、一枚の古い羊皮紙の複写が広げられていた。レオナードが公爵家の秘密文庫から持ち出してきた、十九年前の『発症初期記録』。エレナは拡大鏡を覗き込み、細いペン先で文字の配列を追っていた。

「……やはり、ここです」エレナの呟きに、向かいに座るレオナードが視線を上げた。「何が分かった」「記録の欠落です。王歴六四二年、初夏の園遊会における発症当日。その記述の直後――三日分のカルテが、綴り紐の根本から精密に切り取られています」エレナは拡大鏡をレオナードに渡した。羊皮紙の縁に、鋭利な刃物で引かれた切断痕が残っている。

「当時の侍医寮の記録規定では、重大疾患の初発から七十二時間は、二時間ごとの測定が義務付けられていたはずです。初発から七十二時間に当たる三日間だけが、物理的に存在しない」「隠滅されたのか」「断定はできません」エレナは手元の調査記録に目を落とした。「当時の日誌の当番医欄には、一人の署名があります。……アルベルト・ヴァインベルク卿。現在の王立生命評議会筆頭評議員です」

重い沈黙が落ちた。レオナードの藍色の瞳が、冷たく据わる。「アルベルトか。……あいつが、十九年前の私の胸に何かをした張本人だと?」「いいえ、そこまでは断定できません」エレナは即座に釘を刺した。「アルベルト卿は当時の筆頭侍医代理でした。責任者として名前が残っていることと、彼自身が不正を行ったこととは同義ではありません。当時の混乱による紛失の可能性も、第三者が彼の権限を利用して持ち去った可能性も排除できません。……これだけで証拠と呼ぶには、まだ足りない」

レオナードは息を吐き、机の上の記録を見つめた。「冷静だな、エレナ」「医師ですから。思い込みで犯人を決めつけるのは、誤診と同じです」

エレナは書類を丁寧に畳み、引き出しへ収めた。「記録の出所は追います。……来週には、王家主催の秋の舞踏会が控えています」

レオナードの表情が硬くなった。十九年ぶりの公式の場への出席。「出席の勅命が出ている。評議会の連中も総出で私を監視するだろう」「公の場での長時間の滞在は、精神的緊張から交感神経を過剰に刺激し、脈の波形を乱す恐れがあります。……専属医として同伴し、状態を監視させてください」「……ああ。頼む」

一週間後の舞踏会。レオナードは黒手袋のまま、十九年ぶりに公の場へ戻った。監視のために踊ったワルツの途中、彼が「脈が速いぞ」と言うと、エレナは扇子で口元を隠した。「……室温です」黒革越しにも、彼の脈ははっきり伝わってきた。

その翌日、午後六時。診療所に現れたレオナードは、無地の黒いシャツに濃紺のズボンという簡素な服装だった。入室するなり両手の手袋を外し、卓上に置く。

「昨夜の舞踏会後、体調に変化はありませんでしたか」「ない。手袋越しに人々とすれ違ったが、魔力の乱れも起きなかった」「結構です。……今日からは予定通り、体幹部の触診に入ります」エレナは真鍮製の聴診器と、先端に水晶を留めた共鳴棒を机に出した。「手首の触診だけでは、第二の脈の真の発生源を特定できません。波形の到達時間から計算すると、震源は手首ではなく胸部深層側にあります。服越しでは布地の魔力抵抗に吸収され、波形が鈍る。直接、胸部の触診を行わなければなりません」

レオナードは無言のまま、自らの胸元へと視線を落とした。喉元まで留められた銀ボタン。「嫌であれば、無理強いはいたしません。手首だけでは発生源を特定できません。胸部を直接触診します」

沈黙の後、レオナードは右手を胸元へ伸ばした。「……見せるのは、初めてだ」第一、第二、第三のボタンが外され、黒い布地が左右へ開かれる。鍛え上げられた青白い胸郭の、胸骨のやや左側――心臓の真上に、それはあった。

