第一話 弁当の匂いの何が悪いんかい
「離婚届、こちらで受理しました」
区役所の若い職員が、どこか気まずそうな顔でそう告げた。
今井美緒、四十二歳。小さな弁当屋を切り盛りして十五年。そして、離婚一回目。
原因は単純だった。
夫の浩二が、職場の二十四歳の後輩と浮気したのだ。
最後に言われた言葉は、今でも腹が立つ。
「美緒はいつも弁当の匂いがするから」
弁当の匂いの何が悪いんかい。
そう思いながら区役所を出て、その夜は店に残った惣菜を一人でやけ食いした。
もういい。これからは自分のために生きよう。
そう決めて眠ったはずだったのに——次に目を開けたとき、美緒は見知らぬ天蓋付きのベッドの上にいた。
石造りの壁。重たそうなカーテン。ふかふかすぎる寝具。
鏡に映っていたのは、二十代前半にも見える若い娘の顔だった。
「……転生、ってやつ?」
どうやら美緒は、前世の記憶をまるごと持ったまま、異世界の令嬢に生まれ変わったらしい。
名前はエリカ。十八歳。
そして転生先でも、いきなり既婚者だった。
夫の名はフィリップ・ランベルト。
初めて顔を見た瞬間、美緒は心の中で乾いた声を出した。
……なんでまた、浩二系やねん。
彫りの深い顔立ちに、すらりとした長身。
前世の元夫に驚くほどよく似た男は、案の定、中身までろくでもなかった。
しかも今回は、前より質が悪い。
「君もわかってくれ、エリカ。ファリスは社交の場で映えるし、愛想もいい。侯爵夫人として隣に立たせるなら、その方が都合がいいんだ」
フィリップの腕にしなだれかかっていたのは、エリカの妹のファリスだった。
勝ち誇ったように目を潤ませているが、美緒が見ていたのは妹ではなく男の方だ。
浩二は、自分が一番可愛い男だった。
このフィリップは、自分の体面が一番大事な男だ。
恋だの愛だのではない。
この男は、妻という存在を、自分を飾るための額縁くらいにしか見ていない。
「はいはい、わかった。離婚するわ」
「……え?」
「どうぞどうぞ。そういう男には、もう慣れてるの」
前世で一度経験済みである。
泣きもわめきもしない。荷物をまとめ、離婚書類に署名させ、さっさと旧姓であるバーレット姓に戻って侯爵家を出た。
持ち出したのは衣類と、思いついた料理を書き留めたレシピノートだけ。
二度あることは三度ない。
次こそ、顔のいい男は絶対お断り。
そうして身を寄せた先で、使用人のつてから紹介されたのが、王宮の厨房勤めだった。
「住み込み可、給金も悪くありません。忙しいですが……」
「行きます」
即答だった。
王宮の厨房は広く、熱気に満ちていた。
大量の野菜が刻まれ、肉が焼かれ、鍋がいくつも火にかかっている。
前世で弁当屋を回していた美緒にとって、その慌ただしさはむしろ心地よかった。
朝は早い。仕込みは多い。力仕事もある。
でも、美味いと言ってもらえた瞬間に全部吹き飛ぶ。
それは前世から変わらない。美緒という人間の芯みたいなものだった。
そうして厨房勤めを始めて三か月が過ぎた秋のこと。
王妃が亡くなった。
流行り病だったという。あっという間だった、と皆が囁いた。
王宮全体が喪に服し、廊下を行き交う人々の声まで沈んだ。
その中で、エリカが気になっていたのは、四歳の第一王子アンドルーと、三歳の第一王女シャルロットのこと。
「最近、お子様方がほとんど召し上がらないそうで……」
「料理長が何度も献立を変えたのですが、一口ふたくちで終わってしまうとか」
厨房の端で交わされる会話に、エリカは手を止めた。
胸の奥で、何かがするりと動いた。
「少し、試してみてもいいですか」
その日の昼。
エリカは料理長に頼み、大きな白皿を一枚借りた。
ふっくらしたケチャップライスを小さく丸め、旗を立てる。
卵はふわりと焼き上げ、ケチャップで笑顔を描く。
小さなソーセージは蛸の形に切り、人参は星型に抜いてスープへ。
そして最後に、卵と牛乳と蜂蜜でとろりとした黄金色のプリンを作った。
「……なんですか、これは」
「おこさまランチです。子供が見て楽しくて、食べて嬉しいご飯です」
「ですが、お子様方の食事部屋に厨房の者が入るなど……」
「見せるだけでいいんです。食べなかったらすぐ下げます」
困惑する周囲を押し切り、エリカは皿を持って子供たちの部屋へ向かった。
扉を開けたとき、そこにいたのは、静かすぎるほど静かな二人の幼い子供だった。
アンドルーは母親譲りの金髪に青い目の、聡そうな顔立ちの男の子。
シャルロットはくるくるの巻き毛が愛らしい、小さな女の子。
二人とも目の下にうっすら隈があった。
エリカはそっと皿を机に置いた。
「……なに、これ?」
アンドルーの声は落ち着いていたが、その落ち着き方が子供らしくなかった。
「おこさまランチっていうんです。真ん中はオムレツ。ふわふわしてて、少し甘いですよ」
シャルロットが、ちいさな手を伸ばした。
「おにいさま、みて。おほしさま」
星形の人参をつまんで口に入れ、もぐもぐと頬を動かす。
やがて、小さな声がこぼれた。
「……おいしい」
アンドルーもそっとスプーンを持ち、オムレツを一口食べた。
しばらく無言だったが、やがて目を丸くする。
「……ふわふわ」
「でしょう」
「……もうちょっと食べたい」
「どうぞ」
その日、二人は久しぶりに食事を完食した。
厨房へ戻ると、同僚たちが妙に静かだった。
何人かが目元を押さえていたが、エリカは知らないふりをして手を洗った。
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