直径三寸ほどの不整形な瘢痕。皮膚が引き攣れ、熱した鉄を押し当てられたかのように黒ずんで繊維組織が盛り上がっている。その周囲からは、青黒い筋が四方へと走っていた。

「これが、十九年前の発症の日の傷だ」レオナードは苦い息を吐いた。「離宮の庭園で胸が焼けるように痛んで倒れた。駆け寄った母が私を抱き起こそうとし……その瞬間から、母の生命魔力は大きく失われていく。この傷は、母の魔力が引きずり込まれた反動で皮膚が焼けた痕跡だと、評議会から聞かされていた」

エレナは席を立ち、レオナードの正面に立った。「触れてもよろしいですか」「……ああ」

極小出力の生命触診。エレナの温かな指先が、黒ずんだ瘢痕の表面へと触れた。レオナードの胸筋が緊張で硬くなる。指先を滑らせ、硬結の輪郭と深度を確かめていく。ドク……ドク……ドク……。心筋の拍動。そして――。チ、チ、チ、チ、チ……!手首で捉えていたものより、硬質で直接的な振動。第二の脈は、この瘢痕の直下で最も強く捉えられた。

だが、エレナの指先が捉えた違和感は、それだけではなかった。(……瘢痕の形状が、表面からの傷だけでは説明しにくい)

「ここに、公爵様の身体とは違う反応があります」エレナは指を離さず、硬結の境界を撫でながら言った。「何かが入っている?」「可能性はあります。瘢痕の中心深部に、米粒大ほどの異質な硬結を触知します。ただ、触診だけで結論を出すのは早計でしょう」エレナは慎重に言葉を選んだ。「評議会の『表面から受けた反動傷』という説明と、深部の硬結・命脈反応の分布が一致しません。評議会の説明では母君の接触後にできた傷とされていますが、硬結は瘢痕の中心深部にあります」

レオナードの藍色の瞳が見開かれた。「母が触れたから焼けたのではないと……?」「母君が触れたことだけでは、この深部の硬結を説明できません」

レオナードは開かれた自らの胸元を見つめ、それから震える指先でシャツの布地を握りしめた。十九年間、母を害した自責の烙印として背負い続けてきた傷。その前提が、目の前の女性の指先によって静かに揺らぎ始めていた。

冬の気配が本格的になり、診療所の暖炉には常に火がくべられていた。午後六時。入室したレオナードは手袋を外し、長椅子に腰を下ろした。「本日の触診を始めます」エレナは素手の指先を彼の手首に添えた。一分、二分。脈拍、六十四。整。第二の脈の振幅も過去最低値を維持している。胸部の硬結周囲にも熱感はなく、神経反射も清明。

「……触診終了です。異常なし、です」エレナは手を離し、カルテへ向き直ろうとした。「本日の診察において、これ以上の医学的処置を行う根拠はありません」

だが、レオナードは腕を戻さなかった。肘掛けの上で右の掌を開いたまま、エレナを見上げた。「異常がなければ、触れてはいけないのか」「診療上、これ以上触れる必要はありません。手をお戻しください」エレナが告げると、レオナードは静かに、一度その手を引っ込めた。

そして――。レオナードは改めて、ゆっくりと右手を差し出した。掌を上に向けたまま、彼女の身体には触れず、ただ空間に手を留める。

「診察は終わっています」

「知っている」

「では、なぜ」

「理由がないと、君の手を握ってはいけないのか」

低い、静かな問いだった。彼は強引に掴もうとはしなかった。ただ、開いた手を差し出したまま、彼女の選択を待つ。

エレナの喉元が動いた。白衣の裾を握っていた左手を離し、ゆっくりと、その開かれた掌の上へ自らの手を重ねた。

一度触れただけで終えるつもりだった。けれどエレナは、自分から指を一本、彼の指に絡めた。

指と指が合わさった。レオナードの手が、ゆっくりとエレナの手を包み込む。暖炉の火が、小さく爆ぜた。二人は何も言わなかった。

雪混じりの冷たい雨が窓を叩く夕暮れ。机の上には、二十三日分の診療録とカレンダーが置かれていた。三十日の契約満了まで、あと七日。午後六時。入室したレオナードは手袋を外し、長椅子に座った。

「本日の出力測定を行います。手を」エレナは極小出力の触診を添えた。ドク……ドク……ドク……。第一の脈。――チ……チ……。第二の脈の振幅は、初診時の二割以下まで低下していた。棘の先端は丸まり、拍動の間隔も不規則に延びている。

「良好です。第二の脈の振幅は初診時の二割以下で、拍動間隔も不規則です」エレナが手を離しかけると、レオナードの指先が動き、寸前で止まった。「……もう少し、このままでいてもいいか」「診察として、ですか」「……今は、それでいい」エレナは手を離さなかった。「通常の魔力を持つ第三者が触れても、術式が起動しない可能性が高まっています。近いうちに、第三者との接触試験を行える段階に入ります」

レオナードの瞳に、深い影が落ちた。「私が誰にでも触れられるようになれば……お前の役目は終わるのだな」「はい。契約期間の三十日も、残すところ一週間です。この治療のゴールは、私がいなくても公爵様が安全に暮らせることですから」

レオナードは卓上の診療録に目を落とした。毎日、午後六時。この部屋で脈を数え合ってきた時間。治るということは、その必然性を手放すことだった。

「エレナ」レオナードは卓上で右手を差し出した。エレナがためらいながらその掌に手を重ねると、彼は静かに指を閉じた。「私は、治りたい。十九年間奪われてきた身体と尊厳を取り戻したい。……だが」

「治るほど、君が遠くなる」

エレナは息を呑み、白衣の袖口を指先でつまんだ。「……公爵様。患者が医師を必要としなくなることこそが、医療の役目です」

レオナードは反論しなかった。ただ、カレンダーの赤い斜線を見つめ、静かに問いかけた。

「……あと、何回だ。あと何回、こうして君に……診察として触れられる?」

問われたエレナは、手元を見つめたまま、答えることができなかった。

その二日後、王立生命評議会は胸部硬結の精査を理由にレオナードを北塔へ移した。専属診療契約は残っていたが、北塔での処置権限は評議会側に移された。

評議会北塔の特別療養室。夜、レオナード本人の面会希望が認められ、ルーカス同伴で室内に入ったエレナは、暗がりの中に座り込むレオナードの姿を見出した。彼は右腕を抱え、荒い息を吐いていた。手首の血管が青紫に浮き上がっている。

「……エレナ?」レオナードが驚愕に目を見張った。「なぜここへ……」「症状が戻っています。まず状態を確認させてください」エレナは歩み寄った。だが、レオナードは右腕を背後へ引き、触れさせようとしなかった。

「……触れるな」レオナードの声は震えていた。「ここでは君は担当医ではない。痛むからといって君の手に縋れば、君を薬のように扱うことになる。……私は、それをしたくない」

エレナは息を呑んだ。強引に腕を掴まず、彼と同じ床の上、すぐ隣に静かに腰を下ろした。

「今日は、治療師として来たわけではありません」「……では何として?」「あなたを心配している人として、ここにいます」

エレナは手を伸ばさない。ただ、隣で静かに息を整えている。沈黙の中、レオナードの荒い呼吸が室内に響く。やがて――レオナード自身が、背後に隠していた右手をゆっくりと前へ出し、膝の上に置いた。

「これは、治療か」「いいえ」「なら……そばにいてほしい」

その言葉を聞いて初めて、エレナは彼の手を両手で包み込んだ。温もりを分け与えるように、指を重ねる。急激に痛みが消え去るような奇跡は起きない。だが、互いの体温を確かめ合う時間の中で、レオナードの肩の強張りは解け、呼吸は深さを取り戻していった。

翌朝。ルーカスが公爵家の閲覧権限で取り寄せた十九年前の機密計画書と術式展開図が、特別療養室の机に並んでいた。

「計画書には『国家安定』『有力武門の継承制御』『内乱予防』という語が繰り返されています」エレナは客観的に告げた。付属術式図には、胸部に埋め込む《自律型術式核》の構造が示されていた。接触した人間の生命魔力を捕捉し、その一部で核自身を維持しながら、別経路で継承系命脈の活動を抑える――その設計は、レオナードの十九年間の所見と寸分違わず重なる。

エレナは付属資料の末尾で、もう一枚の術式図に目を留めた。

術式核を移送・保管する際、活動を抑制するための《氷晶静止法》。低温下では核のエネルギー循環が鈍ると記されている。

エレナはその記述を何度も読み返した。

(これを、保管ではなく摘出時の局所休眠に転用できれば――)

「国を守るためだと?」レオナードが冷ややかに言った。「ええ。ですが、どれほど国全体を救うという大義を掲げようと、治療する側が、誰の人生に価値があるかまで決め始めたら、それはもう医療ではありません。単なる個人の尊厳への侵奪です」

エレナは付属術式図を指した。「《氷晶静止法》を用います。全身の循環と呼吸を補助しながら代謝を人為的に低下させ、術式核の周囲だけを局所的に低温休眠させる。エネルギーの流動を極限まで抑えた状態で、私の極小出力触診で接続境界を読み取り、微細剥離器具で一本ずつ周囲組織から外します」

「成功率は」「数字で示せるだけの症例がありません」「成功例は?」「確認できません。ただ、今まで集めたデータから、安全性を上げる条件は絞れています」危険な治療だった。だが、レオナードは迷わずエレナの正面に立った。彼は素手を差し出し、エレナの目をまっすぐに見据える。

「私の身体の処置は、私が決める。……評議会ではない。君に託す」差し出された手を、エレナはしっかりと握り返した。「分かりました。あなたが選んだ治療を、最後まで支えます」

処置台に横になる直前、レオナードはもう一度、右手を差し出した。エレナがその手を取ると、彼は指を静かに絡めた。

「私の身体は、お前の手の形を覚えている」

レオナードは握った手を離さずに言った。「眠る前に、君の手を握れてよかった。……目覚めて最初に触れるのも、君がいい」

「……はい。約束します」

処置室内は、術式冷却器によって局所的な低温状態が維持されていた。台の上のレオナードの心拍数は、代謝低下処置により一分間に四十回前後まで意図的に引き下げられている。自律呼吸は浅く保たれ、補助換気と循環補助術式が低代謝状態の呼吸と循環を慎重に支えていた。

エレナは銀の極細メスを構えた。正中線に沿って、瘢痕組織を二寸切開する。血流は局所冷却により最小限に抑えられている。結合組織を分け入った心膜の直上――そこに、鈍く白銀色に光る米粒大の《術式核》が埋没していた。表面には精緻な魔導術式文字が彫り込まれ、周囲の冠状動脈や心筋の膜へ向けて、数十本の銀色の微小結合糸が蜘蛛の足のように根を張っている。

「局所温度、目標値到達。核のエネルギー流動、低下しています」評議会付きの助手治療師が計器を読み上げる。「剥離を開始します」

エレナはメスを置き、極細の金匙を握った。自身の生体魔力出力を、検出限界に近い値まで落とす。一本目。心筋表面の血管から、銀の糸をミリ単位で浮かせる。二本目、三本目。組織を傷つけず、糸を破断させず、滑らせるように解く。額から汗が滲み出るが、指先の触覚は静かに研ぎ澄まされていた。

「先生、心電図の波形が乱れ始めました。期外収縮です」「局所温度を〇・二度下げて。循環波形は維持して」

剥離を進め、残る結合糸は最後の一本となった。下腹部――《継承系命脈》へと伸びていた、最も太く深い基底根。大動脈弓の裏側の膜に、強固に固着している。

「先生、今なら基底根の根元をハサミで一気に切断できます」助手治療師が器具を差し出し、切迫した声で告げた。だが、エレナは器具を受け取らなかった。

「切らない」エレナは断固たる声で言った。「切らない。まだ彼の身体とつながっています」

無理に切断すれば、核内部の蓄積魔力が切断面から血管内へ一気に噴出する。エレナは器具を置き、指先に薄く透明な《無菌感応膜》を展開した。生体防御の滅菌性を保ちながら、皮膚直下の感覚受容器の解像度を損なわない極薄の医療用感応被膜。彼女はその指先を切開創の中へ慎重に差し入れ、基底根と大動脈の境界面へそっと添えた。

エレナが魔力で拍動を起こすのではない。指先を研ぎ澄まし、レオナード自身の心筋が送り出す固有のリズムに全神経を同期させる。ドク……、ドク……。周期を読む。波の立ち上がりを待つ。

(……今)

彼自身の心臓が打ったその一拍。内圧によって基底根がコンマ数ミリだけ浮き上がった瞬間を捉えて、エレナの指先が滑らかに結合糸を剥離した。組織から切り離された白銀の核を、ピンセットで摘み上げ、用意していた鉛張りの密閉容器の中へ落とし込む。カチャリと蓋が閉められた。

「核の摘出完了。加温を開始。止血を確認後、閉創に入ります」

縫合が終わり、局所冷却が解かれた。補助処置により体温が戻り、心拍数は六十、七十と正常値へ回復していく。麻酔の供給を止め、覚醒を待った。だが、予測していた時間を過ぎても、レオナードは瞼を開かなかった。閉ざされた瞼。蒼白な唇。

「旦那様……? 先生、旦那様が目覚めません……」ルーカスの声が強張る。エレナは処置台の横に膝をついた。手袋のない、レオナードの冷たい右手を、自らの両手で包み込む。創部は縫合され、周囲を走っていた青黒い命脈反応は弱まっていた。あの機械的な第二の脈は、もうどこにも触知されなかった。

「レオナード様」エレナは呼びかけた。「戻ってきてください。約束しました……目覚めて最初に触れるのも、私だと」

トクン、とレオナードの手首の脈が跳ねた。包み込んでいたエレナの手を、彼の指先が握り返してきた。睫毛が震え、藍色の瞳がゆっくりと光を捉える。視線の先にいるエレナの姿を捉えた瞬間、彼の唇が動いた。

「……エレナ」

掠れた声が、静寂の手術室に落ちた。他者の命を奪うことのない、ただの温もりを宿した素手で、彼は何よりも先に、彼女を呼んでいた。

冬の朝の澄み切った光の中、レオナードは最終総合検査のために訪れていた。胸部の瘢痕は綺麗に塞がり、一本の白い線となっている。

術後から今日まで、第二の脈は一度も再出現していない。ルーカスを含む複数の協力者との接触でも有害反応はなく、胸部の異常な命脈反応にも再燃は認められなかった。

エレナは最後に、極小出力の触診で彼の下腹部――継承系命脈を慎重に確認した。

「所見を申し上げます」エレナは手を離し、カルテを胸に抱えた。「継承系命脈に、現在明らかな抑制所見はありません。……ただし、将来子どもを持てるかどうかを、この検査だけで保証することはできません」「分かっている」レオナードは頷いた。「家系図のために生きているのではない」

レオナードは立ち上がり、掌を上に向けてエレナへ差し出した。かつて彼女が投げかけた言葉を、真摯な瞳で尋ね返す。

「……触れても、よろしいですか」

胸が熱くなる。「はい」二人の素手が合わさる。乱れのない、規則正しい命の律動。エレナの声に迷いはなかった。

「治っています」

息を吸い、エレナは静かに言葉を重ねた。「以上をもって、専属診療契約を終了します」

その日の午後、レオナードは十九年ぶりに別邸の母・セレスティアの元を訪れた。庭園の見えるサロン。暖炉のそばの長椅子から、白髪の混じった母がゆっくりと立ち上がった。近づくが、母は手を伸ばさない。かつて生命魔力を損なった記憶が、二人を隔てる見えない壁となっていた。

「今度は、あなたから来なさい」セレスティアが涙を湛えて微笑んだ。

レオナードが一歩を踏み出す。二歩。そして――躊躇なく、自らの両腕で母の細い身体をしっかりと抱き締めた。

何も起きない。吸魔の冷気は立ち昇らない。ただ、母と息子の生身の体温が重なり合い、十九年分の涙が、レオナードの肩を濡らしていった。離れた場所からその光景を見守っていたエレナは、静かに診療鞄の留め具を締めた。

診療が終了してから三日後の午後六時。もう訪れる理由のないはずの時刻に、診療所の扉の鈴が鳴った。階段を駆け下りたエレナの前に立っていたのは、夜会用のマントを羽織ったレオナードだった。手袋はない。

「公爵閣下……? 何か急変ですか」「痛むところなど、どこにもない」レオナードは診察室に入り、マントを脱いだ。「……なぜ」

「理由がなければ、来てはいけないのか」レオナードは歩み寄り、エレナの前で足を止めた。「患者でなくなった今だから、聞きたいことがある」

息が詰まる。レオナードは右手を差し出した。「触れてもいいか、エレナ」「……はい」二人の手が重なり合う。隙間なく絡み合う指先。

「子を持てるかどうかは、今も分からない」レオナードは低く言った。「それでも、私と結婚できるか」

エレナは濡れた瞳を上げ、まっすぐに彼を見つめ返した。「そのことは、私の答えを変えません。……子どもを持てるかどうかで、あなたを選ぶわけではありません」

レオナードの藍色の瞳に、熱い光が灯った。「エレナ。君が好きだ」飾りのない告白。「公爵としてではなく、一人の男として、君の隣にいたい。私の妻になってくれないか」

握り合っていた彼の手を、エレナは自らの両手でぎゅっと包み直した。「……はい。私も、あなたが好きです、レオナード様。……ずっと、あなたの側にいたいです」

レオナードの口元が、幸福そうに綻んだ。彼の手がエレナの頬へと伸ばされる。唇が近づく。だが、触れる直前、レオナードは動きを止めた。至近距離で、息がかかる。

「触れてもいいか」エレナは泣き笑いのような息を漏らした。「今さらですか」「今までとは違うから、聞いている」

レオナードの真摯な眼差しに、エレナは小さく頷いた。「……はい」

重なり合ったのは、手のひらよりもずっと熱い、唇の温もりだった。レオナードはポケットから細い白金の指輪を取り出し、エレナの左手の薬指へ滑り込ませた。内側には、六時の鐘を象った刻印がある。

春の陽光が降り注ぐ王都に、真新しい研究所が設立された。――王立生命触診・再生診療研究所。初代研究診療責任者として白衣を纏うエレナの元には、原因不明の神経障害に苦しむ患者が各地から訪れ、診療が始まっていた。同時に、新たな治療法を目指す前臨床研究も進められている。レオナードは公爵として、その研究基盤を公的に支える支援者となっていた。

開設を祝う夜会。公爵邸の控室で、従者ルーカスが昔の習慣で黒手袋を差し出した。レオナードの返事は、無言の首振り。「もう、必要ない」手袋を受け取り、捨てたりはせず、木箱の底へ静かに収めた。それは彼が生き抜いてきた十九年間の、確かな証拠だった。

王宮の大広間。光の降り注ぐ中、レオナードは素手で握手を交わしていた。母セレスティア。近衛の兵たち。旧友たち。誰の手にも触れられる自由を手に入れた男の姿。

レオナードはホールの端に立つエレナの前へと進み出た。右手を差し出す。「一曲、踊ってくれないか」「喜んで」

二人はホールの中心へと滑り出していった。素手と素手の接触。レオナードが踊りながら耳元へ囁く。「脈が速いぞ」「踊っていますから」「前にも聞いたな」「では……室温です」「それも聞いた」エレナは顔を上げ、彼の藍色の瞳を見つめ返した。もう扇子で隠すこともしない。「……あなたが、近いからかもしれません」レオナードの唇の端が、満足そうに持ち上がった。

旋回の中、エレナは彼の手の温もりを確かめながら言った。「もう、私でなくても誰にでも触れられますね」「ああ」レオナードはエレナの手を、しっかりと包み直した。

「触れられる人は増えた。……だが、触れたい人は、一人しかいない」

ステップが静かに止まり、二人は互いを見つめ合った。

触れれば分かることは多い。脈も、熱も、痛みも、命の乱れも。けれど、この手を離したくない理由だけは、もう診断する必要がなかった。二人の手のあいだに、黒手袋はなかった。


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